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清水太郎の逆井城探訪記

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2009年11月22日 (日)

清水太郎の逆井城探訪記

 平成21年11月22日にかねてからの願いであった、茨城県坂東市にある逆井城を仕事のついでに訪れる事ができた。天候は快晴、気温は16度。
 逆井城の歴史 逆井城は飯沼に臨む標高20mの台地先端にあり、城の北側は飯沼が洗い、西側は入江の蓮沼に接していました。飯沼は江戸時代の新田開発により湖水はなくなりましたが、およそ幅1km・南北30kmにわたり、その名残を残しています。今から約410年前(城の複元された時期)の戦国時代に、此の飯沼が後北条氏と佐竹・結城氏・多賀谷氏らの領国の境目でした。進攻を続ける後北条氏は飯沼に築城をはじめ、天正5年(1557)10月、北条氏繁(玉縄城主)は、藤沢より城の建物をつくるため大鋸引の職人をよんでいます。城主となった氏繁は、盛んに佐竹・下妻方面の動静を報告していますが、翌天正6年(1558)にこの飯沼城中で没し、その後氏舜が城代となりました。天正18年、豊臣秀吉は小田原城に後北条氏を滅し、この飯沼城も廃城となりました(現地案内板)。飯沼の中央西岸、猿島台地の縁に逆井城がある。後北条氏の築城技術の粋を集めて築城された城である。『関八州古戦録』などによると風間孫右衛門・石塚氏らの忍者集団300人を当城に入れたという記事がある。忍者による警護体制を物語るものとして注目されるという。逆井城は平成2・3年度に一部が復元された。
 北条氏政は、古河公方足利義氏の本拠地であったこの地方に栗橋城と関宿城・水海城を構築、北条氏照を置き、北方進出の拠点とした(拙者ブログ「戦国残照」を参照されたい)。後北条氏の拠点となる以前、逆井城には逆井氏を名乗る豪族があったといわれる。伝承では後北条氏大道寺駿河守が、逆井常繁が守る当城を攻め落城させた、この時、常繁の室とも娘ともいう智御前もしくは智姫が鐘をかぶり、城中の井戸へ身を投げた。この井戸を「鐘堀り池」と呼び今に残る。この時常繁は討死、慰霊は常繁寺となって弔われた、というのである(拙者ブログ「八王子合戦と大道寺駿河守政繁」を参照されたい)。この逆井氏は小山一族と伝え、享徳五年(1456)の大宝八幡宮の鐘銘に「逆井尾張守常宗」と刻されているから、逆井氏は実在していたことになる。
 逆井城が築かれた天正五年は後北条氏が常陸・下野勢力と最も激しい戦闘を行った年にあたる。栗橋城にいた氏照は、五月に「去る十五日以来、結城・山川間へ打入、毎日彼領中を打散され候、此度は長陣を遂げられ……」と芦名盛氏に報告。当城に氏照軍が駐屯、飯沼の対岸へ押し出している。尚、西ヶ谷恭弘著『戦国の城 上ー目で見る築城と戦略の全貌』84頁から89頁にイラストと写真等がある。
 
①二層櫓 は戦国時代末期の時代背景を下に、外観二層の姿を復元したものです。櫓は武器・食糧の貯蔵と防御とを目的として設けられました。
②井楼矢倉 矢倉は敵の動勢の監視と自軍を把握するためのもので、この役割が発展・大規模化したものが近世城郭の天守閣となります。
③主殿 茨城県牛堀町の大台城遺跡より出土した主殿遺構を参考に建築されたもので、逆井城と同時代に存在していたものです。 
④鐘堀り池 天文五年(1536)、ときの逆井城主逆井常繁は、北条軍に敗れました。この時、城主の奥方(娘ともいわれている)は先祖代々伝わる釣鐘を被ってこの池に飛び込み、自殺したといわれています。
①から④の順に写真をダウンロードしてあります。

 ①「2009_1121_100142p1000132_3.jpg」をダウンロード ②「2009_1121_100212-P1000133.jpg」をダウンロード  
 ③「p1000184_2.jpg」をダウンロード 
 ④「P1000194.jpg」をダウンロード

今書いている詩(909)「たろうさんのチューリップ」

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今書いている詩(909)

    たろうさんのチューリップ

キミ こんな所で
咲いているんだ
誰が植えたのかな
笹が生い繁った
狭い土手に
去年は気がつかなかった
だけかなぁ~

ひとのこころも気紛れ
わたしのこころも
まったく気紛れ
キミの上には
笹の枝が被さってる
でも咲いているんだ

そんな昔にキミは植えられたのかなぁ~
わたしの家は昔この団地が造成さるとき
飯場があったところ
もう20年以上も前のこと

その誰かが植えたとしたら
今はどうしているのかな
この花の色のように幸せの
黄色い色だったらいいね
わたしの家にも咲いているよ
深紅のチューリップが

わたしの鼻の下は長くもないし
パチンコのチューリップにも縁がない
風が強いねぇ~
キミも頑張れ わたしも頑張る

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清水太郎の菅谷館(伝畠山重忠)・大蔵館(伝源義賢)探訪記

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2009年11月29日 (日)

清水太郎の菅谷館(伝畠山重忠)・大蔵館(伝源義賢)探訪記

 平成21年11月28日埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷にある、菅谷館(伝畠山重忠)を訪れた。(「P1000221.jpg」をダウンロード)この館の近くの寺院跡から重忠の曾祖父、秩父重綱の名前を記した経筒が発見されており、この地域が、秩父氏(畠山氏)の重要な拠点であった。現在にみられる遺構は、戦国時代に拡大整備されたものである。菅谷館は都幾川と槻川の合流地点を臨む台地上にある。都幾川をはさんで大蔵側(嵐山C・C入口)から菅谷館を遠望した写真。(「2009_11をダウンロード)
 大蔵館は源氏の棟梁六条判官源為義の次子、東宮帯刀先生義賢の館跡である。(「P1000205.jpg」をダウンロード)
 源義賢 保延五年(1139)、のちの近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)とよばれた。長兄の義朝が無官のまま東国(関東)にくだった後、重要な官職に補任されており、この時点では河内源氏の嫡流を継承すべき立場にあったと考えられる。翌年、滝口源備殺害事件の犯人を捕えるが、義賢がその犯人に関与していたとして帯刀先生を解任される。その後藤原頼長に仕える。康冶二年(1143)頼長の所有する能登国の預所職となるが、久安三年(1147)貢未納により罷免され、再び頼長の元に戻り、頼長の男色の相手になっている(『台記』久安4年1月5日条)。京堀川の源氏館にいたが、父と不仲になり関東に下っていた兄の義朝が、仁平三年(1153)に下野守に就任し南関東に勢力をのばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下った。上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、近隣国にまで勢力をのばす。
久寿二年(1155)八月、義賢は義朝に代って鎌倉に下っていた甥の源義平に大蔵館を襲撃され、大蔵合戦に及んで義父重隆とともに討たれた。享年は30前後とされる。大蔵館にいた義賢の次男で2歳の駒王丸は、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで木曽に逃れ、のちの木曽義仲となる。京にいたと思われる嫡子の仲家は、源頼政に引き取られ養子となっている。 
 源義高は木曽義仲の侍女巴との間に生まれた(山吹姫との伝もある)。比企郡岩倉山大蔵が生まれ故郷であり、七ヶ所の清冷水を汲んで産湯を使った清水冠者又は志水冠者義高と名乗った。義仲が治承四年(1180)頼朝とともに源行家から以仁王の平家追討の令旨を得て挙兵し、寿永二年(1183)に北陸道を京に攻めのぼる直前、背後を固めるため対立状態にあった伯父頼朝に幼少(6歳)の時鎌倉に送られた。拙者ブログ「清水八幡(しみずはちまん)と大姫」を参照されたい。
「P1000210.jpg」をダウンロード
「P1000211.jpg」をダウンロード
「P1000209.jpg」をダウンロード
「p1000206_2.jpg」をダウンロード
 大石氏は木曽義仲の流れを汲むとされていると木曽大石氏系図「八王子市下柚木伊藤家所伝」にある。この系図は信憑性に欠けるところもあるが、義仲の次男(?)義宗からとされている。今後の研究成果をを期したい。

清水太郎の正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)

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2009年12月12日 (土)

清水太郎の正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)

 縣敏夫先生から、文庫本になった正法眼蔵随聞記を頂いた。折に触れ少しづつ読んでいる。私の本棚にも小学館の『日本古典文学全集44(方丈記・徒然草・正法眼蔵随聞記・歎異抄)』があるのだが中々読めずにいた。文庫本は手軽に読めるのでありがたい。水野弥穂子訳ちくま学芸文庫の『正法眼蔵随聞記』には「無常迅速なり生死事大なり」という帯が付いている。その文面は『正法眼蔵随聞記』巻2の八(102頁)にある。現代の私たちにも参考になる一文です。その全文を下記に記しておくことにする。                     八 無常迅速なり、生死事大なり  示ニ云ク、無常迅速なり、生死事大なり。暫ク存命の間、業を修し学を好マンには、ただ仏道を行じ仏法を学すべきなり。文筆詩歌等そノ詮なきなり。捨ツべき道理左右に及ばず。仏法を学し仏道を修するにもなほ多般を兼ネ学すべからず。況ンや教家の顕密の聖教、一向に擱くべきなり。仏祖の言語すら多般を好み学すべからず。一事ヲ専ラにせん、鈍根劣器のものかなふべからず。況ンや多事を兼ネて心想を調へざらん、不可なり。 〔口語訳〕 教えて言われた。死の至ることは速やかである。生死を明らめることは重大である。わずかに命のある間に、何かわざを身につけ、何かとりあげて学ぼうと思うならば、ただ仏道を修行し、仏法を学ぶべきである。  文章を作ったり、詩歌を詠んだりなどは、結局役に立たない。これらを捨てるべき道理は言うまでもない。また、仏法を学び、仏道を修行するのにも、やはり、手びろくあれもこれもと学んではならない。まして、学問仏教における顕教、密教などという区別を立てた教えは、全くやらずにおくべきである。仏祖の言われた言葉であっても、あれもこれもととりあげて学んではいけない。ただ一つの事を専一に行うことさえ、生まれつき力の劣った者には、できはしない。まして多くの事を同時にして、心やそのはたらきを静かにしないのは、いけないことである。  【『正法眼蔵随聞記』】 懐奘編、6巻、道元が折にふれて説き示した教えを、常に随侍していた懐奘が筆録したもの。「夜話に云く」とあるように、日常生活の中で、平易に仏道修行の心得が、初心者向きに懇切に示されている。「学道の人衣食に労することなかれ、広学博覧はかなふべからず、学道の人は人情をすつべきなり」など、あるいは故建仁寺の僧正(栄西)にまつわる法話など、解りやすい説示の中に、きびしい道元の仏法がかいま見られる。  【 懐奘(えじょう 】 建久9年(1198)-弘安3年(1280)曹洞宗の僧。道号は弧雲、京の人。初め比叡山横川で出家、のち大日能忍(だいにちのうにん)の禅をついだ覚晏(かくあん)を多武峯(とうのみね)に訪い、その日本達磨宗の徒をつれて文暦元年(1234)深草興聖寺の道元門に投じた。以来師の没する建長5年(1253)まで常に随侍し『正法眼蔵』の淨書・整理に従事した。道元の法をつぎ永平寺2世となり、遺言して師の傍らに葬られた。儀海の生まれた弘安2年(1279)の翌年に没している。道元禅師の御影像をダウンロードしてください。  「200px-Dogen.jpg」をダウンロード

今書いている詩(910)「たろうさんのヒメオドリコソウ(姫踊り子草)」

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 今書いている詩(910)

   たろうさんのヒメオドリコソウ(姫踊り子草)

オオイヌノフグリくんが咲き
今年も菜園を占領して
キミは咲いている
凄い繁殖力だな
畑を耕す前だから
自由に咲いておくれ

キミは明治の頃に帰化した
そうだが 鹿鳴館の頃かな
わたしは西洋かぶれはもう
卒業して「洋楽は聴かない」が
元気が一番だから 歓迎さ

自然の世界は強い物がち
人間の世界では困るね
弱者が保護されないと
貧富の差が大きくてなりすぎて
わたしも困る 
弱者の身の上だから

「中産階級」なんて意識したら
没落の不安がつきまとうよ
正社員は減り 派遣社員が多いのさ
「直ぐ首に出来るからいい」と
企業経営者は言うが
キミも派遣社員かい

ヒメオドリコソウくん
キミも頑張れ
派遣社員のキミも
歯を食いしばれ
わたしの菜園にも
生存競争の春が来てる

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今書いている詩(911)「たろうさんのムラサキケマンソウ(紫華鬘草)」

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 今書いている詩(911)

   たろうさんのムラサキケマンソウ(紫華鬘草)

春になると我が家の
半日陰の庭に咲きます
明るい世間は駄目な
誰かさんに似ています

でも食べると危ないです
この子 ケシ科の毒草です
美人なら食べてしまいたいと思う
あなたは 要注意です

ケマン(華鬘)とは仏殿の欄間に
飾る華鬘に似ている紫色から
来ている名前だそうです

インドでは花飾りを僧に
寄進した習慣がケマン(華鬘)に
なったのですね

わたしこの花好きなのです
美人だから食べたいのです
解毒剤を用意して
貴女を食べてしまおうかしら

「神さまも いかがですか?」
「たろうさん 世間の毒気の方が
 怖いかも知れませんよ!」

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新鎌倉仏教と儀海

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2009年12月19日 (土)

鎌倉新仏教と儀海

 儀海は弘安2年(1279)の生まれである。弘安4年(1281)の2度目の蒙古襲来の時は2歳かと思われる。日蓮は翌年に没して、鎌倉新仏教の開祖と言われた法然・親鸞・名庵栄西・道元はすでに没していた。儀海が最初に史料として顕れるのは「永仁3年(1295)正月15日於根来寺大谷院之草庵以草案本書写之畢」とあることによる、この時すでに一遍・叡尊も没し、忍性のみが健在であった。
 私が高校時代の昭和40年頃の日本史の教科書では鎌倉新仏教が、堕落した平安仏教にかわって登場したと定義されていたが、現在の定義では鎌倉新仏教は異端であり、当時の主流は南都北嶺の顯密勢力であった(黒田俊男の顯密体制論)となっている。何故この鎌倉時代に、綺羅星のごとく新仏教の開祖たちが登場したのかについては今の私には、そのような時代背景であったと云うのみで、今後の課題の一つである。
 ひろさちや著春秋社刊『仏教の歴史9』第1章「蜘蛛の糸」の救いで、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を親鸞・道元・日蓮がどのように受け取るのかについて、わかりやすくしかも的確に推理されているので、要約して記しておきたい。
 「もしもいま、目の前に蜘蛛の糸が差し出されたとする。そのとき、親鸞は、道元は、日蓮はどうするだろうか?」 親鸞はのぼらない、道元はひたすらにのぼりつづける、日蓮ものぼらない。何故にそのようにひろさちや氏は推理するのか知りたい人は是非この本を読むことをお勧めしたい。
 2度の蒙古襲来を日本歴史の分岐点とする見方もある、一方蒙古襲来はなかったという人もあるようである。その時、人はどのように考え、行動していたのか?知りたいという欲望が学問を進歩させてゆくのであろう。中世は仏教の時代であるといわれる。仏教では色欲は抑圧されていたが、真言立川流(発祥地は立川市諏訪神社付近か?)や天台の一部では肯定されていた。この時代人々の娯楽はあまりなかったであろう。しかし、いつの時代でも男と女の関係はつきない謎である。性的行為が即身成仏につながるという仏法があれば、人々はこれに飛びついたであろう。真言立川流の問題を解くのはそう簡単ではない。今後の研究課題の一つである。
 


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たろうさんのアイマスク!

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おはようございます。涼しい朝ですね、Amazonでアイマスクを買いました。娘の所ではカーテンの無い生活です、慣れる為に購入したのです。
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今書いている詩(912)「たろうさんの大根の花」

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今書いている詩(912)

    たろうさんの大根の花

今日は 大根の花くん
よく咲いてくれたねぇ~
去年は大根を蒔くのが遅くて
葉の部分を食べ尽くしたと思っていたよ

味噌汁の中に入れて
美味しい美味しいと
洋子さんと食べたんですよ
大根葉 スーパーでは
切り取ってある
栄養があるのに「もったぁ~ない」

ひとりじゃ~寂しいかい
チョウチョウくんも来ないね
でも変人で暇なわたしが
嬉しそうに眺めてるよ

キミは大根になると
食べられてしまうからねぇ
食用で観賞用ではないんだ
タクワンを弁当にいれ食べたよ
食べる物がないときにね

キミの足を思い出すと切ない
あの頃の食事が「健康食」だなんて
豊かさの基準がおかしいのさ
皮肉じゃないか

「久米の仙人は 乙女の白い足で
 神通力が無くなった」
わたしは孫(8ヶ月)の足にをみて
幸せを実感してる
白い大根の花くん
アメニモ カゼニモ マケナイデネ

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清水太郎と儀海の縁(えにし)

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2009年12月23日 (水)

清水太郎と儀海の縁(えにし)

 昭和21年4月14日に私、清水太郎は八王子市元八王子村(八王子市元八王子町)の通称慈根寺(慈根山西明寺)の本堂跡に生まれた。正しくは昭和20年12月24日であったらしいが戦後の混乱で板橋区の役所に届けが遅れたことによるらしい。この遅れがその後の人生にどのように作用したのかは今となっては吉と思えるようになっている。男と女の双子であった。この地には母方の縁を頼って疎開したのである。母方の姓は志村氏で、先祖に北条氏照に仕えた志村将監(中宿の志村将監)がいる。母の父は中島家から志村家に養子に出たのである。中島要と母はいとこであった。中島氏は北条氏照に仕え、八王子城で討死した人々がいるが、その中島氏との関係は不明である。母の妹の志村ナヲは福島県川俣出身の高橋直衛に嫁ぎ、川俣の山奥の地を開拓した。儀海が滞在した、川俣甘露寺の近くである。その下の妹志村マサは新見市出身の真壁荘輔と結婚し、新見市で真壁荘輔は炭焼をして生計を営んだ。真壁氏は常陸国真壁郡内(現茨城県桜川市真壁町亀隈に儀海が滞在した亀熊成福寺があった)に所領を持ち、平安時代末期から戦国時代末期までを生き抜いた真壁氏の庶流が鎌倉時代に新見庄に移住して、新見の真壁氏を称した。
 二人の叔母がこれらの地に居住したのは単なる偶然と私には思えない。現在、私は宝生寺団地(八王子市西寺方町)を終の棲家と決めているが、この名の由来は宝生寺にある。宝生寺の前身は大幡観音堂で儀海が、慈根寺から河口の長楽寺にあった談義所に行き来した折に、歩を休めた場所である。由比尼是勝(天野景茂女)の住まいの地であったと思われる。私の家の横を宝生寺から登り下るとすぐに長楽寺である。この道を私は儀海みちと呼んでいる。時々ふと、私の前世が僧であったのではないかと思うことがある。何も考えずに生きている妻を視ていると、考えに考えて生きる道を選んだ私と大きな違いはないと思われる。しかし、私はそのような生き方しかできない。これからも中世に生きた人々のことを考え、今を生きる人々に伝えたいと思う。儀海については「「shingonsou-gikaino-sokuseki.doc」をダウンロード」を参考にされたい。最近「中世宗教テクストの地平」と題する第5回「テクスト布置解釈学原論」授業がおこなわれ、新しい発見がなされた。担当名古屋大学大学院文学研究科 阿部泰郎教授(比較人文学)。儀海もこの中に含まれている。うれしいかぎりである。

無住道暁(むじゅうどうぎょう)と沙石集

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2009年12月26日 (土)

無住道暁(むじゅうどうぎょう)と沙石集

『 歎異抄』『正法眼蔵随聞記』と並ぶ作品と考えられるのが『沙石集』である。その作者無住道暁と『沙石集』について記しておきたい。儀海の生まれた弘安2年(1279)から執筆が始り弘安6年(1283)に完成している。この頃吉田兼好が生まれたようである。
【無住道暁】嘉禄2年(1226)-正和1年(1312)臨済宗の僧、無住は号、道暁は諱、また(一円)と号す。俗姓梶原氏。鎌倉に生まれ、18歳の時、常陸で出家した。28歳で遁世して律僧(当時、常陸三村寺で活動していた忍性の弟子か)となったが、35歳で寿福寺に入り禅僧となった。後に西上して諸宗を学び、臨済宗東福寺派の円爾弁円(えんにべんえん)の弟子となって禅密兼修を宗とした。尾張の長母寺(名古屋市東区)の住持として後半生を送り、修行のかたわら『沙石集』『聖財集』『妻鏡』『雑談集』を書き、説話集編者として文学史にも名を残している。博識の僧侶で、話題の豊富さ、語口の巧妙さを特色とする。無住道暁は長命であつたが、本来は病弱で、同族の医僧梶原性全(頓医抄の著者)の薬や医術に助けられことによるという。
【沙石集】しゃせきしゅう(させきしゅう)とも。鎌倉中期の仏教説話集。無住道暁編、10巻。弘安6年(1283)成立。成立後も添削・改編が続けられ、その跡をうかがわせる多様な伝本が残る。仏教の趣旨についての啓蒙を主眼とする書で、豊富な例話を引く。霊験談・発心遁世談など型どうりの仏教説話ばかりでなく、和歌・連歌説話や卑俗な滑稽談も多い。無住は禅密兼修の僧で、他の諸宗にも明るく、所説は多岐にわたっている。後世よく読まれ、抄出本も多く説教の種本ともされた。源頼朝と梶原景時との連歌による主従のありようや、得宗に仕えた梶原氏についても触れられている。小学館版新編日本古典文学全集52『沙石集』がある。この小学館刊の『沙石集』にはないが、他の『沙石集』(第八の十「不法にして真言の罰を蒙る事」)の中に立川流の蔓延を憂いていると思われる記事がみえる。

「近代真言の流に、変成就の法とて、不可思議の悪見の法門多く流布す。仏法は大小権実、聖道浄土、顕密禅教、法門の義理まちまちなれども、諸悪莫作衆善奉行の教の変ることなく、我相人相執心執着を除くこと、都で異議なきに、明師に相伝なき、無知無道心の悪見の師多く出で来て、諸法実相一切仏法の詞、煩悩即菩提生死即涅槃の文ばかりをとりつめて、機法のあはひ解行の分れもしらず。男女を両部の大日なんど習いて寄合ふは、理智冥合なんどいひなして、不浄の行、即ち密教の秘事修行と習伝へて悪見邪念すてがたくして、諸天の罰を蒙る。仏陀の冥助なきのみにあらず。横死横難にあひ、多くは人に殺され、物に狂ひ、疾病やみ、自害し、臨終狂乱巓顛倒す。現世にも中夭にあひ冥加なく、後生にはさだめて無間地獄におちて、出ずる期なく、又仏法に遇ふことあるべからず。悲しむべしはや。凡そ真言の罰と云ふことはあるべからず。ただ邪念のとがをおのれとまねくべし。もしは守護天等のとがめ給ふか。能々師匠をえらびて、正流の人正見の師にあひて習ひ修行すべし。末代は真言の利益ことにめでたかるべし。又悪見世に多し。よくよくわきまへらるべし。」

 真言立川流の発祥の地は東京都立川市の諏訪神社近辺と推測される、儀海が後年止住した高幡不動尊(日野市)の地とは多摩川をはさんだ対岸である。どのような思いで儀海は眺めていたのであろうか、儀海も真言立川流と無関係ではない。

今書いている詩(914)「たろうさんの楽園」

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今書いている詩(914)

    たろうさんの菜の花(楽園)

今年は菜の花くんに
出逢えないかと想ってたよ
雑草で埋まった菜園の中に
キミは咲いているんだ

去年の種が発芽したのかな?
違う種に混ざっていたのかな?
今年はいつもと違うので
チョウチョウくんは知らないんだね
モンキチョウくんもきていない

黄色いキミの花は
安心と希望の色だね
山はすっかり若葉だ
夏蔦くんも葉がで始めた
そうそう 前の山の
山藤くんも咲いている
わたしも世間の風に
なびかないでいる

来年はキミの仲間で
我が家の菜園を埋め尽くよ
チョウホウナくんを
食べ尽くさないように
いっぱい播くね

菜園を耕すのはわたし
種播く人は洋子さん
来年は友翔くんも待ち望む
菜の花の菜園(楽園)ですね

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今書いている詩(916)「たろうさんのフクロウ(希望の声)」

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今書いている詩(916)

    たろうさんのフクロウ(希望の声)

冷たい春の雨が
降り続いてる
夜更けに寝ている

昨日の晩まで啼いていた
フクロウくんは呟かない

何処にキミはいるんだい
立木の枝も濡れているだろうね

腹が減ってるのかい
この雨じゃあ~
獲物にありつけないか

キミの声がわたしの
幸せに繋がってるように
聞こえるよ HO HO

明日 雨が上がれば
また聞けるかな HO HO

独り寝は寂しい 
晴れるといいなぁ~
希望の明日が

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僦の党ー武士の起源を求めてー

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2010年1月 3日 (日)

僦馬の党 -武士の起源を求めてー

 寛平七年(895)、物部氏永なる人物をリーダーとする坂東群盗が蜂起し、信濃・上野・甲斐・武蔵等の諸国が大きな被害を受けた。彼らは上野国碓氷・相模国足柄を越境して逃走した。昌泰二年(899)には上野国から、再三にわたって群盗の被害甚大なることが報じられた。政府は上野国に追討勅符を下すとともに、推問追捕使を派遣した。推問追捕使とは犯罪の調査団であり、発兵権も認められていた。翌三年(900)五月、上野国が賊首の氏永を追捕したと報じたが、同年、今度は武蔵国で群盗が蜂起し、延喜元年(901)二月五日、信濃国から東国群盗蜂起が飛駅使(早馬)で報じられると、政府はまた追討勅符を下し、四月には推問追捕使を派遣した。この、寛平七年から本格化延喜元年にいたるまでの七年間に及んだ群盗蜂起を、「寛平・延喜東国の乱」と呼んでおく。延喜元年をピークに東国の乱はいちおう鎮静したようだが、その後も駿河・越後・飛騨・下総等の諸国で群盗蜂起・受領襲撃事件があとを絶たなかった。
 板東諸国の群盗蜂起の実態は、上野国からの報告(国解)によれば、駄馬に荷物を積んで運送して稼ぐ諸国富豪層からなる「僦馬の党」が、群盗を結成して凶賊となったのだという。僦馬の党とよばれた諸国富豪層は、それまで調・庸運京に便乗して私物を運京し、預かった調・庸を着服して王臣家人になるなど、多大の利益を獲得してきた。ところが国政改革は彼らから、それまで寄生してきた利潤獲得の機会を奪い去ったのである。富豪層のなかには、本籍を京内に置きながら諸国に居住しつづける前司(前任国司)子弟や王臣子孫がいた。寛平三年(891)九月、政府は主として板東諸国を念頭において、婚姻や農商を通じて国内に居住し、「土民」と生業を同じくしながら党を引き連れて村里を横行し、納税を拒否している前司子弟・王臣子孫ら富豪浪人について、来年七月までに帰京するか、国衙に納税することを条件に現地に留住(土着)するかどうかの意思確認をして、国衙に従う意思のない者は国外追放せよ、と全国に通達した(『類聚三代格』)。僦馬の党の主要なメンバーは、このような連中だった。寛平・延喜東国の乱は板東諸国の富豪層が国政改革にもとづく受領の締め付け強化政策に反発して起こした闘争だったのである(『武士の成長と院政』日本の歴史07下向井龍彦)。
 「僦馬の党」の実態は物資の輸送を業とする「富豪の輩であるが、馬を掠奪する強盗にかわった。彼らは東山道で(上野・下野)で盗んだ馬を東海道(武蔵・相模など)につれさり、東海道で掠奪した馬を東山道にもちこみ、一疋の馬を盗むために殺人をもためらわない。上野国は隣国と協力して彼らを追討し、上・信国境においつめ、碓氷峠の坂本を押さえて信濃への逃亡を防いでいる。相模国にも同様な処置をとるように要請した。しかし太政官の決定でなければ実効がないので、碓氷と足柄の正規の関所を置き、通行証を検査する権限を与えられるように訴えた(太政官符、昌泰二年九月十九日)。
 「僦」の字義は、「雇う」・「雇われる」である。したがって僦馬の党は、駄馬によって物資をおくる運輸業者と推定されている。同時にその実態は下層農民を隷属させ、中堅農民を雇庸して大規模な安定した農業経営を行う「富豪層」であった。彼らの蜂起が国衙と政府を驚かせたのは、一般的な治安問題にとどまらず、国衙が京上する官物や庄園年貢の掠奪にまで及ぶことがあったからであろう(『日野市史 史料集 古代・中世編』)。
 馬をあつかうには日頃から訓練を必要とする。「僦馬の党」の発生した所は牧のあった地域と関係している。武蔵国には秩父牧・由比牧・小川牧・石川牧・立野牧・小野牧が存在している。日奉氏小川系図(甑島小川氏系図)によれば由比牧の別当である由井宗弘の子為貞は駄所、その子為真は駄大夫、弟知実は駄四郎を名乗っている。また、駄八・駄九郎等と名乗っている弟達もいる。秩父牧の高向(小野)利春や小野牧の小野氏(小野諸興・永興)も同様に運輸業に従事していたであろう。彼らが「僦馬の党」に関係していたどうかは不明であるが、限りなく灰色である。
 東国の乱(「僦馬の党」)を収束させたのは平高望・藤原利仁・秀郷たち軍事貴族であろう。この乱を通じて、首謀者達や軍事貴族の郎党、牧の人々の多くが武装し、下層農民までが武器を携えたとおもわれる。直刀・蕨手刀・湾刀へと日本刀が進化し、普及する過程での出来事である。鉄器が一般に普及し、貴族の支配から武士の支配への転換点がまさに、この「僦馬の党」にあったと思われる。そして、由比・小川・石川牧の日奉氏は西党、小野牧の小野氏は横山党と云う武士団に成長してゆく。

たろうさんの☆!

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今日は木下かれんちゃん、日差しが強いです。今日はお仕事かな?孫のはるとくんが鼻炎なので耳鼻科にいます、お仕事頑張っ下さいね!(#^_^#)
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今書いている詩(916)「たろうさんの独り寝」

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今書いている詩(616)

    たろうさんの独り寝

娘の家に洋子さんが
泊まりに行きました
加藤くんが夜勤のときは
娘が泊まりに来るのですが
今回はこれないのです
娘は孫と二人の夜は怖いそうです

娘が結婚する前は
わたしたちや父母がいて
独りではありませんでした
洋子さんが泊まりに行くのは二度目です
わたしも独り寝はあまりないのです

父母がいつもいました
独りでも暮らせると思っていましたが
寂しいものですね
「ひとり寝の子守唄」は聴きたくありません
常々孫たちと暮らしたいと言っていた
本当の意味がわかった気がします
三途の川も独りで渡りたくありません
でもみんな誰でもが経験するのですね

「神さま わたしと一緒に 三途の川を渡っていただけます?」
「たろうさん わたしのかわりに思いで袋を提げてゆきなさい!」 

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武州下野鍛冶(山本氏)

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2010年1月10日 (日)

武州下原鍛冶(山本氏)

 武州下原鍛冶(山本氏)は室町末期から安土桃山時代は、大石氏、北条氏、の庇護を受け、その後江戸時代には徳川家から旧領をあんどされ、幕府の御用鍛冶として幕末まで鍛刀が続けられた山本姓を名乗る刀工達の集団の総称である。現在の八王子市内の下恩方町(下恩方村)、横川町(横川村)、元八王子町(慈根寺))に居住していた。周重、康重、照重、廣重、、正重、、宗國、安國、利長などの刀工を生み、最盛期には下原十家といわれるほどその分家も増えて繁栄した。室町時代から江戸時代末まで続いた武蔵国では唯一の刀工群である。この地は管領山内上杉氏の領地で、下原鍛冶は上杉家の家老職(武蔵守護代)の淨福寺城主大石源左衛門入道道俊や、その嫡子(養子か)綱周に仕え、その諱を受けた周重、そして、小田原北条氏の関東制圧後は、三代氏康の諱を受けた康重、氏康の三男八王子城主北条氏照の諱を受けた照重がいる。群雄割拠した室町末期には優れた作品が多い。江戸初期には江戸城下の諸大名、旗本等の需要に応じたが、江戸中期以降になると太平の世と江戸鍛冶の充実により衰退したが、武蔵太郎安國はその中でも著名である。
 下原鍛冶が、いつ頃この地に移住して刀鍛冶を始めたかについては諸説があり、不明な点が多い。それは刀鍛冶という特殊な職能であり、作刀についても一子相伝の口伝によるところからであろう。長年下原刀を研究されてきた後藤安考氏は下原鍛冶の源流について二つの説を挙げておられる。
(1)相州鍛冶のながれ
 竹屋家の伝授本で慶長版の『後鳥羽院御宇番鍛冶次第』に、「周重、生国鎌倉流、当国ニ来テ、下原ニ住スルナリ」とあり、周重は鎌倉鍛冶の出で、時代は文亀、永正(1501~1520)に、下原に移住し、下原鍛冶の祖となったとある。
 桃山時代の;武家目利き;の伝授本『上極花実覚祇集(じょうこくかじつかくぎしゅう)』に、「周重、武蔵国住人、横山下原住但馬といい、同銘二代後を周重内匠といい、後奈良御宇、大永(1521~1527)」とある。
 本阿弥家の伝授本で承応三年(1564)紀の『本阿弥大銘尽秘伝(ほんあみたいめいづくしひでん)』は、「周重、大永より天文(1521~1555)頃、相州綱家弟子、兄但馬守」同じく「周重、天文の頃、弟長門守、初め相州綱家の弟子になる、相州周広の弟子ともいい」とあり、この系図によると、兄の但馬守周重は綱家の弟子で、弟の長門守周重は初め綱家の弟子で、相州座間鍛冶の周廣の弟子ともいわれる。綱家は駿州島田鍛冶の出身で、小田原北条氏に仕え、小田原相州鍛冶となる。但馬守周重、長門守周重の兄弟は小田原相州鍛冶系となる。
 下原鍛冶宗家の康重家の、明治政府に提出のための文書に、「元祖は山本藤左衛門尉周冶と称し、藤左衛門倅但馬鍛冶門人ニ相成申候、相州藤沢在ニテ数代鍛冶住居仕、其後国々修行仕候」とあり、鍛冶門人になった但馬が相州藤沢在に数代鍛冶として居住したとしている。しかしながら現在の藤沢市には鍛刀場は発見されてなく、相州藤沢在は未詳である。
 相州鎌倉鍛冶は、古くは鎌倉郡山ノ内庄の地鍛冶で、山内鍛冶は尺度郷(さかどごう)本郷(横浜市栄区)に、沼間鍛冶は沼浜郷沼間(逗子市)に鍛冶場があった。当時の鎌倉鍛冶は需要先の三浦氏の没落などにより、小田原および関東方面に四散するが、一部は若狭国に移住する。
 下原鍛冶の周重は、相州鎌倉鍛冶の出自で、大石道俊の招きに応じ、大永・享録(1521~1531)の頃、淨福寺城下の辺名に来て、そして下原に移住したものと考える。
 小田原相州鍛冶の綱家との関係は、大石氏が小田原北条氏に降った天文年間に、周重の次代の内匠周重(康重)、長門周重(照重)等が小田原本城と支城の関係における技術交流の師弟関係ではないだろうか。
(2)相州鍛冶以外の流れ
 明和五年(1768)刊の『古今類字銘尽(ここんるいじめいづくし)』に、周重は「登鯨(とくじら)ト云、下原トモ、文亀(1501~1504)」とあり、登鯨は武蔵国と下野国にいた刀工群の名称である。武蔵国は多摩郡とも高麗郡ともいわれるが未詳である。下野国登鯨は現在の栃木県宇都宮市徳次郎町の地域である。照重家についての文書の中に、「下野足利ニ居住、永正(1504~1520)年中、武州多摩郡横川村ニ居住ス」、また「足利月光山下原にて打ち、のち横川に居住なり」と記されているものがある。足利の下原は、現在の足利市山下町に存在し、この地域は鋳物師(いもじ)や修験者が居住したといわれている。
 野州徳次郎には室町末期に相州鍛冶の介廣等が移住している。周重が徳次郎から足利の下原に移り、そして武州下原に移住したとも考えられなくはないが、ともに相州鍛冶の出自であり、室町末期には登鯨派独自の意義をもたないように思う。下原刀は下原肌といわれる独特な鍛え肌の関係から、肌物鍛えの奥州月山鍛冶との関係を考えることも課題の一つであるが、それを結びつける資料はない(安藤安孝)。
 足利の下原地域には鋳物師と修験者がいたとされるが、横川村地域にも鋳物師加藤氏がおり、六万坊跡には行者(念仏か)がいた。加藤氏には寛永三年(丙寅)銘の梵鐘がある。六万坊の行者跡には享保五年と思われる墓石があるが、それ以前の資料がないのでいつ頃からここにいたのかについては不明である。これらが足利の下原となんらかの関連があるとなれば、下原鍛冶(山本氏)が来住した「下野足利説」のヒントになると思われる。
 鎌倉公方足利氏の関東管領上杉憲実は足利学校を保護している。その子の上杉憲忠は鋳物師を関東に招いている。上杉氏の守護代の大石氏は下野足利との関わりを持つていた。上杉氏と大石氏の関係については拙者ブログ「上杉顕房由井(八王子市)自害」を参考にされたい。
  下原鍛冶が居住した下原の地は、大石氏の居城した高月城、滝山城のいわゆる城下ではなく、淨福寺城(新城)の城下にあたる。隣接して淨福寺があり、大永五年(1525)十二月十三日、「大旦那大石源左衛門入道道俊幷子息憲重」と記載の棟札があり、これが道俊の初見である。また、座間鍛冶の鈴木神左衛門尉に天文十四年(1545)正月廿二日、「周廣」名を与える名字状があり、発給者は「総周(花押)」である。八王子市廿里(とどり)町の白山神社に、「天文廿二年(1553)甚寒吉日、大旦那大石守(氏)源左衛門尉縄周」の棟札がある。この縄周は大石氏当主の官途名を名乗り、道俊の後継者であり、名字状発給者の総周であると考える。縄は綱であり、総も綱であり、綱は北条氏綱の一字であろうか。道俊の子憲重は縄周でなく、憲重が廃嫡か死亡のあと、縄周は道俊の養子であろう(後藤安孝)。
 慶長期を境としてにつくられた下原刀は古刀と呼ばれる。古刀は六百年の長い間に亘って造られた刀で、鋼材・作刀法は未だ謎に包まれた部分が多いという。古代刀及び古刀は舶載鉄、或は国産塊錬鉄、銑(ずく)、及びその中間物質が混沌とした素塊などを卸した地鉄を使っていたと推定されるという。下原刀はどのような鉄が使われていたのであろうか。下原鍛冶は近くにあったマンガン鋼を混ぜて使用していたのではないかとも指摘されたが、不純物が有ると刀は脆いと言われる、その点については不明である。刀工集団の地域特性、交易ルートに依る舶載鉄の違い、国内各地の地鉄の地域特性、時代による精錬法の違いによって鉄は異なるという。北条氏は対明貿易で鉄も輸入していたであろう。この鉄を加工して日本刀として輸出した戦国大名は大内氏だけではないはずである。しかし、北条氏は関東に進出してゆく過程で大量の武器を必要としたであろう、その為の鉄の需要は大きく、相模・武蔵国には賄うだけの砂鉄がなかったと思われる。どうしたのであろうか。交易に頼ったことと思われる。武器としての日本刀は、折れず、曲がらず、良く切れることであるが、それは虚実であるらしい。下原刀はその中でも実戦的であったらしい(江戸時代になってい言われたこと)。江戸期の玉鋼の刀は寒さに弱く折れやすいという(太平洋戦争中の中国大陸での事か)。平和な時代には武器は進歩しない、それが望ましいが、真実はどうであったであろうか、今となっては知るすべがない。下原鍛冶は鎗も多く制作していた事は重要で、他の刀工が鎗の製作法を忘れた、江戸初期にあっても製作出来その技を伝えたという。槍は戦国時代にあっては一番鎗というのが勲功とされていたのだ。
 私の小中学の友人に、山本彰氏がいる。元八王子町の刀鍛冶の末裔で彼の家の墓地には武蔵太郎安国の墓もある。元八王子町の刀鍛冶の本家である。昭和三十六年頃には屋外の棚の上に、短刀が無造作に置かれていたものである。古文書もあったようであるが、研究の為に大学にもってゆかれてそのま帰ってこないという。今、彼は山本工務店の代表取締役である。
 
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