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今書いている詩(901)「たろうさんの旋盤」

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今書いている詩(901)

    たろうさんの旋盤

わたしのこころの旋盤よ
50年も空転していたのか
イマわたしは新しいバイト(刃)を
キミに取り付けたよ

17歳の時に小さな町工場の
片隅でこころを削っていたね
わたしはこころが幼すぎて
バイト(刃)を取り付けられなかった
キミの使い方がわからなかった

旋盤を買った社長の北澤金重さん
今もお元気ですか
旋盤の行方が判りますか
わたしも67歳になります

鉄の棒も 真鍮の棒も
削られて 加工されて
命を吹き込まれたのですね
削られない方が幸せでしたか?

わたしはいま新しいバイト(刃)を
こころの旋盤に取り付けます
実に良く削れます
こころのバイト(刃)は
仕上げ専用です
青春は荒削りでしたから

世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
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世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

2015/05/24

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天正十八年(1590)六月二十三日八王子城討死の人々(其の1)
 『多摩文化元八王子の研究』第14号「皇国地誌 多摩郡元八王子村村誌(311頁ー314頁)」を参照としたが北条氏照室大石道俊娘文禄元年(1592)八月廿二日卒となつている。相即寺過去帳である。また『新編武蔵風土記稿』第五巻(雄山閣版)270頁-272頁にも記載されているが、多少の違いがあるので注意されたい。
 
鈴木佐渡守 顕現院門誉道善休劔居士
鈴木彦八 清向院本誉淨念息劔信士
鈴木庄三 聲雲院源誉道香焼劔信士
新野五郎 盛誉道源信士
桜井式部 道清信士
石川土佐守
駿河又左衛門道順
一庵主月山宗円法眼 同 内 妙性大姉
三窪助兵衛秀悦淨安 同 子息秋感
松本豊後 
窪 淨真 同 内 妙慶 同 妙安 
近藤出羽守
馬場対馬守淨感 同 内 妙讃 同 娘 某 同 与八永信
横地与三郎
増島淨専 同 内
高橋雅樂道栄 同 次郎三郎道善
中島豊前良岑 同 娘 某
安田善右衛門淨光
高幡十右衛門道泉
長野伊予守 同 内 某
薄打道正
浜中十郎道讃 同 新五郎淨善
綾野木工頭淨香 同 孫 正運
鈴木庄佐道香 同 庄左衛門道善
水野藤左衛門淨品 同 源七郎淨讃 
渡辺伊賀淨珍 同 十佐淨源 同 又兵衛道西
小林土佐守西誉淨運
志野帯刀淨信
斎藤三右衛門淨信
高橋与三母妙玄
佐藤対馬守淨玄
小野入道淨光
島崎次郎道香 同 兵庵道円
内田河内守月山淨雲
十日市二郎左衛門淨西
吉村三右衛門道円 同 順智 同 銀八郎右衛門淨林
目黒与十郎宗念 同 惣九郎道円 同 与兵衛道善
各辺玄蕃 同 娘 正秋
白井喜三郎道林
大沢母妙源
河井次郎道本 同 聟 道西
山田久右衛門道善
持丸彦五淨蓮
筭和泉宗泉
青木但馬守淨雲
山田主計淨光
佐藤淨信
鈴木出雲守
大竹隼人淨心
山郷被官助右衛門道善 同 周善
大隅西月
桜井彦七道心
富沢道三
駿河中村道円
青木与三淨蓮 同 与衛門淨西
黒谷小左衛門淨香 同 甚左衛門道香
大河三右衛門道本 同 善光
嶺巖淨永 同 安右道心 同 市左衛門道善 同 駿河織部 同 舎弟 道忠
八幡宿助三道香
東主座両親 道善 妙善
平尾藤右衛門道重
駿河二郎兵衛道西
比留間帯刀母妙幸 同 関内妙安 同 帯刀子息両人 同 内妙祐  
駿河被官小八道清 同 太郎父道西
安都城軍
馬場宗念 同 光信
谷内妙巖
熊沢土佐淨感 同 子息 宗信
張田道賢
朝倉示観英珍
大沢蔵人母妙善
井上冶兵衛被官孫右衛門蓮西
御祓四郎兵衛道西
岡崎淨円
中島十郎家来道正
石上新右衛門道善
目黒下甚右衛門道秋 同 子宗忍 同 娘
学助智円
長野讃岐宗円 同内山弥右衛門道清 同 番匠又兵衛道香 同 内 妙貞
弥七宗仙
酒井二郎淨感 孫伊勢秀悦 同 聟僧 宗円
中島下源右道心 同 新兵衛内妙慶
吉川善右淨専 同 与兵衛道光
犬目道因
笛 彦兵衛清範 同 斎五郎道随 同 丹四道香 同 観新淨音 同 岩井下女妙槃
谷被官四郎左衛門道正 同 半兵衛道順 同 新右衛門道西

右戦死者弐百八拾人属滝山大善寺檀越者也

※相即寺 八王子市泉町にある寺。古くは滝山大善寺末であった。八王子城落城に際し、二世讃誉は戦いの跡をともらい、敵味方に関わらず遺骸に引導を与え、その数実に千二百余人に及んだという。また 「ランドセル地蔵」で有名な寺でもある。
※大善寺 八王子市大谷町にある寺。昭和36年大横町より大和田町に移転、さらに同56年現在地に移転した。
関東十八檀林の一つと数えられた古刹。大横町にあったときには「お十夜」として、八王子城の戦死者の追善法要として古くから境内で興行が行われ、多くの人々があつまった。本堂北側に古くからの大善寺檀家の墓域がある。津戸家の墓域には津戸為守の供養塔があり、背中あわせに新野家の墓域がある。道をへだてた向こう側に山上家の墓域がある。また続いてある霊園には有名人の墓が多くある。

たろうさんの祈願♪

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今日は大安だそうです、娘の家の増築工事が始まりました!私たちが住むための増築です。弘朗くん、ありがとうございます☆(#^_^#)。建築工事をする工務店さんが御神酒と塩を撒いて、簡単なお祓いをしてくれたそうです。私は梶原八幡神社へお参りして、工事が無事に終わるようにお願いしてきました!宮司さんがおられたのです、立ち話です。できる限り梶原八幡神社へ御奉仕させて頂きます♪この花は、今は駐車場になっている、矢場跡の片隅に咲いていました☆(^o^)
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天正十八年(1590)六月二十三日八王子城討死の人々(其の一)

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2009年10月10日 (土)

天正十八年(1590)六月二十三日八王子城討死の人々(其の1)

 『多摩文化元八王子の研究』第14号「皇国地誌 多摩郡元八王子村村誌(311頁ー314頁)」を参照としたが北条氏照室大石道俊娘文禄元年(1592)八月廿二日卒となつている。相即寺過去帳である。また『新編武蔵風土記稿』第五巻(雄山閣版)270頁-272頁にも記載されているが、多少の違いがあるので注意されたい。
 
鈴木佐渡守 顕現院門誉道善休劔居士
鈴木彦八 清向院本誉淨念息劔信士
鈴木庄三 聲雲院源誉道香焼劔信士
新野五郎 盛誉道源信士
桜井式部 道清信士
石川土佐守
駿河又左衛門道順
一庵主月山宗円法眼 同 内 妙性大姉
三窪助兵衛秀悦淨安 同 子息秋感
松本豊後 
窪 淨真 同 内 妙慶 同 妙安 
近藤出羽守
馬場対馬守淨感 同 内 妙讃 同 娘 某 同 与八永信
横地与三郎
増島淨専 同 内
高橋雅樂道栄 同 次郎三郎道善
中島豊前良岑 同 娘 某
安田善右衛門淨光
高幡十右衛門道泉
長野伊予守 同 内 某
薄打道正
浜中十郎道讃 同 新五郎淨善
綾野木工頭淨香 同 孫 正運
鈴木庄佐道香 同 庄左衛門道善
水野藤左衛門淨品 同 源七郎淨讃 
渡辺伊賀淨珍 同 十佐淨源 同 又兵衛道西
小林土佐守西誉淨運
志野帯刀淨信
斎藤三右衛門淨信
高橋与三母妙玄
佐藤対馬守淨玄
小野入道淨光
島崎次郎道香 同 兵庵道円
内田河内守月山淨雲
十日市二郎左衛門淨西
吉村三右衛門道円 同 順智 同 銀八郎右衛門淨林
目黒与十郎宗念 同 惣九郎道円 同 与兵衛道善
各辺玄蕃 同 娘 正秋
白井喜三郎道林
大沢母妙源
河井次郎道本 同 聟 道西
山田久右衛門道善
持丸彦五淨蓮
筭和泉宗泉
青木但馬守淨雲
山田主計淨光
佐藤淨信
鈴木出雲守
大竹隼人淨心
山郷被官助右衛門道善 同 周善
大隅西月
桜井彦七道心
富沢道三
駿河中村道円
青木与三淨蓮 同 与衛門淨西
黒谷小左衛門淨香 同 甚左衛門道香
大河三右衛門道本 同 善光
嶺巖淨永 同 安右道心 同 市左衛門道善 同 駿河織部 同 舎弟 道忠
八幡宿助三道香
東主座両親 道善 妙善
平尾藤右衛門道重
駿河二郎兵衛道西
比留間帯刀母妙幸 同 関内妙安 同 帯刀子息両人 同 内妙祐  
駿河被官小八道清 同 太郎父道西
安都城軍
馬場宗念 同 光信
谷内妙巖
熊沢土佐淨感 同 子息 宗信
張田道賢
朝倉示観英珍
大沢蔵人母妙善
井上冶兵衛被官孫右衛門蓮西
御祓四郎兵衛道西
岡崎淨円
中島十郎家来道正
石上新右衛門道善
目黒下甚右衛門道秋 同 子宗忍 同 娘
学助智円
長野讃岐宗円 同内山弥右衛門道清 同 番匠又兵衛道香 同 内 妙貞
弥七宗仙
酒井二郎淨感 孫伊勢秀悦 同 聟僧 宗円
中島下源右道心 同 新兵衛内妙慶
吉川善右淨専 同 与兵衛道光
犬目道因
笛 彦兵衛清範 同 斎五郎道随 同 丹四道香 同 観新淨音 同 岩井下女妙槃
谷被官四郎左衛門道正 同 半兵衛道順 同 新右衛門道西

右戦死者弐百八拾人属滝山大善寺檀越者也

※相即寺 八王子市泉町にある寺。古くは滝山大善寺末であった。八王子城落城に際し、二世讃誉は戦いの跡をともらい、敵味方に関わらず遺骸に引導を与え、その数実に千二百余人に及んだという。また 「ランドセル地蔵」で有名な寺でもある。
※大善寺 八王子市大谷町にある寺。昭和36年大横町より大和田町に移転、さらに同56年現在地に移転した。
関東十八檀林の一つと数えられた古刹。大横町にあったときには「お十夜」として、八王子城の戦死者の追善法要として古くから境内で興行が行われ、多くの人々があつまった。本堂北側に古くからの大善寺檀家の墓域がある。津戸家の墓域には津戸為守の供養塔があり、背中あわせに新野家の墓域がある。道をへだてた向こう側に山上家の墓域がある。また続いてある霊園には有名人の墓が多くある。

天正十八年(1590)六月二十三日八王子城討死の人々(其の2)

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2009年10月10日 (土)

天正十八年(1590)六月二十三日八王子城討死の人々(其の2)

 あきる野市横沢にある金色山大悲願寺は、かって末寺三十二ヵ寺を有した古刹である。建久六年(1154)源頼朝の命により、平山季重が建立したと言われている。この寺の過去帳は『福生市史資料編・中世寺社』の中に公開されている。その過去帳より八王子城で討死した人々を抜粋して記す。

村山領奈良橋岸入道平吉家ハ庚寅六月朔ニ拝島領ニテ討死
蓮照禅定門 俗名 高尾備前 天正十八庚寅六月廿三日ニ手ヲイ廾八日ニ死 高尾助六父草花村ニ住ス
道景禅定門 俗名 由木豊前守 天正十八庚寅六月廿三日於八王子城討死 海誉ヵ亡父
西竿禅定門 俗名 由木主水祐 同庚寅六月廿三日於同城討死 西蔵実父
道意禅定門 俗名 高橋孫三郎 天正庚寅六月廿三日於八王子城討死
淨心禅定門 俗名 三内中務 同庚寅六月廿三日於討死
清照禅定門 俗名 飯田新右衛門 同庚寅六月廿三日於八王子城討死 伊奈村住人
憲照信士  俗名 高尾弥八郎 同庚寅六月廿三日於八王子城討死
道円信士  俗名 高尾弥九郎 同年同日於慈根寺城討死 高尾弥八郎ノ舎弟也

○中山勘解由○狩野一庵『実名宗円』○近藤出羽○皆同日切腹又、土屋備前 嶋村岩見同形部 森播磨 貴志五良同与市 妙善 妙珍 道源 大悦 左京 知了 西蔵 佐渡 源祐 吉定 宗阿 蓮阿 宗阿弥 五十嵐佐渡 淨金 妙精 高森但馬 能登右京等五百餘人

青霄院殿透岳宗関大居士 庚寅七月十一日於相州小田原城切腹八王子慈根寺城主ナリ
俗名北条陸奥守
平氏輝云氏政ノ舎弟也
慈雲院殿前左京北勝岩傑公大居士 庚寅七月十一日於相州小田原同切腹氏輝ノ舎兄小田原ノ城主
俗名北条氏政
道音居士 俗名大森宮内 梅屋道右 俗名小暮将監 普斉淨蓮 俗名畠中丹波 性金居士 俗名中島豊前 道照居士 俗名高尾近江草花村住人 徳改居士 俗名水野豊後 慶俊信士 俗名長野佐渡 道源信士 俗名高森弥三 高尾雪斉『高尾村平山氏』 柴田日向 鹿島田隼人 川口歓喜入道 土屋備前 若森藤佐 同丹後 小机藤太 道雄居士 俗名三内蔵人 道金居士 俗名馬場美濃太郎本ハ当国府中ノ人居住伊那村移住ス上川口村歓喜坊ト孫左衛門トノ父ナリ 已上打死小田原ニテ   

たろうさんの星☆

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今晩は木下かれんちゃん、お休みなさい☆孫たち二人と過ごして、今日も忙しい一日でした!
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たろうさんの気象観測所☆

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おはようございます。暖かいあさです、気温が上昇するそうです。八王子は多分31℃を超えると思います!昨日から娘の家の増築工事が始まりました♪熱中症に気をつけて下さいね!(#^_^#)
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今書いている詩(903)「たろうさんの孫(38)」

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今書いている詩(903)

    たろうさんの孫(38)

泣く 笑う
キミの
表情に
一喜一憂の
じぃ~ちゃんです

今日は特別に
友翔くんの
裸公開です
鼻水垂れて
ヨダレ垂れて
咳を少し
でも元気です

ハイハイ 素早くなりました
掴まり立ち
危なっかしいですが
大好きです
おばぁ~ちゃんに
まっしぐらにハイハイです

お母さんが一番
お父さんが二番
おばぁ~ちゃんも二番?
だからじぃ~ちゃんは
四番目です

友翔くんのために
砂場復活ですね!
名前の判らない
黄色い幸せの
花咲いてます

お母さんの武器は
おっぱい
お父さんの武器は
優しさ
おばぁ~ちゃんの武器は
愛情
じぃ~ちゃんの武器は
見守ること

「神さまは 何番目かなぁ~」
「たろうさん わたしは大気圏外です!」


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天正十八年(1590)八王子城討死の人々(其の3)

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2009年10月10日 (土)

天正十八年(1590)六月二十三日八王子城討死の人々(其の3)

 三ッ鱗翁物語は平成二十年五月三十日に五日市古文書研究会によって全四巻が解読され出版された。その経緯についてはこの本の「あとがき」に詳しいので参照されたい。そして、この出版に携わった人々の御苦労と努力にお礼と感謝を申し上げたい。
「…扨 此度之戦に加賀勢の討死 名有者四十八人 雑兵共五百二拾人 上杦(うえすぎ)家にて者 名高キ勇士三十六人 雑兵共四百十人(四百五十人・山本家本) 其外真田 毛利 并ニ諸方之降人共 寄手乃討死 都合千弐百七拾四人也 城方にて討死の面々は 近藤出羽之介 津戸半右衛門 上久保助兵衛 同兵衛 中山勘ヶ由 松本豊後 狩野一庵 馬場対馬守 同与八郎 高橋雅楽之助 同宇三良 中嶌豊前守 同主計 同五良 安田善左(右)衛門 高幡十右衛門 濱中新吾 綾野木工頭 長野伊豫守 鈴木彦八郎 おなじく庄右衛門 水野藤左衛門 同源七 渡邊伊賀守 同十左衛門 同又兵衛 小林土佐守 志野帯刀 志村将監 星野九八郎 枩田(まつだ)主水 細野彦次右衛門 斎藤三右衛門 同与三郎(高橋与三郎ヵ) 佐藤織部 島崎次良 小野入道 十日市次郎右衛門 嶋崎兵庫之介 同喜内 吉村三左衛門 内田河内守 銀八郎右衛門 目黒与十良 谷部玄蕃 目黒惣九郎 白井喜三郎 筭和泉守 河井二良 山田文右衛門 金子三郎左衛門 持丸彦五良 青木但馬守 鈴木出雲守 大竹隼人 桜井式部 同彦七郎 山田数馬 新野五郎 黒谷小左衛門 青木与兵衛(与三郎) 大彦次郎 大河三右衛門 安石源六 同市右衛門 駿河織之助 平尾藤右衛門 比留間大膳 同じく帯刀 石上新左(右)衛門 熊澤戸三郎 井上冶兵衛 長野讃岐守 内山弥左衛門 酒井次郎右衛門 吉川善左衛門 同与兵衛 笛彦兵衛 浅尾霽五郎 中島源右衛門 尾谷兵部 梶田十良右衛門 望月三蔵 其外平沢 冨沢 窪 長井 増島 中村 朝倉 岡崎 安都城(アトキ) 岩井 大澤ヲはじメとして 忠義鉄石の勇士 おもいおもいに討死しける 中二も 加州之手へ打取首 能武者之首弐十壱 其余三百三十五級 其外毛利 真田 大道寺ヲはじメ 降人江打取首数七十八 ことごとく桶ニ入 首帳に 印済(しるしすませ) て小田原表 秀吉公之本陣へ献ぜらる 殿下秀吉公 御感斜ならズとぞきこへしとなり…」
 相即寺過去帳・大悲願寺・三ッ鱗翁物語に記載された八王子城討死の人々は重複している。そして、多少異なっている所に注意が必要であろう。特に三ッ鱗物語の討死の人々は物語とあるので、その点が今後の研究課題である。そして、これらの人々の中に読者の先祖がおられれば幸いである。

今書いている詩(904)「たろうさんの駐車場」

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今書いている詩(904) 

   たろうさんの駐車場

賢明なあなたなら
ルールに従って
車も 人生も
走らせるのでしょうね

お客様が優先で
緑や家がある所では
前向き駐車なんです

障害者用のスペースに
近いからと言って
止めていませんか
「自分さえ良ければ」
人の痛みを忘れた行為です

中年の叔母さん
目に余る行為見かけますね
並ばないで列に割り込む
赤信号でも渡る
「みんなで渡れば怖くない」

強い者が優先の
社会になってません?
「成果主義」は企業側を
助けるだけです
弱者を念頭に考えれば
争わなくても良い社会になります
奪い合えば足りない
分け合えば足りるのです

「衣食足りて礼節を知る」 最もです
でも 「強きを助け 弱気を挫け」の
社会に同調してる
自分に気がつきませんか

「神さま 天の国にもルールあります?」
「たろうさん わたしの国では手信号です!」

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目黒掃部助

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2009年10月24日 (土)

目黒掃部助

 天正十八年(1590)六月二十三日八王子城討死の人々の中に「…目黒与十郎宗念・同惣九郎道円・同与兵衛道善…目黒下甚右衛門道秋・同子息宗忍・同娘…」がいる(相即寺過去帳)。この中に目黒掃部助が含まれているかについては不明である。推測するとすれば、目黒与十郎宗念であろうか。この過去帳によれば目黒氏の一族の主だった人々が皆討死しているようである。北条氏照は宮寺与七郎に金子掃部助の名跡を与えているが、目黒掃部助の掃部助は目黒氏が従来から使用していたのであれば家格は高いのである。目黒氏は『新編武蔵風土記稿』多摩郡之十六上恩方村の条に記載の龍蔵権現に関係があるようである。八王子上案下の熊野宮旧蹟戸との関係については次のようにある。熊野速玉大社の『熊野山新宮勧進状』に注目したい。
 熊野速玉大社の『熊野山新宮勧進状』の裏面に記載された人々は勧進を取り扱った先達が、覚えのために便宜一筆をもって書き付けたものと考えられ、全般の文字の体様から、近世初頭の頃のものかと考えられるようであるらしい。この人々の大部分は一般民衆である。その覚えの中に次のような記載がある(この記載を最初に指摘されたのは湯山学氏である)。

「……
 一   二貫文 武州多西郡由井郷住人 目黒掃部助
      百二十文 関山弥五郎重顯 六百文 右京 ……六十由比次郎…」

 目黒掃部助の二貫文の寄進は大きい額である。この地の有力な土豪であろう。戦国時代は二貫文=2000文=4石である。1石は1年に1人が食べる米の量。六百文右京は神官の鈴木氏か。また、六十由比次郎はかっての名族由比氏の末裔であろうか。
 武州多西郡由井郷は、現在の八王子市大楽寺町・諏訪町・上壱分方町・弐分方町・西寺方町あたりと思われる。往古、由比牧があり、鎌倉期には天野氏が領主であり、僧儀海が最初におとずれた布教活動の拠点である。由井本郷と呼ばれていた。戦国期には大石氏の拠点でもあり、諏訪神社の近くに八日市場もおかれていたと思われる。北条氏の武蔵進出に伴い、由井郷にも北条氏綱の家臣の関山弥五郎重顯や関山土佐昌清(宝泉庵文亀三年三月開基)が活動していた。相模原市当麻の地にあった当麻の関所の虎の印判状に関山弥五郎重顯の名がみえる。

「  しほ荷弐駄の分、一ヶ月の中、此の如くとほすべき
   ものなり。これは家内のつかひ用の義なり。よってく
   だんのごとし。
    天文五 丙申 八月廿日
                 関山弥五郎とのへ       」
 
 関山氏は相模国東郡当麻郷の地侍。伊予国関山の出身になる河野氏の一族とつたえ河野通明の次男福良通豊の七男関山民部丞通安は通明の嫡宗と伝える。一遍上人に従って相模国当麻に時宗の無量光寺を開くと土着した。子孫は伊勢宗瑞の時から仕え飛脚役を世襲して務め、当麻宿の宿場管理と当麻関所の支配を任されていた。
 永禄四年(1561)と推定されている、武田信玄が甲斐郡内領上野原の領主加藤丹後守に送った書状に「(上略)然者氏康由井在陣、敵味方之間隔三十里之様(下略)」(諸州古文書甲州一)とある。氏康の由井在陣を可能にしたのは、由井郷の関山氏によるものであろう。
 倉員保海氏は「八王子上案下の熊野宮旧蹟について」(『多摩のあゆみ』第二七号)の中で「……老人伝言に、往時一の鳥居が神戸に在りて之を掌る、神主と伝える者も亦附近に在りしと……」と述べている。『新編武蔵風土記稿』に次のようにある。

   安下熊野宮之禰宜役并二百文屋敷於末代不可
   有相違者也 仍如件
     同高茶野丁
     天文廿壱年八月十九日    花押
          禰宜彦次郎
 
 関山氏の居住地は現在八王子市弐分方町の弐分方運動児童遊園の辺にあった。近くには旧家、菅沼家や由井氏の館跡とされる、報恩寺跡があり、由比牧の中心地があった。目黒掃部助の居住地もこの辺りであったのであろう。
 浅川宮諏訪大明神御縁記は享保拾年(1725)乙巳春卯月に、鈴木左京武豊によって書かれたものである。その中に「……西方白虎守護神案下郷熊野大権現とす……」の記述がある。この案下熊野宮を通じて由井郷の人々、目黒掃部助・関山弥五郎重顯・右京等は熊野速玉大社に勧進をおこなつたのであろう。熊野速玉大社の『熊野山新宮勧進状』は戦国期多摩を知る貴重な資料である。

今書いている詩(905)「たろうさんの天水」

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今書いている詩(905)

    たろうさんの天水

天の吐息が
雲を呼び
雨になる
山を 野を
わたしのこころを
潤す

わたしの屋根は濡れ
こころの樋を伝い
わたしのこころの
庭に染み込みます

こころの二重の
フィルターで
濾過された天水は
一条の湧き水となって
滴り落ちる

わたしのこころの
水源地の誕生です
嬉しい滴なのです
川までは
遠い道乗り

蒸発・浸透を繰り返し
やがて 小川も
大河に繋がる
海に注ぎ また天水となる

限りないこころの
循環と重なる
嬉しいかな 嬉しいかな

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日奉氏と武蔵四牧(石川牧・小川牧・由比牧・立野牧)

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2009年11月 1日 (日)

日奉氏と武蔵四牧(石川牧・小川牧・由比牧・立野牧)の成立

 日奉氏は古代品部(しなべ)の一つで太陽祭祀(さいし)を司った日奉部に起源を持つ氏族であり、国衙(府中)西方日野(土淵)に土着し、祭祀集団として存在していたとされている。日奉部の太陽祭祀とは、太陽の光のもっとも弱った冬至などの冬の季節に日炊(ひたき)の行事を行い、火の力で太陽の力を復活させようとしたものだろうという。
 日奉氏の祭神は土淵郷の日ノ宮権現(東京都日野市栄町にある日野宮神社)で、ここを中心に祭祀集団の日奉氏一族が勢力を張っていたといわれている。そして、この地域を拠点とし、在庁官人として勢力を広げ、鎌倉街道の以西、多摩の西南である「多西郡」を中心に勢力を伸ばしたので、多西ないし西を称するようになったという。武蔵七党系図(内閣文庫蔵「諸家系図纂」)は天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)を先祖とし高魂命(たかむすびのみこと)を日奉氏祖神とし、中興の祖を武蔵守宗頼(むねより)としている。宗頼の子宗親(むねちか)は内舎人(うどねり)。宗親にに二子あり。長男宗忠は日内太郎あるいは西内大夫という。二男の宗弘(むねひろ)は二庁官で由井別当とも称し、京都に奉公している。
 日奉氏小川氏系図では藤原道頼(山井大納言)の子を宗頼とし、宰相西祖としている。また宗頼を日野宰相、武蔵国に流されるとしている。しかし尊卑分脈には、藤原道頼の子に宗頼はいない。『姓氏家系大辞典』(太田亮)は武蔵国造一族であろうという。
 道頼は藤原道隆の長男として生まれたが、母親の身分が低かった事から異母弟藤原伊周よりも低く置かれていた。永延三年(989)権中納言。正暦四年(993)八月二十八日権大納言。長徳元年(995)に大流行した赤斑瘡に倒れて25歳の若さで薨去する。『大鏡』によると、まるで絵から抜け出してきたような、美しい容貌をしていたとされる。また、性格もよく、軽妙洒脱で面白みのある人物であったという。
 宗頼が武蔵国に流された事については父の異母弟、伊周が弟隆家と起こした「長徳の変」によるものと思われる。太政大臣恒徳公藤原為光の四女に通う花山法皇を、自分の思い人の為光三女目当てと誤解した伊周が弟隆家と謀って道すがら待ち伏せ、彼らの従者が放った矢が法皇の袖を突き通した一件に発端するとされている(『栄花物語』。なお、『小右記』によれば、法皇の従者の中に2名の死者が出たともいう)。当時、貴族間のこうした事件は決して珍しいことではなかったが、退位したとは言え天皇に向けて矢を射掛けるという前代未聞の事件が問題にならない訳がなかった。藤原道長はこの機会を見逃さなかった。除目により、内大臣伊周を大宰権帥に、中納言隆家を出雲権守に貶める宣旨が下され、彼らの異母兄弟、外戚高階家、また中宮の乳母子源方理らも左遷されたり殿上の御簡を削られたりと、悉く勅勘を蒙った。武蔵七党の児玉党の祖となった遠峯は伊周の子である。宗頼も連座して、武蔵国に下向し国衙(国府)に近い日野の地で、当地の古代豪族の系譜を引く日奉氏の女性と結婚し、ここに父系では藤原氏、女系では日奉氏という一族が成立したと考えられる。
 貞観九年(867)八月二十一日 武蔵国勅旨牧貢上馬の駒牽の儀がおこなわれる
 〔三代実録〕 一四 貞観九年八月二十一日条
廿一日丙戌、天皇御紫宸殿、閲武蔵国貢駒、 〔新訂増補国史大系〕四
(解読)
廿一丙戌(ひのえいぬ)。天皇紫宸殿に御し(清和天皇)、武蔵国の貢駒を閲す。
(解説)
 武蔵国の勅旨牧は、延喜九年(909)に立野牧、承平元年(931)に小野牧、承平三年(933)に秩父牧が勅旨牧に編入されるまでは、現在の八王子市とあきる野市にその故地が想定される由比・小川・石川の三牧であった。ここでいう「武蔵国貢駒」とは、この三牧である。記事はきわめて簡略であるが、六日前の信濃国貢駒の記事に「十五日乎辛巳(かのとみ)。天皇紫宸殿に御し、信濃国貢駒を閲覧す。左右馬寮をしておのおの廿疋を択び取らしむ。親王已下、参議已上、おのおの左右近衛中小将、左右馬寮頭・助おのおの一疋を賜るなり」とあって、やや時代が下ってその詳細が明らかになる駒牽とほぼ同じ儀式を執行したことが判る(日野市史史料集古代・中世編)。
 この記事の解説から日奉氏はすでに由比・小川・石川の三牧を営んでいたことが知れる。立野牧は立川市にあったと推定すると、武蔵四牧は日奉氏によって営まれたのである。そして、小野牧も日野・八王子両市にまたがって存在し、小野篁の子孫の小野氏によって営まれていた。この小野氏はのちに横山党という武士団となる。多摩の西部一帯は牧で占められていたのである。
 お茶の水女子大学の渡辺真紀子氏は「TeaPot」(お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション)に「黒ボク土の生成と農耕文化:とくに放牧との関わりについて」の論文で「黒ボク土」が存在する日本の各地では馬の飼料となる禾本類、とくに長草型のイネ科草類(ススキ・サトウガヤ・トダシバなど)を好み、ついで短草型のイネ科類(シバ・トボシガラ・コブナグサ)を好み、樹葉類はあまり好まない。またササ型草類(ミヤコザサ・ネザサ・ゴキタケなど)は、地域によっては冬にも緑葉をつけているので飼料価値が高い(井上、1967)と指摘している。最も官牧が群集していた地域は本州中央高地東部と関東西半部であり、古墳期の埴輪馬の出土分布とよく対応する。東北地方には平安初期に官牧がなかったが、関西で開発にために廃牧が進み、さらに東国4国に置かれた勅旨牧の牧制が崩壊するのを受けて、東北地方ではしだいに牧の数が増し、鎌倉時代には牧馬の中心は日本の東北部に移っていた(高橋、1958)。 安田(1959)によれば、古代の放牧の方法は、自由放牧(放飼)が一般的飼養法であったが、牧飼も普及し、作物を荒らす恐れの少ない冬季に、付近の山野で自由に放牧し、作物がのびはじめる時期になって、牧に狩り込めるという農業を主体とした日本の国情にあった方法がとられていた。また8世紀初めの「大宝令」にみる厩牧令(ぐもくりょう)では草地改良のための火入れの時期が定められていた。牧の立地は、地形、水、植生に支配されるが、古代の官私牧は氾濫原や三角州、島や岬角、開田のおくれた扇状地、火山山麓斜面、台地あるいは狭い谷底平野が利用された。このうち、平坦で肥沃な沖積低地は耕地の拡大のために、比較的早い時期に放牧の制約を受け、廃牧となった所が多い。
 4世紀の終わり頃、朝鮮半島北部の高句麗好太王(こうくりこうたいおう)の碑文が伝えるように、倭政権は半島で、高句麗と戦うが、その最中、高句麗の騎馬戦力に接し、歩兵の不利さを悟った。また戦場で軍を指揮するのに馬上が有利で、倭人が乗馬を始めるきっかけとなった。日本列島における馬の使用は、戦いの手段、軍備の一部として始まった。6世紀中頃からの欽明・敏達天皇の時期、朝鮮半島では伽耶諸国が滅亡し、その前527年には筑紫に磐井の乱が起こり、大和朝廷内部には蘇我氏と物部氏の確執が生じ、国内の政治は混乱を極めていた。そこで大陸対策と内乱の備えとして、強力な騎馬軍団の備えを必要とした。方策は東国の適地に飼馬地(牧場の原型)を置き、国造の子弟を舎人として上番させることであった(茅野市の古代山鹿郷の塩原之牧と山鹿牧、総説)。
 牧では自然地形を利用して馬が放し飼いにされる。春には草の生育促進と病虫害対策の配慮から、野焼きが行われた。初夏には、牡馬の発情期に合わせて、優秀な馬を産出するため種馬による交尾が行われた。そのため馬寄せがなされ、また放牧された。秋にはまた馬寄をし、馬の検印と選定がなされる。その際、国司が立会い2歳の駒が新たに登録され、「官」の焼印が押され、牧馬帳に記され中央に報告された。選定された馬は、厩で飼育され馬場で、乗馬ように調教された。その翌年8月、牧監(もくげん)の責任で朝廷に貢上され、天皇の面前で駒牽される。
 山鹿牧などでは、牧の責任者である牧長と事務書記役の牧帳がひとりずつ選ばれ、馬100疋を1群として牧子2人が当てられた。馬の管理責任者は牧子であって、馬が損失すれば弁償させられ、駒を増やせば報奨稲がもらえた。それ以外に、馬の調教にあたる騎士、馬医師の馬医(めい)、貢上の駒牽や厩で飼育に従事する飼丁(しちょう)、馬子(まご)、居飼(いかい)、卜部、足工(あしく)等もいた。これらの人々は庸や雑徭などの課役が免除され、彼らは朝廷の左右馬寮の管轄下で、駒を京に貢上する貢馬使となる。その上洛途上、中央の権威を借りて、官道の駅家や郡衙を利用する際に横暴の振る舞いが多かったようだ。官符がないのに駅馬を乗用し、時には暴力に及んでも、地方官の郡司や駅長らも恐れ、その違反を職制から正すことすら出来なかったようだ(茅野市の古代山鹿郷の塩原之牧と山鹿牧、牧の生活)。
 天暦5年(951)10月2日の武蔵国勅旨牧の駒牽では石川・小川・由比牧が20疋、立野牧が5疋となっている。長保元年(999)の立野牧の記事を最後に武蔵国貢駒が行われた記録はない。牧の荘園化が進み武蔵国の牧は衰退していつた。しかし、貢駒に替り、牧を経営する別当達は自ら騎乗し武士団に成長してゆく。治承・寿永の内乱を戦い抜いた、西党の平山武者所季重は自分の活躍は千葉氏から手に入れた良馬があったからであると語っている。既に西党の牧には良馬がいなかったのであろうか。
 武蔵野のススキは茫々と繁り未開の大地が広がっていたのが武蔵四牧の成立に関わっているであろう。そのススキを育んだのは黒ボク土であった。また、葛の葉や山萩なども馬が好んだという。それも、これらの地には生育していたであろう。

 赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 かしゆか やらむ  『万葉歌碑』 (真覚寺万葉公園)
 
 この歌の作者は、豊島郡の上丁(正丁=二十一歳~六十歳までの男子を指す)椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)の妻宇遅部黒女(うぢべのくろめ)である。『万葉集』巻二十所収。

たろうさんの気象観測所☆

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おはようございます。寒暖の差が激しい八王子の夕焼けの里です。皆さん体調の維持にご注意くださいね!
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今書いている詩(906)「.たろうさんの夕陽」

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今書いている詩(906)

    たろうさんの夕陽

思い出したくないのに
過去を回想する
思いだけが空転して
わたしも 地球も
永遠に自転する

沈みたくないのに
夕陽が沈む
だから思いを残して
空を紅に染める
わたしに似ているんだ

わたしが転ばないで
地上に立っているのは
神さまの意志に反しているから
転ばないように
必死にこころを
杖で支えているから

引力は神さまの意志
わたしは反逆者に近い
67歳のこころのテロリスト
だから無重力の世界には
興味が無い振りをしているんだ

思いを少しでも 掴みたい
重力は神さまに通じているから
両手で掴める 今の現実が好き
でもね 幸せは簡単に掴めない

わたしの両手は 
今日も空(くう)を
掴もうとする

こころのアンテナの向こうに
夕陽が沈むとき
わたしの血が
夕陽に滾(たぎ)る
紅いに 燃える 空がある

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たろうさんの備え!

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おはようございます。暖かいあさです、異常気象でしょうか?地震に備えておきたいです、我が家では常に20リッターのポリタンクを3個置いてあります。風呂の水もトイレ用には使えます、今度の家はプロパンガスです。ソーラーパネルで、灯りの事や、携帯、パソコンの電源確保をしたいと思ってはいますが、まずお金の確保ですね(#^_^#)
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今書いている詩(907)「たろうさんのチョウチョウ!」

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今書いている詩(907)

    たろうさんのチョウチョウ

キミは去年も来た
モンシロチョウさんかなぁ~
ゆっくり休んでいってね
今年は菜の花がなくて
ごめんね 来年は
一面の菜の花にするよ

食い気の洋子さんが
チョウホウナを植えずに
花の咲かないカブ等を植えた
わたしも気がつかなかった
わたしは耕すだけでのひとで
種を蒔くのは洋子さん

厳しい冬だったよね
だけど桜が早く咲いて
わたしの家の桃の花と
同時に咲いたよ
老夫婦の家にも春だね
ついでに桃の花の蜜も
味わって帰ってね
今年はいっぱい咲いているんだ

いつもなら ヒラリヒラリと二匹で
上になったり 下になったり
忙しいそうだけれども 独りで来たんだね
畑を耕さずに このままにしておくから
相方さんを連れて また来てね

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枩田(松田)=松田主水

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2009年11月14日 (土)

枩田(まつだ)主水=松田主水

 天正十八年(1590)八王子城討死の人々(其の3)の中に枩田(まつだ)主水がいる。『相即寺過去帳』や『大悲願寺過去帳』にその名はないが『三ッ鱗翁物語』にのみにある。この『三ッ鱗翁物語』は『八王子城滅亡』の著者川村掃部氏によって八王子郷土資料館にあることを教えていただいた。すでに『八王子市史下巻』ではその存在が指摘されていたが、評価は高くなかった。それは多分に『三ッ鱗翁物語巻五』のみであり、完全な型でなかった事であろう。そして、その「巻五」が志村将監景光の八王子城奮戦の様子を中心に書かれているという内容にあった事であろう。しかし、この「巻五」の人々の姓名は『相即寺過去帳』や『大悲願寺過去帳』に比べて詳しく記載している事である。さらに、これらの過去帳の記載にない人々が存在しているいる。この『三つ鱗翁物語巻五』は写本として、下原鍛冶の宗家山本康臣氏宅にあったようである。写本の時期は大正時代である。私事であるが、この志村将監景光は母方の先祖である(拙稿「天正期における北条氏照家臣団」-土屋備前守軍役人数書立に見る戦国ーを参照されたい)。あきる野市の五日市古文書研究会の清水菊子氏に解読を御依頼したところ、欠巻と思われた一巻から四巻があるといわれ、その時、是非全巻の解読をお願いし、数年後に五日市古文書研究会の人々の御努力によって完成されたいきさつがあった。このことは『三ッ鱗翁物語』のあとがきを参照されたい。
 枩田主水=松田主水であろう。天正十八年(1590)六月二十三日八王子城討死の人々(其の3)を読み直しているうちに、枩田(まつだ)主水が気になり始めた。Googleに松田主水を入力してみると、Yahooのオークションに「本物浮世絵木版画山本勘助松田主水長短鎗試合之…」があった。貞秀画、江戸嘉永版とある。すでに完売されているようである。貞秀の作品は他の作者にくらべて写実的であると言われ、歴史資料としての価値も高いとされている。この他にも国芳の作品もある。
 山本勘助は永禄四年(1561)九月の川中島の戦いで討死している。この長短鎗試合の図はこの時か、それ以前のものであろう。近年まで山本勘助の存在は疑問視されていたが、幕末期の人々の中に山本勘助は生きていたのである。平山優著『山本勘助』、別冊歴史読本『山本勘助と戦国24人の名軍師』にも松田主水の記述はない。またNHK大河ドラマの原作となった、井上靖著『風林火山』にも記述はない。
 北条氏照の家臣には松田氏から大石氏に養子となった、大石四郎右衛門尉秀信・大石惣四郎照基がいる。北条氏照と松田氏との繫がりは深い。枩田(まつだ)主水=松田主水が氏照の家臣となり、八王子城討死の人々(其の3)の中にいたのであろう。それが「山本勘助松田主水長短鎗試合」の松田主水である可能性が高いが、真実は今後の研究の課題としたい。松田主水はかなり高齢で、孤独な討死であるような気がする。
 

たろうさんの星☆

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今晩は木下かれんちゃん、我が家の紫陽花とも今年でお別れです。我が家の琵琶が実りました、食べに来て下さいね?(#^_^#)
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今書いている詩(908)「たろうさんの誕生日(4月14日)」

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今書いている詩(908)

    たろうさんの誕生日(4月14日)

娘が誕生日に
何か買ってくれるらしい
洋子さんは「お金と言わないでね!」と
わたしにクギを刺す
物は要らない
お金は欲しいです
ロト6で一等を当てて
家のローンと娘の家のローンを
返して「ゼロクラウン」の3万キロの
中古車を買えるくらいの
お金は欲しい がそれは
「幸せ妄想」になってしまう

家のローンを除けば
今の生活で十分足りている
むしろ 恵まれすぎている
洋子さんが生んだキミと
キミの生んだ孫のおかげで
「嬉しい日々なんだよ!」
わたしの未来の幸せの分は
キミたちにあげて
キミと孫と加藤くんの
ハッピーな生活に使えるといいね

今の地に住むことは
わたしの知り得ない
未来だったが
今は現実になっている
因と縁の法則によるものです
わたし流に考えれば
「清水中世史研究所」の
引き寄せた因と縁です
今は判らなくても
何時か判るときが来ます

わたしは洋子さん キミと孫に加藤くん 
そして わたしに縁があるひとびとに
ありがとうの感謝です
突き詰めれば「神さま」に
生かされてることへの
「感謝」なんだけれどキミたちは
無理に判らなくてもいい

健康は自分で作れる
健康であれば「お金」が
近づいてくる
身体も こころも
自分次第なのです
「愛と不安」が裏表のように

こころの財布に挟みたいので
「お父さん ありがとう」の
手紙が欲しいです

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