2010年1月23日 (土)
神後伊豆宗治
剣聖上泉伊勢守信綱の高弟に神後伊豆宗治と疋田文五郎がいる。上泉信綱は箕輪長野業正・業盛親子に仕え、長野家滅亡後に、武田信玄の仕官要請を断り、新陰流を普及させるため諸国流浪の旅に出たという。この時に供をしたのが神後伊豆と疋田文五郎である。
永禄六年(1563)の陽春、郷国上州をあとにした上泉伊勢守信綱は、年若き懇弟疋田豊五郎、老弟鈴木意伯の両人と数名の従者を召しつれて、板東諸国を歴遊したところ、新陰流兵法に一人として対当するものもなく、東海道を上って、尾州清洲城で信長に謁して引きとめられたが、もとより仕える志がないから、しばし足を留めただけで辞去した(柳生厳長著『正傳・新陰流』)。
奈良柳生の庄で柳生石舟斎が上泉信綱の試合を望んだとき最初に立ちあい勝ったのは神後伊豆である。又、将軍義輝公に上泉信綱が新陰流を上覧したときの打太刀は神後伊豆が務めた。
【神後伊豆守】神後伊豆守(名は宗治、一に元冶。武州八王寺の出身、上州箕輪城主長野氏の臣。晩年尾州に仕うとも、また奥州秋田におもむいたともいうが不明)は上泉伊勢守にしたがって諸州を修行し、微妙を得た。ゆえに将軍義輝公が神後を召してその伝を得んことを請う。後に関白秀次公もまた神後を師とした。神後の門に遊ぶ者の中では服部藤次兵衛が傑出していた。はじめ平安城に居し、後、江都に来た。柳生但馬守が服部のことを大猷大君(家光)の台聴に達したから、大猷大君から褒詞があり、また上使を以って真明剣を服部に尋問されたのに、服部つつしんでこれを言上したてまつった。また和田兵斎・土屋将監という者があって服部と同じく神後に学んでその術神の如きであった。神後は兵斎が豪気で精妙を得たのを賞して、上泉より相伝するところの化羅(掛絡の俗字、袈裟をいう)を兵斎にさずけた。将監は後、奥州におもむく。死処は不明だが、佐竹家臣渡辺七郎右衛門という者がその伝を継ぐ(綿谷雪著『日本武芸小傳』)。
武州八王寺とは現在の八王子市元八王子町である。ここに往古、慈根寺という古刹があり、建暦三年(1213)五月二日の和田合戦で滅んだ横山氏の人々の中に「…ちみう(ちこんしィ)次郎・同太郎・同次郎・同五郎…」がいる。「ちこんしィ」は慈根寺のことでである。神宮寺とも後に言われた。神後伊豆は神宮伊豆とも書かれている。神後伊豆は『戦国人名辞典』(新人物往来社刊)に武州八王子の地侍の生まれとあるから、この末裔であろうか。
鈴木意伯は母方の姓であるという。鈴木氏は大石道俊の家臣に鈴木中務丞や、大石縄周や北条氏照の家臣になった鈴木周広や鈴木弥五郎がいる。八王子城で討死した人々を記した相即寺過去帳には、鈴木佐渡守・鈴木彦八・鈴木庄五郎がいる。
元八王子村の道場尾根(通称峯山)には神後伊豆の道場があったという言い伝えがあるが、時宗の二世、他阿の道場跡ではないかと思われる。
神後伊豆の差していた刀は武州下原鍛冶の周重である可能性が強い。そして、今は枯れて切られてしまったが、建久二年(1191)であろうか、梶原景時の突いていた杉の枝が根づいたといわれる梶原杉は樹齢780年と言われ、神後伊豆も天文年間(1532~1554)には見ていたのではないだろうか。この大杉は私の育った当時の村のシンボルであった。今から思うと不思議な懐かしい気がする。
神後伊豆宗治
今書いている詩(917)「たろうさんの孫(39)
たろうさんの孫(39)
キミのしぐさの
ひとつひとつが
わたしのこころを
癒やしてくれる
最初は泣く
次に笑う
寝返りを打つ
言葉を発する
お座りする
ハイハイする
掴まり立ちする
キミはじぃ~ちゃんを
次々に喜ばせる
9ヶ月目の孫よ
髪の毛が長くなったね
3日逢わないと
また新しいことをしてる
次は何をするんだい
わたしの希望の孫よ
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戸田清玄
2010年1月29日 (金)
戸田清玄
戸田清玄は富田勢源と同一人物と思われているが別人である。清玄と勢源は読み方が同じだから同一人とする人が多い、勢源は京都将軍(足利氏)の末、清玄は豊臣太閤の頃の人である。清玄は諸国を巡遊して門人が多いが、国々によって幾らか教え方が違うらしい(諸国の流末の剣法内容に差異がある)。現在、備前・備中・備後におこなわれる戸田流もその一つで、清玄門人の杉原無外という者が居合・棒を工夫して弘く伝えたのであるが、一説にはこの流の居合も棒も元は清玄がはじめたのだともいう。
戸田清玄は疑問の多い人物で、堀正平氏が清玄は俗名平五郎で富田勢源の門弟としておられるのに対して、山田次郎吉氏は別説で、初代戸田清玄が富田勢源その人であり、家を弟景政にゆずって以後、戸田清玄と書換え、流名も富田流から戸田流に改めたといい、さらに戸田新八郎(越後守、綱義、一利とも)が二代目戸田清玄であって、この人は越後国頸城郡戸田の産とも芸州の人弥左衛門星眼の子ともいわれ、文禄のころ疋田栖雲斎(文五郎)に新陰流を学び、加賀前田家につかえて五〇〇石、寛永十五年(1638)金沢に死す。七十五歳。『翁物語』に上泉門の四天王という疋田・柳生・戸田・小笠原の内の戸田清玄は、二代目戸田清玄の新八郎にちがいない、云々。
松原唯心の『武芸談』(寛永)に、「……一刀流の元祖戸田清玄というものは、武州八王寺の者にて、北条氏政につかえし者なり……」という一条がある。これは戸田清玄の出身地に関しては、私の見た限りでは唯一のぶんけんである。著者の松原唯心の経歴は不明であるが、私だけの推測では古藤田勘解由左衛門(伊藤一刀斎の門人で号を唯心という)の前名ではないかと思う。薙刀の武甲流伝書を見るに、流祖を戸田清玄とし、「戸田清玄ー北条氏邦ー強矢弾正ー大福御前…」以下の承伝が残されているのを併せ考えるのに、前記のごとく戸田清玄が北条氏の遺臣だったことは正当とおもわれる(綿谷雪著『日本武芸小傳』)。
佐々木小次郎については、中条流の富田勢源の弟子と『二天記』に記されているけれど、信憑性が曖昧で、勢源の弟子なら、恐らく六〇歳を超えるし、勢源の弟子の鐘捲自斎か戸田清玄の弟子では無いかという説がある。数年前に私の小学時代の恩師、須田忠治先生が佐々木小次郎が修行した越前の地にある滝の図を年賀状に書いて下さった。今から思うとこれも不思議な縁である。
戸田清玄の八王寺の出身地については、神後伊豆ほど明確に特定できない。八王子は北条氏照が由井の深沢山に八王子城を築いた後に(天正六年頃か)広く使われた地名である。
たろうさんの気象観測所☀
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風間(魔)が村にやってくる
2010年1月30日 (土)
風間(魔)が村にやってくる
『新編武蔵風土記稿』巻之百十一多摩郡之二十三(雄山閣版『新編武蔵記稿』第六巻81頁)の上段に、舊家百姓軍次とある、以下これを記す。
氏は吉野なり先祖は北条の麾下にて、吉野対馬守橘盛光といへり、天正元年四月二十九日没す、法名を凌雲院貴州道富と号す、其子九郎右衛門もまた対馬守と稱せり、これより以來世々相續して今十三代に及ぶと家紋丸ノ内に酸漿草替紋丸ノ内橘なり、家系武器なども中古まで傳へたりしが、今は散逸せしと云、たゞ文書二通を蔵するのみ、その文左にのみ、
風間來七月迄、六ヶ村被爲置候間、宿以下之事無
相違可申付候、萬一對知行分、聊も狼藉致ニ付而者
風間ニ一端相ニ斷、不致承引者、則書付者小田原へ可
棒候、明鏡ニ可爲致之者也、仍如件、
北条家虎印あり
壬申五月七日 按ずるに壬申は元龜三年なるべし、
笠原藤左衛門奉
岩井彌右衛門殿
中村宮内丞殿
足立又三郎殿
濱野将監殿
立川藤左衛門殿
読み下し文
風間来る七月迄六ヶ村置かせられ候間、宿以下の事
相相違なく申し付けべく候、万一知行分に対し、いささかも
狼藉致すに付いては
風間に一端相断り、承引致さざるもの、則書付は小田原へ
捧げべく候、明鏡におおせ付けらるべく候、馬の草薪取儀をば
相違なくこれを致させべく者なり、仍てくだんの如し、(清水菊子)
文中に風間(魔)といへるは、小田原北条家にかゝへおける亂波なり、亂波とは忍の者のことにて、あるひは透波とも云、風間(魔)はその首領にて、諸國を廻り軍事をたすけしものなり、
角川書店『新編武州古文書上』398頁には〔舊檜原村本村軍次所蔵吉野氏〕(東京都西多摩郡檜原村本宿)とある。北条家印判状の印文は「禄寿応隠」である。「人民よ、皆で平和に暮らそう」の意味で、北条の始祖、早雲は「民の幸せなくして、国の発展などありえない」が口癖であったという。
風間(魔)の在村は五月七日より、七月迄の二ヶ月に及んだのであろう。奉行の笠原藤左衛門と濱野将監・立川藤左衛門については下山冶久編『後北条氏家臣団(人名辞典)』東京堂出版にその名がある。岩井弥右衛門尉・中村宮内丞・足立又三郎についてはこの文書以外不明。岩井弥右衛門尉・中村宮内丞・足立又三郎・濱野将監・立川藤左衛門は共に岩付衆の侍
【笠原藤左衛門】康明 藤左衛門尉・越前守。北条氏康・氏政の家臣。武蔵国岩付城(埼・さいたま市岩槻区)の奉行、小田原城(神・小田原市)の評定衆を務める。康明の康は氏康の偏諱。永禄二年(1559)の『役帳』に御馬廻衆、笠原藤左衛門と見える。合計百九十一貫文の役高。天正二年頃から康明は北条氏繁と不和になり小田原城に戻ると共に氏政の側近として活躍。天正八年(1580)三月に笠原藤左衛門と間宮綱信は北条氏政・氏照の命令で近江国安土城の織田信長への使者として京都に向かった。『信長公記』にその時の記載がある。
【濱野将監】武蔵国埼玉郡上馬場村(埼・八潮市)の地侍。弥六郎 将監か。武蔵国岩付城主北条氏政の家臣。永禄九年(1566)八月二十三日・永禄十二年五月十八日の氏政の感状がある。この頃の岩付城代は北条氏繁である。
【立川藤左衛門】立川氏は、立河とも書く。武蔵国多摩郡の国衆。のち武蔵国岩付城の侍。藤左衛門尉は岩付城主太田資正、のち北条氏政・氏房の家臣。岩付城の奉行。藤左衛門尉は知行三千貫以上を持つ重臣。父、式部丞の嫡男か。
新人物往来社刊改訂『関八州古戦録』262頁に「…翌年甲戌(天正二年)の秋、氏政、伊勢備中守貞連(運)に命じて湯田村に縄張させ、砦をかまへて所務方の米穀を悉く取入させ、飯沼のあなたに有し天満天神の社を焼払いて、其地に城を築き、件の兵粮を舟にて城内に運遭なさしめ、風間孫兵衛、石塚藤兵衛に軽卒三百差副て、是を守らしむ。…」とある。逆井城が砦の頃の時か。
北条氏照の家臣にも忍を上手とする者がいた。『北条記』巻第三「九高野台合戦之事」に「…小田原方の物見、由井源三殿の内横江忠兵衛と大橋山城守とて屈竟一の忍の上手にて、敵陣へ忍に入、此の躰懇に見て帰り申上ければ、大将軍氏政老軍を召され…」とあり、この時の合戦に勝利したきっかけとなったとある。
この文書の六ヶ村とは岩付衆の支配下の村であろう。それが何故檜原村の吉野家に伝わったのかは不明であるが、武蔵野開拓の祖・吉野織部之助正清は大和国吉野の生まれで、武蔵忍城主・成田長泰の家臣であり、天正十八年、豊臣秀吉に攻められ落城の折、師岡村に土着して村の里正となった。この吉野氏と関係があるのではないだろうか。檜原村以下の六ヶ村に風間(魔)が来たとすれば、境目の城としての檜原城の役割からであろうが、この時期武田氏の後方撹乱をするには、北条氏と武田氏の関係は良くなってきた時期にあたるのでそれはないと思われる。
私が八王子市営大和田台団地に住んでいた時に、妻が徳兵衛という蕎麦屋に勤めていた。この時に一緒に働いていたのが、同じ団地の濱野氏の細君であった。団地一の美人であった。この濱野氏が濱野将監の末裔と知ったのは最近のことである。私の母方の先祖は志村将監といい、北条氏照の家臣である。御館の乱の前に、氏照は厩橋(群・前橋市)で上杉氏に対して示威を行っている。この折、濱野将監と志村将監は共に気勢を揚げていた可能性がある。440年後に同じ団地で二人の子孫が顔見知りになっている縁を考えると今更ながら感慨深い。
今書いている詩(918)「たろうさんの農具」
たろうさんの農具
農具くん連休には
働いて貰いますよ
この間働いたのは
娘の家の庭の芝張りの時でしたね
加藤くんのお父さんは
帰りに腰が痛いと言ったそうです
二人とも慣れない仕事でしたね
今度はたろうさんの菜園で仕事です
鍬・スコップ・ツルハシ色々ありますね
加藤くんの家の庭は固くなっていたので
ツルハシがいると思ってましたが
活躍の機会はなく新しい儘です
ツルハシは処女みたいに
カバーがついてます
土がついて汚れているので
少しは働いたですかね
たろうさんの菜園はスコップで
掘り起こして空気を入れ
苦土石灰を混ぜ肥料を入れて
畝を作り完成です
3坪ほどですが意外に大変です
力仕事は不向きのウドの大木の
たろうさんですからね
種と苗の世話は洋子さんの仕事です
あなたもそろそろこころの
耕し時ではありませんか
これだけの農具があれば
準備万端ですね
「神さま 天の国でも農具あります?」
「たろうさん わたしの国の菜園は広大です
この農具も貸して下さいね!」
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北条氏照書状(秋山断氏所蔵文書)
2010年2月 7日 (日)
北条氏照書状(秋山断氏所蔵文書)
北条氏照書状は下山冶久著『八王子城主・北条氏照』285頁に年月未詳文書として載っている。天正十八年(1590)三月二十日北条氏直版物写(相州文書・3688)では北条氏光に豊臣勢が侵攻してくるので足柄城に在城し着到(600人カ)の他に足軽100人を付けて鉄砲・弓・鑓を嗜み忠節を尽くさせたとある。この文書の内容と北条氏照書状の内容が似ているので、北条氏照書状も天正十八年三月二十日の時のものであると思われる。北条氏照の家臣団については「天正期における北条氏照家臣団」「tenshiyoukiokeru-houjouujiteru-kashindanno-kenkiyuu.doc」をダウンロードを参照されたい。この論考では天正初年頃であると述べたが、この北条氏照書状は北条氏照の天正期最後の家臣団を記したものであることに注目したい。そして、この文書に記された人々を知ることで北条氏照の家臣団研究が前進することと思う。下記にこの文書の全文を記す(本文は縦書き)。
(折紙)
加勢衆鉄砲
一丁 石原主膳
二丁 嶋村
二丁 由木
一丁 車丹波衆
一丁 大石四郎右衛門衆
一丁 同左近衆
二丁 大藤手組之内
以上十丁
(北条氏光)
一、右衛門佐殿御手前、敵之取寄近来候、今夜為加勢遣
候、申端可被仰所、加治左衛門ニ指添可遣事、
一、玉薬二百放可指添候、□□可渡事、加治□□
一、加治左衛門為物主指越候、彼者如申可走(廻)候、少も油
断不可致、虎口可走事、
右之条ゞ 猶仰所、直ニ可被申付候、
以上
(年月未詳) (北条)
廿日 氏照 (花押)
(秀信)
大石四郎右衛門尉殿
大石左近丞殿
【石原主膳】甲斐武田氏の家臣山県昌景の鉄砲衆であり、天正十年の武田家の滅亡後、北条氏照に仕えたと思われる。のちに、井伊直政に仕えたか。年月未詳野村高貞軍忠状写(『武州古文書上』ー401頁)にその名前がある。
【嶋村】武蔵国多摩郡の地侍。『新編武蔵』多摩郡元八王子村(東・八王子市)の岩見屋敷の条には「八幡森の東の方なり、氏照の家臣島村岩見守信正の屋敷なり」とある。水府系纂によれば「島村孫衛門某初名彌之介父ヲ岩見某ト云八王子ニ住シ北条氏照ニ仕テ百人組ノ同心頭タリ天正十八年庚寅六月廿四日(三日)氏照戦ニ負テ自殺ノ時岩見モ共ニ死ス孫衛門父ノ死後越前中納言秀康卿ニ仕フ…」とある。水府系纂には弟に刑部左衛門信勝がいる。
【由木】武蔵国多摩郡の国衆。氏照の家臣には由木豊前守と由木左衛門尉景盛の二家がある。この由木氏については「越前騒動と由木氏」「etizennsoudouto-yugishi.doc」をダウンロードを参照されたい。
【車丹波衆】車丹波守 武蔵国滝山城(東・八王子市)城主北条氏照の家臣。使者を務める。年月未詳八月二十三日北条氏照書状写では奥州の白川義親に佐竹義重が侵攻してくるために下野国那須口の事について報せ、使者を車丹波が務めた。
【大石四郎右衛門】秀信・初名源七郎・四郎右衛門尉・遠江守。松田筑前守の三男。武蔵国滝山城主北条氏照の家臣。大石綱周の弟遠江守の娘を室とし娘婿として家督を相続。『異本小田原記』四巻松田由来の事に「松田筑前守三男源七郎、是八王子大石遠江守といふ人、三増合戦に甲州に生け捕られ、その跡に女子一人ありしかば、氏康の御意にて彼源七を大石の聟として其跡を継がしめ大石四郎右衛門と申す」とある。氏照の家臣として重用された。
【大石左近丞】この文書以外不明であるが、文書の最後に記されている所からすると、大石綱周の弟信濃守の養子となり家督を継いだ大石照基の可能性がある。照基はもと松田惣四郎と云う。
【大藤手組之内】大藤政□・小太郎。北条氏の家臣。紀伊国高野山(和・高野町)高室院所蔵の『文化四年五月十五日 北条家並家臣過去帳抜書』に「妙連 相州小田原、大藤小太郎殿御乳人 天正八年(1580)閏三月日 智大院取次」とみえる。年月未詳三月十六日大藤小太郎政□書状(二見文書・4342)では方円寺に書状を出して挨拶し、「大藤小太郎政□と署名。年月未詳文書十二月三日清水正花武功覚書(高崎市清水文書・群馬県資料編七-三六九四)では元亀二年(1571)の駿河国長窪城(静・長泉町)の武田信玄との戦いで大藤小太郎が忠節を尽くして働いた事を記す。天正十八年七月の小田原城開城後に徳川家康に仕え、結城秀康の家臣。『新編武蔵』多摩郡下由木村(東・八王子市)の条に大藤小太郎の墓がみえる。
【加治左衛門】武蔵七党の丹党の一族。『寛政譜』巻一三八三に加治氏系図を載せ「兵庫太夫頼胤が関東管領上杉憲政に仕え、その子修理亮胤勝が北条氏康ニ仕えた。その子左衛門次郎正胤は北条氏照に属し、天正十八年に加治郷赤沢村に住んでいたところ徳川家康から呼び出されて御家人となり代官職となった」と記されている。この人であろう。
*この文書の人名は下山冶久編『後北条氏家臣団(人名事典)』東京堂出版を参考にしました。抜粋して引用してあります。
今書いている詩(919)「たろうさんのウグイス(喜び)」
たろうさんのウグイス(喜び)
突然にキミは啼いた
若葉が萌える
連休前の今日に
今年も聞けたことに
感謝です
法は法華経と
啼いてるんですね
去年からわたしの近くに
巣作りしてるようで
キミの声が聞けて嬉しいね
洋子さんはお母さんが新しい
特別老人養護施設に入れるので
朝早くから出かけています
帰ってきたら知らせます
スズメくんも ヒヨドリくんも
楽しそうな 連休前です
わたしは毎日が連休中ですよ
谷渡りの声も聞けます
法華経は結構・結構が
まだ続けて啼けませんね
今まで何処にいたんです
藪でチッチと啼いていませんでしたね
八王子は23℃になりますの予報でした
今年の冬は寒かったです
卵 間違えないで下さいね
もうすぐちゃっかり屋の
カッコウくんが来ますよ
(法は法華経 たろうさんも結構)
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今書いている詩(920)「たろうさんの太鼓(音魂)」
今書いている詩(920)
たろうさんの太鼓(音魂)
歯を磨いていると
遠くから
こどもたちの
練習する太鼓の音が
風に乗って聞こえてくる
練習熱心だなぁ~
夏祭りに演じるのか
此処の駐在さんは
重松流のお囃子の
名人らしい
新しく出来た団地の
集会場で練習してるんだろうなぁ~
近くの家の皆さん
夕餉の魚と思って聴いてね
友翔くんにも習わせたいね
ドンドコ ドンドコ
未来に向けて叩く
こどもたちの希望の音だ
夜の闇に響け 風に乗れ
こどもたちよ 汗を流せ
大きく育て 明日の幸せを
叩き出せ バチに願いを込めて
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五日市広徳寺
2010年2月18日 (木)
五日市広徳寺
広徳寺はあきる野市小和田234番地にある寺です。境内は五日市盆地西縁の秋川西岸の山麓にあり、地勢的には五日市盆地入口の秋川左岸にあり、建久二年(1191)創建の真言宗大悲願寺と対峙する位置にあります。臨済宗龍角山広徳寺は、応安六年(1373)開基の正應了受居士によって創立され、鎌倉建長寺七十世心源希微禅師を講じて開山したと伝えられている。天文年間(1532~1555)に北条氏康によって中興され、江戸時代には幕府から四十石の朱印状が与えられ、約一万二千坪の境内地を保有した。現在の堂宇は、18~19世紀に再興された禅宗伽藍を中心に、総門の全面と北側に土塁や貯水池などの遺構が残っている。
『武蔵名勝図会』には広徳寺、同領同郡小和田村にあり。この寺の古文書に「由井之広徳寺」とあれば、古えは由井郷の内なり。これより秋川向こうの辺までを「由井之深沢山」とも見えけれども、中古以来は小宮領秋留郷とす。
林檎 この境内は林檎多く、味わいもまた佳なり。江戸神田へ出す。「広徳寺りんご」とて、その名を唄うとある。 現在、八王子市美山町から広徳寺に続く道は通行できないが、この道は鎌倉古道である。恩方地区には佐野川往還が通じており、中世はこの道が八王子と上野原を結ぶ重要な交通手段であった。広徳寺は戦略重要な位置を成していたから、寺には貴重な古文書が残されている。
古文書(植田孟縉著『武蔵名勝図会』慶友社刊による)
寺領之書立
戸津原、深沢、中野、同所、窪、押楯、須賀尾、平井之
内 小和田以上九ヶ所
右書立之分、不可有相違。年貢之員数者、注本帳者也。
仍如件
天文廿(1551)辛亥九月六日
(大石定久なり)
真月斎 道 俊(花押)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
寺中、門前共ニ棟別之事指置畢。但家数之小日記有之。
向後他郷之者、至干門前ニ集者、可為曲事候。仍如件
(北条虎之朱印)
弘治三年(1557)丁巳十一月廿七日
狩野 大膳亮
奉行
広徳寺 庄 式部少輔
----------------------
由井之広徳寺領、深沢之山萱之事、寺家為修理立置
候。於深沢かや刈取者之者、可処罪科候。堅可有成敗
者也。仍如件
(北条虎之朱印) 狩野 又四郎 奉行
弘治三丁巳七月四日
広徳寺
----------------------
制札
右広徳寺寺山、向後立山ニ被仰付候。厳密ニ可相立旨、
被仰出者也。仍如件
丙戌六月廿八日 中島 大蔵丞 奉行
(天正十六年か)
広徳寺
寺山
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【真月斎道俊】源左衛門・入道道俊。真月斎か。定重の嫡男。北条氏綱・氏康に属した国衆。大永五年(1525)十二月十三日淨福寺再棟札銘(淨福寺所蔵・福生市史資料編中世寺社九八)には淨福寺(東・八王子市)の再建に「大旦那大石源左衛門入道道俊並子息憲重」等が中心となって工事を行った。『新編相模』鎌倉郡雪下(神・鎌倉市)の鶴岡八幡宮の条には什器物の一つに香合一つがあり底には「天文三年(1534)甲午五月一日定久」と銘文がみられる。もしくは『快元』天文二年九日条には三田氏や大石は募縁に応じ、大石以月斎も募には了承し馬や太刀を贈ったとある人と同一人か。天文十一年二月十五日大石道俊書状写(武州文書・二〇五)では北野天満天神社(埼・所沢市)の神主職を栗原氏に安堵した。武蔵国守護代として神主職の任命権を大石氏が保持していたことを知る。天文十二年七月朔日大石道俊判物(長念寺文書・二三二)では武蔵国白子(埼・飯能市)の長念寺領の年貢について保証した。天文十七年五月八日大石道俊書状写(佐野家蔵文書・三三四)では小野田新右衛門尉に武蔵国由来(八王子市)内の別所谷・堀之内分の手作地を安堵した。「道俊(花押)」と署名。天文十八年三月七日武田晴信書状(玉英堂稀覯本書目二一二号四七九一)では武田信玄が大石真月斎に去年七月に信濃国の村上義清の逆心によって出馬し勝利を得た事などを報告し北条氏康との仲介を道俊に依頼した。氏康と道俊が親密であったことを知る。同年カ七月二十一日北条氏康書状(淨法寺文書・三五二)では松山城(埼・吉見町)の普請を秋中に完了しないと敵(武田信玄ヵ)に攻略されると道俊に注意し、この頃には道俊は松山城に在城したか。また伊豆諸島に漂着した船の積荷を売却して分国中の大社の修造費用として配分しているが相模国の二宮の六所宮(神・大磯町)にも配分しており、その事を道俊に知らせている事は守護代として守護国の一宮・二宮など大社造営の権限を北条氏が道俊に認めていた事を示す。天文二十年九月六日北条家広徳寺領書立(広徳寺文書・四〇〇)では広徳寺に寺領九ヵ所を寄進し、文書の袖には北条氏の虎朱印の証判を据え、日付下には「真月斎道俊(花押)」と署名。この頃には大石領は次第に北条氏の支配するところとなった。天文二十一年八月十九日大石道俊判物(熊野神社文書・四一八)では武蔵国案下(八王子市)の熊野宮禰宜職を彦次郎に安堵し居屋敷分として二〇〇文の地を与える。この頃に養子の綱周(憲重)に家督を譲り隠居したか。弘治元年(1555)夏に結城政勝が小田原城に滞在して大石綱周にあっており、大石氏への氏照(藤菊丸)の養子問題が話し合われたと思われる。年未詳六月四日大石道俊書状写(鈴木文書・四〇八六)では相模国座間(神・座間市)の鍛冶職鈴木又四郎に大石氏に属して座間に居住し、方々の鍛冶を集めて御用を務める様に指示する。年未詳十一月九日大石道俊書状写(新編武蔵・四〇八七)には武蔵国入間郡北野宮(所沢市)の神主職を栗原氏に前々の如く安堵した。『新編武蔵』多摩郡上恩方村(八王子市)皎月院の条には開基は大石道俊で法名は皎月院英岩道俊とある。
【狩野大膳亮】泰光 飛騨守。狩野介の一族。北条氏康・氏政の家臣。小田原城の奉行・評定衆の筆頭。小田原城の御馬廻役を統括する官僚機構の中心人物。天文二十四年(1555)二月二十三日北条家朱印状写(相州文書・四八〇)では舞々天十郎大夫に陰陽師からの役銭徴収の証拠を提出させた。奉者は狩野介・泰光等の四人。狩野介と狩野泰光が隣接して連署しており一族関係と推定。のち北条氏照文書に多出する狩野一庵(宗円)と泰光は同一人物であろうとの説がある。永禄十二年(1569)になると北条氏照の朱印状には狩野一庵宗円が奉者として登場してくるか事から狩野飛騨守泰光は古河公方との関係から小田原城の家臣から古河公方の後見役となる氏照の家臣に転出し入道して一庵宗円と号して氏照の重臣として活躍したものと推定。
【狩野又四郎】弘治三年の広徳寺に残る二通の文書の月日が近いことから狩野大膳亮と同一人物と思われる。
【庄式部少輔】庄資直(すけなお)式部少輔・左近将監。北条氏康・氏政の家臣。奉者を務める。天文十八年(1549)十一月九日北条氏康判物写(諸家文書・三六〇)では虎千代康正に相模国小野郷(神・厚木市)を安堵し左近将監女子に配当の時には虎千代の配慮によるとした。弘治三年十一月二十七日北条家朱印状(広徳寺・出雲祝神社・高安寺・高乗寺・西連寺各文書・五六二~六)では北条氏康は武蔵国多摩郡の社寺の棟別銭を免除して寺社領を掌握した。奉者は広徳寺(東・あきる野市)・出雲祝神社(埼・入間市)・高安寺(東・府中市)のは狩野泰光・庄式部少輔。永禄二年(1559)の『役帳』御馬廻衆に庄式部少輔と見え、合計知行役高は三十三貫文。
【中島大蔵丞】中島氏は清和源氏義光流の小笠原氏族の出という。『寛政譜』巻二〇一に中島系図を載せ、筑後守盛信が北条氏直から氏照に仕え、七五歳で死去、法名は常覚。嫡男大蔵盛直も北条氏照ニ仕えた。戦国期は盛信ー盛直ー盛昌と続く。中島大蔵丞は盛信の嫡男。
*古文書の人物については下山冶久編『後北条氏家臣団(人名事典)』東京堂出版を参考にしました。
*広徳寺領深沢山の「刈萱」は江戸時代にも争論になった。菊池山哉著『東国の歴史と史跡』ではこの深沢山を八王子城のあった深沢山と混同されているので、注意されたい。
現在の高徳寺の写真です。参考にして下さい、清水中世史研究所のダウンロードもアクセスも無料です。クリックしけください。総門は「2010_0214_110028p1000240_2.jpg」をダウンロード山門は「P1000245.JPG」をダウンロード本堂①は「2010_0214_110429-P1000251.JPG」をダウンロード本堂②は「2010_0214_110647-P1000256.JPG」をダウンロード釣鐘は「P1000253.JPG」をクリックしてください。/a>
今書いている詩(921)「太郎さんの籤(くじ)運」
太郎さんの籤(くじ)運
ロト6が 1000円当たった
「1000円の壁が越えられないのね!
もう一つ上なら 11000円なのに」
人生は賽の目のように転がる
自分の思うような目は出せない
(お金以外なら 望むような人生だった)
洋子さんを引き当てたのだから
籤(くじ)運は悪くない
「わたしのほうが 運が悪いのね」
本音を ポロリと言う
仕事も随分変えた 親もいた
最初の頃は小姑もいた
車を持っていたが
貸屋暮らしで始まった生活
市営住宅に住んで
娘が10年目に生まれた
親もいなくなり 家を持った
娘が結婚して 一年で家と子どもがいる
65歳を境に 年金も貰ったが
仕事が非常勤になり 家のローンが重い
時間があるが お金がない
一日中 パソコンにしがみついている
幸せそうに見えるだろうね
まだ 1000万近くのローンがある
洋子さんの遣り繰りも 追いつかないか
二人で スクラッチ・ロト6・ミニロトと
富籤(とみくじ)にかけた 平成の江戸庶民です
洋子さんと娘は ねずみ年で
小金には苦労しないと言うが?
ロト6も もう買わないかと
思いながら 買うと 1000円が当たる
まだ買いなさいと言うことですか?
籤(くじ)依存症のたろうさんです
ロト6を週に 2回で1200円の投資
当分 これに頼るしか大金が入る術がない
「神さま みんな同じ生活ですか?」
「たろうさん わたしの振る賽の目を
待つのも いいものです!」
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世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の68歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

たろうさんの気象観測所(#^_^#)☂
おはようございます。朝から晴天です、ですが、今戦争法案が可決させようとして雲行きが怪しくなってきました!自民・公明の進める法案を否決しなければなりません、若者を戦場に送ってはなりません!私の孫たちを戦場に送らないために、八王子の夕焼けの里から声を上げます。公明党の母体の創価学会の皆さん!あなた達の宗教は平和を求めるのではないのですか、戦争に荷担することは佛の教えに反していませんか?私は自衛隊の若者たちが他国で人を殺す事も、戦死する事も望んでいません。晴れた青空が何時までも続くことを望みます!
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今書いている詩(922)「たろうさんのバス停(2)」
今書いている詩(922)
たろうさんのバス停(2)
バスが時間よりも
早く来て 焦って
走る少女
バスはバス停を
少し過ぎて止まった
「まだ お客さんが…」と
たろうさんは思わず声に出した
少女は息を切らせながら
乗り込んできて
運転手の後ろの座席に
身を投げ入れるように
座って 深く呼吸をする
次のバス停に
待っていた少女も
メガネをかけている
バスは次々にバス停に止まる
みんな未来を待っている
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野村高貞軍忠状写の人々
野村高貞軍忠状写の人々
雄山閣版『新編武蔵風土記稿 巻六』122頁に、舊家 百姓勘右衛門の記述がある。此処にあるのは「軍忠状」で、中世において参陣や軍功等を証する書類である。舊柚木村(東京都青梅市柚木町)勘右衛門所蔵(野村氏)文書となっている。此処に登場する人々は北条氏照の家臣たちで、事蹟が判っている人々を知ることは当研究所の願いである、サブタイトルの―蘇えれ中世の人々ーに適うものと思う。以下全文を記し、その後に人々の事跡を解説しておく。
舊家 百姓勘右衛門 野村を氏とす、家の一軸その餘舊記を蔵せり、これを閲するに其遠祖は、宇多天皇第八の皇子敦實親王より十六代、六角大膳大夫満經の二男、野村左衛門大夫久綱より四代の孫、豊後守高貞が後胤なり、高貞故あって江州を去て関東に下り、山角伊豫守に就て北条氏康が扶助を乞しに、永禄元年(1558)五月高麗郡上我野に於て、五十貫の地を宛行はれて、使番をつとむ、其後國府薹合戦の時、火炮にあたり疵を被り、廃人となりしかば、澤井村大平と云所に隠居し、七十五歳或は八十五歳歿すと、法諡は雲渓道龍主と号す、其子左衛門貞常も父の跡を継て、使番を勤て毎度働あり、天正十八年六月八王子籠城ノ時、近藤出羽守助實が手に属して、山下の陣にて近藤と共に討死し、屍は由井の心源院に埋葬し、月窓道東と法諡す、貞常が子喜兵衛貞秀も使番を勤しが、此時父と共に討死を心がけしが、父頻に制止けるまゝ囲みをでて、雨間川の邊まで落けるに、家人戸泉青木小山小河等に出合て、爾々の事共語るまに、南の方に火の手見えしかば、今こそ貞常が最期ならんと、主従馬を雙べて見やりなくなく歸しと云、後年下山八幡の社内へ納めし貞秀が、茜の母衣近年までありけるが蠚朽し畢んぬと、扨又氏照自殺小田原も落去し、関東御分國となりて、大久保石見守御代官たれば、もし召出されん品もあらばうたてしと、蟄居し自らおさ人のごとくにて、寛永五年十二月七十五歳にて歿す、悦翁道壽と法號す、これより子孫民間に下れりと云、左衛門尉が働の場所附書あり、これ大久保石見守が尋によりて、喜兵衛より披見にいれしうつしなりといふ、左の如し、
一 小山馬野路口にて、結城ヨリ働之時、關隼人・宮寺四郎左衛門・神田與兵衛と立合、首壹ツ高名仕候事、
一 新田へ働之時、於其表小幡主殿助・井上七兵衛と立合、首壹ツ高名仕、鑓も仕候事、
一 小山木澤口にて、佐竹對陣之時、大極佐竹之陣江罷通候處を、小山より石原主膳門を開らき、大極を追崩し申 候時、主膳と立合、首壹ツ高名仕候事、
一 大田江働之事、三四ケ之内、初日ハ宿城を被成、初日之時桑島萬喜と立合走廻り仕候、二日目ハ城根小屋迄 御取之時、小幡玄蕃介・田辺清右衛門と立合走廻り仕候事、
一 佐野小野寺谷にて働之時、山中勘解由・岸野重郎兵衛・高瓦玄蕃、其他邇貳拾騎にて鑓御座候時、敵跡先ヨリ 取巻申候ニ付、中山勘解由指圖を以て、馬を入追崩引上申候事、
一 皆川江働之時、富田大中寺之下にて、金子十兵衛討死に及候所を、拙者馬を入、十兵衛を助ケ申候事、
一 二年目働之時、彼表江敵出候時、關山城守・同伊賀守・拙者兩三人馬を出し、追崩申候事、
一 皆川働之時、大平にて平山大學助・關山城守・同隼人立合申、其場之敵を追崩申候事、
一 結城より働之時、小山四ケ布口にて、大平江敵掛り申候間、岸野重郎兵衛・宮崎助兵衛・我等三人にて拂申候 事、
一 長尾輝虎寄候時、石巻下総守と私ニ物見彼申付、御注進之時節、思召ニ叶御稱美ニ逢候事、
一 小山清水にて、皆川衆掛合之時、加藤駿河守・岸野重郎兵衛と立合申、敵を追崩殊ニ走廻リ仕候事、
一 伊豆國土倉江働之時、城下之橋江出張申候ニ付而、金子十兵衛と二騎馬を入、敵追崩申候、是ハ感状所持仕 候事、
【關隼人】【關山城守】【關伊賀守】武蔵国入間郡の地侍。伊賀守は武蔵国滝山城(東・八王子市)城主北条氏照の家臣。永禄十(1567)年八月薬師如来坐像銘(埼・所沢市薬王寺所蔵)には武蔵国所沢薬王寺の薬師如来坐像の解体修理は「大旦那 關伊賀守」が行った。年月未詳野村高貞軍覚書写では野村高貞が天正十二年の皆川表(栃・栃木市)の戦いで關山城守と關伊賀守の三人で敵を追い崩し忠節を尽くした。山城守は伊賀守の嫡男、もしくは兄弟。關隼人は一族であろう。
【宮寺四郎左衛門】武蔵国勝沼城主三田綱定、のち武蔵国滝山城主北条氏照の家臣三田冶部少輔の同心。永禄七年(1564)五月二十三日北条氏照朱印状では武蔵国清戸番所(東・清瀬市)の在番衆の三番衆頭の三田冶部少輔の配下の一人として宮寺与七郎と共に見える。永禄八年六月八日北条氏照朱印状(細田潮五郎所蔵文書・九一三)では長田(飯能市)百姓の神右衛門・四郎右衛門に武蔵国葛見と長田との相論について与七郎が長田は葛見の内訴訟を起こしたため小田原城での裁許のための糾明に百姓両人は北条氏照の滝山城に呼び出された。奉者は藤部某。
【神田與兵衛】将高。与兵衛・因幡守。正友の嫡男。もと三田綱定、のち滝山城主北条氏照の家臣。永禄七年正月七日の第二次国府台(千・市川市)の合戦では里見氏と北条氏が激突し北条氏照の家臣も奮戦して活躍し、同年二月二十八日北条氏照感状写(記録御用所古文書三・八四五)では神田与兵衛も敵三人を打ちとった功績を認め感状を与えられた。同年五月二十三日北条氏照朱印状(和田敏信氏所蔵文書・八五四)に神田与兵衛・半三郎・左京亮がみえる。『寛政譜』神田氏系図には正高は天正十八年の小田原開城の後、翌年に徳川家康に仕えて三百石の旗本になり元和五年(1619)に九十八歳で死去した。
【小幡主殿助】【小幡玄蕃介】主殿助 武蔵国入間郡福岡郷(埼・ふじみ野市)の地侍。もと大石氏、のち武蔵国滝山城主北条氏照の家臣。永禄二年の『役帳』他国衆に柏原某がおり、「拾三貫文 福岡内(ふじみ野市)小幡分」とある。もと大石氏の家臣小幡氏の旧知行地と思われる。
【井上七兵衛】大石氏の家臣に井上掃部助弥次右衛門がいるが、その一族であろうか。この軍忠状以外不明。
【石原主膳】甲斐武田氏の家臣山県昌景の鉄砲衆であり、天正十年の武田家滅亡後、北条氏照に仕えたと思われる。のちに、井伊直政に仕えたか。
【桑島萬喜】この軍忠状以外不明
【田辺清右衛門】この軍忠状以外不明
【山中勘解由】この軍忠状以外不明、中山勘解由の誤記か。
【中山勘解由】家範 吉範。助六郎・勘解由左衛門。詮勝の嫡男。武蔵国滝山城主北条氏照の家臣。家老を務める。室は山田直安の娘(寛政譜巻九九六の山田氏系図)。天正八年十二月六日北条氏照朱印状写(武州文書・二二〇三)では中山家範に平山伊賀守の小山での狼藉を驚き検査させた。天正十八年六月二十三日には八王子城に籠城して、討死した。嫡男照守と次男信吉は徳川家康に仕え旗本となり、信吉は水戸藩主徳川頼房に仕えて家老となる。
【岸野重郎兵衛】十郎兵衛 来住野(きしの)と書く。武蔵国多摩郡の地侍(あきる野市)。武蔵国滝山城主北条氏照の家臣。天正九年五月三日北条氏照朱印状写(武州文書・二二三三)では檜原衆が甲斐国譲原(山梨・上野原市)で武田勝頼の軍と戦い敵一人を討ち取った戦功を認め北条氏直から感状を与えると約束した。奉者は松田四郎右衛門尉。天正十二年四月二十七北条氏直感状写(武州文書・二六七三)がある。慶長元年七月十八日川に流されて死去し道泉禅門と諡された。
【高瓦玄蕃】この軍忠状以外不明
【金子十兵衛】北条氏直の家臣笠原康明の同心か。天正十二年十月七日水神社棟礼銘(奈良水神社所蔵・四九五四)では伊豆国奈良本村(静・東伊豆町)の山神社の社殿修造工事には笠原康明を中心に金子十兵衛も参加して五〇文の寄進をおこなった。軍忠状から推察すると武蔵国多摩郡の地侍金子氏一族の可能性が強い。
【平山大學助】平山氏重の一族。滝山城主北条氏照の家臣天正八年十二月八日北条氏照朱印状写(諸州古文書相州二四・二二〇四)では宇野光冶に武蔵国高幡郷(東・日野市)の平山大學助知行分を宛行い、大學助屋敷分は北条氏の藪として指定し知行から外すとした。
【宮崎助兵衛】この軍忠状以外不明
【石巻下総守】この軍忠状以外不明
【加藤駿河守】上野原城主加藤駿河守虎景であろう。武田信玄の旗本武者奉行を務めた。年未詳三月三日文書で、北条氏照は加藤駿河守に敵の動向を伝え、大石源三と署名している。天正十年武田氏は滅亡し、上野原加藤氏は一族家臣を連れて逃れたが、武蔵国多摩郡箱根ヶ崎で百姓一揆の手にかかり討死したという。加藤丹後守景忠の戦没地には加藤神社がある。丹後守忠景は駿河守虎景の子である。
*この軍忠状には事跡が不明な人々がいる。今後の研究課題としたい。
地侍たちの戦国(1)ー宮寺与七郎ー
2010年3月22日 (月)
地侍たちの戦国(1)ー宮寺与七郎ー
北条氏康は天文十五年川越夜戦で勝利すると、武蔵国の支配を進めていく上で、各地の豪族に自分の子供たちを養子として送り込み支配力を徐々に浸透させていつた。多摩の最大の支配者は木曽義仲の後裔と言われる大石氏と、平将門の血を引くと称していた三田氏であった。北条氏照は氏康の三男で早くから大石氏に養子に出され、山の根地域の支配者として送り込まれた。従来は大石定久の養子とされていたが、定久の養子の縄周であろうと云うのが最新の説であるようだ。大石氏の事跡はその間が不明で、定久には数人の子息がいたと思われるが、何故養子を迎えたかについては不明である。大石氏から北条氏に支配が交代する時期に闇の部分が有ったのであろう。大永五年(1525)十二月十五日の淨福寺再建棟札銘には「大旦那大石源左衛門入道道俊幷子息憲重」とある。
『異本小田原記』巻之五(518頁)には「…彼氏照と申すは、氏政の弟の中にも武勇勝れて、殊に大名なり。上杉の老臣に大石源左衛門定久といふ人あり。是は木曽左馬頭義仲十二代の末葉なり。代々武蔵の守護代なりしが、上杉亡びて後氏康へ降参し、後に男子なくして、氏康二男を聟にとり名跡を繼がせ、由井源三と号す。然るに大石氏の家、滅亡の時来りけん、大石名字皆男子なくして、大石信濃守・松田が子を養子にし、同隼人佐は大道寺が子を養子して一跡を繼がしむ。…」とある。これは、北条氏側からの見方であるのですべて信用できないが、他に資料がないので参考にしたい。
永禄五年(1562)四月頃、三田氏は滅び、氏照の多摩における支配は前進した。北条氏照判物(大江文書)によれば、同年五月十九日に三田氏の旧臣で家臣になった宮寺(埼玉県所沢市)の土豪宮寺与七郎の知行、原(不明)、松井田(不明)、葛見(飯能市久須美)の地八貫五〇〇文を安堵している。同大江文書、同年七月三日では氏照の重臣横地吉信が、宮寺与七郎に金子掃部助の跡を継ぐことを命じている。金子氏は入間郡に古くから蟠踞した名族である。武蔵国国人として山内上杉氏に属した金子氏に、文明(1469-1486)のはじめ金子掃部助が長尾春景に与して、相模国小沢城に籠り上杉方と戦ったが、太田資長(道灌)によって城はおとされ、以後、金子掃部助は不明になっている。この跡蹟のことであろうか。
金子氏が三田綱定と北条氏との間で家の存続を計っていたのであろう。永禄四年カ六月三日北条氏康判物(金子秀子氏所蔵文書・七〇三)では金子家長と新五郎充忠に北条氏への忠節を尽くせば知行として金子郷(埼・入間市)の屋敷近辺八貫文・入間郡小谷田村(入間市)十七貫文を安堵し「但し、この内、豊泉名字中、前々より抱え来たり候分を下され候」とある。他に本領として合計百五十貫文を宛行うと約束している。八王子城で、金子丸を守り討死した金子三郎右衛門はこの一族であろう。
宮寺与七郎のような地侍にとって、三田氏でも北条氏でも、自分たちの家名や知行地を裁定してくれる、主であれば誰でも良いのであろう。与七郎自身が金子掃部助を名乗った記録や形跡はないようである。しかし、宮寺掃部助が永禄七年五月二十三日の北条氏照朱印状に見えることに注目したい。氏照も彼らの裁定をすることで次第に山の根地域に勢力を浸透させてゆくのである。また、氏照の近臣として支え続けた人々がいたことも忘れてはならない。
【横地吉信】監物(丞。北条氏康、のち武蔵国滝山城(東・八王子市)城主北条氏照の家臣。氏照の奉者・家老を務める。永禄二年二月の『役帳』御馬廻衆に横地監物(丞と見え、「八貫文 西郡願成寺分(神・小田原市)」を知行役高とし、他に二〇貫文を支給される。『新編武蔵』多摩郡原村(奥多摩町)の横地社の伝承では天正十八年六月二十三日に八王子城が落城すると吉信は当所まで落ち延び、この谷で自殺した。また、『武蔵郡村誌』永田村(埼・飯能市)の名主細田家の記録に八王子城を脱出した吉信は細田家に隠れ住み細田姓を名乗り元和九年に死去したとある。
【宮寺与七郎】宮寺氏は武蔵国入間郡宮寺郷(埼・入間市)の地侍。『諸家系図纂』村山党系図では武蔵七党の村山氏の出で村山頼家の次男家平が宮寺五郎を称したのに始まる。与七郎は四郎左衛門の一族。武蔵国勝沼城(東・青梅市)城主三田綱定、のち滝山城(東・八王子市)城主北条氏照の家臣三田冶部少輔の同心。永禄七年五月二十三日北条氏照朱印状(和田一男氏所蔵文書・八五四)では武蔵国清戸番所(東・清瀬市)の在番衆の三番衆頭の三田冶部少輔の配下として宮寺与七郎とみえる。永禄八年六月八日北条氏照朱印状(細田長五郎氏所蔵文書・九一二)では長田(飯能市)百姓の神右衛門・四郎右衛門に武蔵国葛見と長田との相論について与七郎が長田は葛見の内と訴訟をおこしたため小田原城(神・小田原市)での裁許のための糾明に百姓両人は北条氏照の滝山城に呼び出された。奉者は藤部某。
今書いている詩(923)「たろうさんのハルジオン(春紫苑)」
今書いている詩(923)
たろうさんのハルジオン(春紫苑)
おい キミは知っているかい?
「びんぼう草」と呼ばれてるだろう
わたしの庭にもいっぱい咲いている
満開だ 家があって 庭もあるが
お金には不自由してる
お金には満足してると
大声で言う人はいない
老人家庭では尚更だ
春に咲くシオン(紫苑)だから
ハルジオンと言う キク科の花で
牧野富太郎博士の命名だそうです
紫色がかかった花は
綺麗な空気の所に咲くらしい
わたしの家は空気がいいが
咲くと白く見えるね
咲き始めは花の縁が紫色かな
最近はキミを抜かないよ
昔は誰でも抜いたみたいだ
貧乏を嫌ったからね
雑草と呼びたくない
逞しく生きる花だ
ひ弱な子どもも多いがね
キミにあやかるといい
ごめんね キミを確かめるために
一本 折ったんだよ 茎が空洞で
ヒメジョオン(姫女苑)でないと確認したんだ
ポッキリ折れたよ
気ままな老人の 独り言です
『ハルジオン 人生の風に 揺れている』
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
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世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の68歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!
たろうさんの☆ですよ!
今晩は木下かれんちゃん、舞台お疲れさまでした♪(#^_^#)次の舞台を目指して、頑張って下さいね!此からも八王子の夕焼けの里から応援させて頂きます。
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梶原杉(カラー写真に中世を忍ぶ)
2010年4月 2日 (金)
梶原杉(カラー写真に中世を忍ぶ)
八王子市元八王子3丁目の宮の前八幡神社の参道に、かって梶原杉と呼ばれた樹齢800年の威容を周囲に誇っていた杉の古木が有り、この梶原杉は通称「大杉」と村人たちに呼ばれ古くから信仰の対象でもあった。言い伝えによると、建久二年(1192)源頼朝の命を受けた梶原景時が、鎌倉鶴岡八幡宮をこの地に勧請した時、杉の小枝を植えたというものである。成長するに及んで、枝が下向きに張り出してきたことから、逆さ杉の異名があり、都の天然記念物に指定されていた。梶原景時は、史実のひとであるとともに、時として伝説の中に、あるときはフィクションの世界に、悪人になったり、頼朝の股肱の臣になったり、まことに神出鬼没の魅力ある武士で、歌舞伎の古典『梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)』という芝居でも、鶴岡八幡宮宮の前の石切り場という一幕に主役で登場する。なにかと八幡様に縁のある人物である(名木古木探訪より参照)。
この梶原杉は昭和47年に枯れ、樹高30メートルの木は切られ、切り株が八王子郷土資料館にある。切り株の年輪にはその時代の出来事を記すメモがある。特に私は天正18年6月23日の八王子城の落城が印象的である。また、神後伊豆宗治はこの杉を見て育ち、剣の修行に励んだと思われる。梶原杉のカラー写真は無料です。「IMG.jpg」をダウンロードしてください。(大貫久男氏撮影)
今書いている詩(924)「たろうさんの乳母車」
今書いている詩(924)
たろうさんの乳母車(3)
春の午後です
洋子さんと
友翔くんが
乳母車で
お散歩です
時々娘が
「寝かさないでね!」と言います
でもね 友翔くんは
直ぐに眠くなります
乳母車の振動が
お腹の中で聴いていた
心音に重なるのです
「寝そうになると 足を
コチョコチョとくすぐるの」
歩きながらも 語りかけたりします
でも 本当に眠いときは
寝てしまいます
あやすと笑います
ばぁーばと孫の 幸せな時間です
小さい車が 廻ります
そのたびに 幸せも廻ります
舗道に 春も弾みます
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今書いている詩(1195)「クリップ(はさむ)」
クリップ(はさむ)
白色の
黄色の
赤色の
安心を
注意を
危険を
貴方の
私の
心を
挟むの
ドキッ
私には
真実が
挟めない
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