Quantcast
Channel: たろうくん(清水太郎)のブログ
Viewing all 5691 articles
Browse latest View live

今書いている詩(308)  

$
0
0

今書いている詩(308)  

たろうさんのピーマン(希望)

 プランター育ちの
 緑色の濃い実が
 大きく膨らんだ
 ピーマン君よ

 良く育ってくれたね
 「中身がピーマン(空)だね
  なんて言わせないよ」

 何が君の中に
 詰まっているんだい
 希望なんかだと
 嬉しいよね

 娘はまだあるからと
 ナスとキュウリに
 ミニトマトを持って帰った

 いいよ いいよ
 わたし一人で
 食べますよ

 「おお~い 洋子さん
  ピーマンのひき肉の中に
  希望も挟んでね」



たろうさんのクレマチス(*^▽^*)

$
0
0

おはようございます。クレマチス、お隣の奥さんが育てました♪
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
#日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr
#LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ
#Google#GREE#
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

戦国残照

$
0
0

2009年8月 8日 (土)

戦国残照

伊勢新九郎氏茂入道早雲(あきる野市大悲願寺過去帳)は駿河国守護の今川義忠の正室であった妹の北川殿を補佐して今川家の内粉を調停し、興国城主となり関東への足懸かりをつくり堀越公方を滅ぼし、小田原を手に入れたのは今川氏が室町幕府の関東への抑えとしての軍事行動であったように思われる。早雲の出自は唯の素浪人とされていたが、現在は幕府政所執事伊勢氏の一族が岡山県井原市東方の高越城を拠点にした伊勢盛定の子としてうまれ、青年時代をこの地で過ごし京に登り足利義視に仕えていたというのが定説となっている。早雲の夢は「享徳の大乱」以来の関東の戦乱を鎮め、ゆくゆくは上杉氏に代わって関東管領として古河公方を補佐することであつたろう。子の氏綱が北条姓を名乗ったのもそのためであろう。北条氏は鎌倉八幡宮の再建にも力を注いだ。氏康・氏政・氏直と五代にわたり百年を通じて今川家との間には友好関係が続いた。今川家が滅びると氏真を受け入れている。
 朝倉氏が百年で滅びた過程と北条氏もよく似たところがあるように私は思っている。織田家との間は比較的に良好であったが秀吉とのパイプがなかった。氏政は時代に適応できなかった。それは、弟の氏照と子の氏直の家臣団の対立を調整できなかったことであろう。氏照は古河公方の権威を背景に北関東に進出してゆき、北条家のナンバー2となり、氏照は陸奥守を正式に受領している。今や、北条氏の研究はこの氏照を中心となっている観がある。
 天正の初年の北関東の戦いは佐竹氏側の多賀谷氏と北条氏側の岡見氏との代理戦争であった。小田氏に替って竜ヶ崎地方を抑えた岡見氏はもともと小田氏の一族であった。天正六年頃、この岡見氏の消息を知る氏照の書状がのこされている(岡見文書)。やがて岡見氏は北条氏の家臣化してしまい、北条氏が滅ぶと結城秀康に仕える。結城秀康に仕えたのはこのほかにも、梶原美濃・由木左衛門尉景盛・大石照基(松田松庵)・小田氏冶・守冶親子がいる。岡見文書は江戸時代に整理せれたようで、その中に岡見氏系図がある。そこに、次のような記載がある。

 ○某 岡見五郎左衛門(常陸国河内郡牛久新地城主、子孫新地ニアリト云、)ー女子 常陸国河内郡岩崎城主 大石四郎左衛門某妻・女子 小田原北条家ノ士、大藤兵部某妻

 ○朝冶 小田源太郎、肥後、亨禄二年己丑年小田城内ニテ生ル、故有テ母トトモニ小田ヲ出テ、相州小田原ニ走リ、北条家ニ奇食ス、天正十年壬午十月十三日卒、五十三歳ト云、-朝家 小田源太左衛門、父ト俱ニ北条陸奥守氏照ニ属ス、北条家滅亡後、松平薩摩守忠吉卿ニ仕、卿逝去ノ後、元和四年中山備前守信吉ノ薦ニテ、水戸頼房卿ヘ奉仕、子孫水戸ニアリ、

 下山冶久編『後北条氏家臣団人名事典』に次のようにある。
 おだの〔小田野〕 武蔵国多摩郡別所村(東・八王子市)など小田野地区を本貫とした地侍。別所の教福寺が菩提寺。『新編武蔵』多摩郡別所村教福寺の小田野肥後守定久墓の条には「八王子城主北条氏照が家人なり、流浪の後当所に住し、元和二年七月六日寂せり、法諡を白月斎葉山道秋と云、その子源太左衛門は当寺を起立せしよし、この人後に水戸殿に仕え野をのぞき小田と称せり」とみえ、村内の稲荷社は小田野源太左衛門の鎮守。

 小田野源太左衛門が小田氏となった背景には、もともと小田氏の出自であったことによると思われる。水戸家の附家老中山氏には多くの氏照の旧臣が仕え八王子衆とも呼ばれていたが、何故か禄を離れている人々がいる。よほどの事情があったのであろう今後の研究課題としたい。
 

今書いている詩(896)「たろうさんのポイント」

$
0
0
今書いている詩(896) 
  
 たろうさんのポイント

大いなる大地に
善悪を測量するための
神のポイントを穿(うが)とう

その上に三角測量に使う
錘を垂らすんだ
静かに揺らす
過去・現在・未来と
行きつ戻りつ
ポイントの上で錘が止まる

魂も輪廻の繰り返しで
悟りに近づくと止まる
輪廻が終わり
涅槃の世界だ

人は経験するために生まれる
神さまも それを望む
人の実体験を通じて
学ばせたいのが
神さまのご意志です

神さまは残念なことに
地上では 肉体を持たない 
弱みをお持ちなのです

人間よ 奢ってはいけません
神を越えたつもりでも
それはこの世だけの儚い定め

「神さま わたしなら 錘を強く揺らします
 悟りはいりません」
「たろうさん学びなさい 神の法則(ポイント)を
 フーコーに教えたのはわたしです!」

世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
#日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr
#LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ
#Google#GREE#今書いている詩
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

豊嶋勘解由左衛門尉 平康保・宗忠(兵庫頭)・同人の室

$
0
0

2009年8月14日 (金)

豊嶋勘解由左衛門尉 平康保・宗忠(兵庫頭)・同人室の墓

 永林寺(東・八王子市下柚木)は大石氏所縁の寺である。開基は大石定久で、開山は一種長純(大石定重の弟)となっている。寺の裏の区切られた一角に大石定久の墓を中心に家臣達等の墓塔が並んでいる。この人々については拙稿「大石氏関連の永林寺墓碑銘考」で述べてあるので参照にされたい。此処ではその片隅にある豊嶋勘解由左衛門尉平康保・宗忠(兵庫頭)・同人室の五輪塔について記しておきたい。正面に戒名、左右側面に名前と没年が刻してある。

 清岳光輪居士(豊嶋勘解由左衛門尉 平康保 永正元甲子年八月十五日)
 心月正印居士(豊嶋兵庫頭 平宗忠 天文二十年辛亥四月十一日)
 華林妙昌大姉(同人室 弘治元年乙卯年三月五日)
 
 豊嶋氏は平姓秩父氏の一族で、武蔵国豊嶋郡から発展し平安時代から室町時代にかけて国人系領主として存続した。長尾景春の乱に豊嶋泰経は与党として組みし太田道灌と対立する。その結果、江古田・沼袋原の戦いに敗れ、文明十年(1478)豊嶋泰経は平塚城で再挙するが、太田道灌の攻撃を受けて落城、小机城に逃れる。しかし、ここも落とされ、泰経は行方知れずとなり豊嶋氏宗家は滅亡した。杉山博著『豊嶋氏の研究』も豊嶋氏本宗家の泰経以後は不明とされている。没年からすると、この豊嶋康保・宗忠の墓はどこにもないとされていたものであろう。
 葛西城の大石石見守の動静とも関連していたことから、豊嶋宗本家は最後には大石定久のもとに身をよせていたとおもわれる。そして、徳川家に仕えた豊嶋氏により供養のためにこの墓塔が作られたと考えたい。

今書いている詩((897)「たろうさんのゴム風船♪

$
0
0

今書いている詩(987)

    たろうさんのゴム風船

もっと 力いっぱい
ふくらまそう
希望のゴム風船

迷っていたら
だめなんだ
まだまだ ふくらむよ

両手で 空へ
飛ばすのさ
明日へ向かってね

ほらね こころも
ふくらんだろう

「神さま 希望のゴム風船を
 もっと下さい!」
「たろうさん 夢もふくらませるんですよ!」



http://www.facebook.com/#!/tarou.shimizu 清水太郎Facebookの記事に接続が出来ますよ!
http://taroukun-rekishi.cocolog-nifty.com  清水中世史研究所のブログにアクセスが出来ますよ!
http://twitter.com/#!/taroushimizu      清水太郎のTwitterですよ!
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
#日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr
#LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ
#Google#GREE#
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

儀海

$
0
0
2009年8月22日 (土)

儀海

 日野市高幡不動尊金剛寺の中興開山権少僧都儀海は鎌倉期の弘安2年(1276)から文和3年(1354)までの生涯の大半を新義真言宗教学の研鑽に情熱を捧げた僧である。儀海の足跡は奥州小手保の甘露寺、下野小山の金剛福寺、常陸亀隈の成福寺、武州横河の慈根寺、同じく長楽寺、相模鎌倉の大仏谷や佐々目、山城醍醐の三宝院、紀州高野山金剛峯寺、同じく蓮華谷の誓願院、紀州根来の大谷院、同じく豊福寺中性院など各地の談義所を繰り返し訪れている。
 儀海についての研究は櫛田良洪著『真言密教成立過程の研究』正・続、細谷勘助氏「儀海の布教活動と中世多摩地方」(『八王子市郷土資料館紀要第一号』)、高幡不動尊金剛寺貫主川澄祐勝氏「儀海上人と高幡不動尊金剛寺」(『多摩のあゆみ』一〇二号平成13年)などがある。それらの著述の基となるのは昭和10年の黒板勝美編『真福寺善本目録』正・続二冊である。現在は智山伝法院編『大須観音真福寺文庫撮影目録上・下巻』(平成9年3月31日発行)がこれを補っている。
 名古屋市大須の真福寺開山である能信は、その伝に「赴東部、謁高幡不動儀海和上、探中性一流之源底、今吾寺武蔵方是也」とある。師主儀海は事相二教の達人で、法脈を「虚空蔵院儀海方」と称し、それは能信に附法され「武蔵方」と言われる。儀海が諸地域で書写した密教経典は能信をはじめとする弟子たちによって書写され、この写本を通じて、また各地方に転写されていったので教学は関東のみならず、広く広範囲に伝わることとなった。また、能信は真福寺を開くにあたり、自ら書写したものを含め、多くの経典を名古屋へ移したが、それはまとまった形で今日に伝えられている。それゆえ私たちはこの経典の奥書を通じて、儀海の行動を知ることができるのである。
 拙稿の儀海についてはそれぞれ次の論考を参考にされたい。
「真言僧儀海の足跡」は「shingonsou-gikaino-sokuseki.doc」をダウンロード
「儀海史料」は「gikai-shirixyou-shiriyou.doc」をダウンロード
「儀海史料真福寺文庫撮影目録(上・下巻)解説は「gikaishiririyoukaisetu.doc」をダウンロード
「儀海年表」は「gikai-nenpiyou.doc」をダウンロード

たろうさんの気象観測所

$
0
0

おはようございます。2時過ぎに凄い雷鳴で、起きました?(*^▽^*)
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
#日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr
#LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ
#Google#GREE#
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!


たろうさんのムーブ君

$
0
0

新しい私の手足となってくれるムーブ君です、走行距離は104360キロからのスタートです?私と同じ中古車、外装もエンジンも快調です。あと6年は頑張って走ってね♪娘の中学校の同級生が、営んでいる八王子のツバサオートさんから買いました♪
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
#日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr
#LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ
#Google#GREE#
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

八王子合戦と大導寺駿河守政繁

$
0
0
2009年9月12日 (土)

八王子合戦と大道寺駿河守政繁

 天正十八年(1590)六月二十二日、月明かりを頼りに前田利家・上杉景勝の両大將は上州、武州の降人を先鋒として15000余の軍兵を亥の刻(午後9時から11時)より段々に進め近寄らせて、丑の刻(午前1時から3時)に横山口に至り、黎明に八王子町構えの城戸を破るといえども、城までは遥かに遠きゆえを是を知らず。守兵少なくして、恣に是を破り入りて城際に押し詰める(『武蔵名勝図会』所収「古戦記」)。八王子合戦の始まりである、あっけなくその日のうちに落城した。名のある首250とも500ともいわれ、討死した者3000と書かれた文書もある。同年4月には豊臣の先遣隊によって三多摩の各地は抑えられている。あきる野市の大悲願寺過去帳には「村山領奈良橋岸入道平吉家ハ六月朔日ニ拝島領ニテ討死」と記載されている。先遣隊に従わなかった土豪の死であろう。
 上州・武州の降人の先鋒その中心にいたのが大道寺駿河守政繁である。天正18年豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、中山道の入口である上野の松井田城を守っていたが、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの大軍の前に開城降伏した。その後、豊臣方に加えられ、忍城攻めの道案内を勤め、5月22日に武蔵松山城、6月14日に鉢形城、6月23日に八王子城攻めと北条氏の拠点攻略戦に加わった。特に八王子城攻めでは、城の搦め手の攻め口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し最も働いたとされている。しかし7月5日に小田原城が陥落した後の同月19日、秀吉から北条氏政・氏照・松田憲秀らと同じく開戦責任を咎められ(秀吉の軍監と意見が対立し讒言された、秀吉に寝返りを嫌われた、小田原北条氏の中心勢力を一掃させたかった、などの諸説あり)、自らの本城である川越城(城下の常楽寺)にて切腹を命ぜられた。享年58。政繁にとって、代々の北条氏に仕えることも大事であるが、大道寺氏の家(家族、家臣団)の存続を考えることも大事であっただろう。彼の裏切り行為を後世の我々がただ責めることは、同時代の武家の当主の生き様からいって不適当であろう。
 大道寺氏は北条氏家中では御由緒家と呼ばれる家柄で、代々北条氏の宿老的役割を務め、主に川越城を支配していた。政繁は氏康・氏政・氏直の3代に仕え、内政手腕に優れ、軍事面では川越衆を率い時々の北条氏の主要な合戦に参加して武功をあげた。氏照は天正18年正月6日に政繁に返書を出している。氏照の八王子分国支配にとっての心強い味方であったろう。『異本小田原記』には「…大石隼人佐の養子に大道寺が子…」とある。
 八王子市下柚木の永林寺に大石定久の墓がある、その両側に家臣たちの墓塔があるがその中に「天正十八年六月二十五日亡 大道寺小太郎 同姓浅五郎 母ふさ 再補之」と刻まれてた供養塔がある。八王子城で深手を負い亡くなったと思われる。この墓塔は大石に養子となった大道寺氏のものであろう。後年復姓したものであろうか。私の小・中学の友人に故大道寺進太郎君がいた、この大道寺氏の末裔であることは確かである。

PR: ABARTH アドレナリン ブースト フェア開催

$
0
0
イタリアンデザインのボディ、高出力エンジンのポテンシャルを実際に味わうチャンス!

今書いている詩(898)「たろうさんの滴」

$
0
0

今書いている詩(898)

    たろうさんの滴

雨の日には
小さな滴が
見せてくれる
逆さまに映る
滴が並んだ 
夢の世界

雨が竿に
当たって創る
サーカスの
曲芸師たちがいます
わたしは
不思議な顔で
眺める観客です

こころも逆さまに
吊り下がり
かろうじて
引力と運命に
任せて映っています
落ちたら砕けます

あなたのこころに
安全ネットは
張ってありますか
明日の糧は
確保してありますか

我に返れば
雨が降り続き
寒い春です

明日は晴れ?
洗濯物が
干せるかな




http://www.facebook.com/#!/tarou.shimizu 清水太郎Facebookの記事に接続が出来ますよ!
http://taroukun-rekishi.cocolog-nifty.com  清水中世史研究所のブログにアクセスが出来ますよ!
http://twitter.com/#!/taroushimizu      清水太郎のTwitterですよ!
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
#日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr
#LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ
#Google#GREE#
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

たろうさんの星☆

$
0
0

おはようございます♪木下かれんちゃん、華金ですがおしごとですか?芸能人は仕事できる限り、休みなしの厳しい世界ですね☆健康第一で頑張って下さいね!(*^▽^*)
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
#日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr
#LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ
#Google#GREE#女優#木下かれん
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

武州南一揆と梶原氏

$
0
0



 一揆とは目的・方法などを同一にする人々の結合とその行動。『孟子』の「揆(道・方法)を一つにする」が語源。中世では寺院における僧衆,中小武士戦闘集団,村落農民の闘争など多様な一揆が存在した。多くの場合,一味神水といって神仏を招き寄せて起請文を書いて誓約し,それを灰にして飲み交わすことによって成立する。南北朝期・室町期の関東では,武蔵七党の系譜をひく武蔵・上野の白旗一揆,秩父系武士の平一揆等が活躍。時代が下るにしたがい同族団的性格から上州一揆・武州一揆という地縁集団に変化していった。
 武州南一揆は平一揆の系譜をひく、「禅秀の乱」「永享の乱」「享徳の乱」などでは時には寝返りや日和見をおこなったりした。勝つ方に付くのがこの時代彼らの生き抜く道であった。しかし、彼らの軍事力はどちらの側からしてもあなどれない勢力であった。とくに鎌倉公方足利持氏は武州南一揆を主力としていた程である。
 武州南一揆は、武蔵国(現在の東京都、埼玉県、横浜市、川崎市)南部に位置する小規模豪族集団の総称で、現在のあきる野にある秋川谷、八王子市にある川口谷、恩方谷を拠点とする平山氏、小宮氏、梶原、師岡氏、川口氏、由比氏らをリーダー的にした組織であった。これに、あきる野市在住の土豪として、貴志、高尾、網野、私市、青木らが加わっていた。現在、あきる野市には、足利持氏が南一揆にあてた書状が14通残されている。
 
 関東管領(上杉憲実)奉行人奉書(「前田家所蔵文書」)

  「大石遠江守入道殿(道守・信重)    冶部丞泰規(島田)」
東福寺雑掌申す、武蔵国多西郡船木田庄領家年貢の事、寺家知行相違なきのところ、領主等難渋の間、去年応永卅十三(年)十一(月)二(日)重ねて京都より御教書をなし下されおわんぬ。案文壱通裏を封じこれを遣わす。ここに平山参河入道・梶原美作守・南一揆の輩、年貢を拘留せしむるの間、有名無実と云々。はなはだしかるべからず。所詮御教書を守り、未進と云い、厳密にその弁を致すべきの旨、おのおのこれを相触れ、寺家の雑掌に沙汰し渡さるべきの由候なり。  よって執達くだんの如し。
  応永三十四年五月十三日         冶部丞(花押)
                           修理亮(花押)
 大石遠江入道殿

 梶原氏は、梶原景時の孫の景継が家を再興し幕府に出仕している。その子景家の娘は大石憲重の妻となっている。また景時の母が横山孝兼の娘であったことなどから多摩地域との関係が深い。「上杉禅秀の乱」の頃には梶原兄弟(美作守・但馬守)や梶原能登守の三家があり、「鎌倉年中行事」によれば御所奉行の役についている奉公衆である。梶原美作守は船木田庄由比郷横川村(八王子市元八王子町)に館跡があり、近くの八幡社の棟札によれば、寛正四年(1463)十月二十一日梶原修理亮家景、文明十七年(1485)十月十六日梶原修理亮入道道賢の名前を確認することができる(『新編武蔵風土記稿』元八王子村の項)。両氏とも同一人物で、美作守の次の代の人物と想定できる。特に梶原美作守の名は『鎌倉大草紙』などにも見える。応永二十四年(1417)三月鎌倉府の修理がおこなわれた時、足利持氏は梶原美作守の屋敷に一ヶ月ほど滞在したという。この村の奥の小字御霊谷に御霊社があり、鎌倉権五郎景政を祖神として祀っており、この子孫である梶原氏の祭神とかんがえられる。おそらく、武州南一揆の梶原氏の本拠地はこのあたりであったろう。

PR: 建築物の設計の契約に新たなルールができます-政府広報

$
0
0
6月25日より、建築物の設計について、書面による契約締結が義務化されます

今書いている詩(899)「たろうさんの幸せの万力(ガレージバイアス)」

$
0
0

    たろうさんの幸せの万力(ガレージバイス)

あなたのとがったこころを
まぁ~るくするために
この幸せの万力(ガレージバイス)で
しっかりはさみ 
真新しいヤスリで
角を取るんです

仕上げは紙やすりの
#2000番で磨こう
ツルツルのまぁ~るい
こころに変身です

転がる石が
まぁ~るくなるように
人生も転がるほど
まぁ~るくなる

 
刺々しくなったと思ったら
わたしのこころの工場に来なさい
職人芸で こころを
まぁ~るくします

道具は揃っています
腕も確かです
「神さま 天の国にも
 幸せの万力(ガレージバイス)ありますか?」
「たろうさん 天の国でも人手不足です!」

http://www.facebook.com/#!/tarou.shimizu 清水太郎Facebookの記事に接続が出来ますよ!
http://taroukun-rekishi.cocolog-nifty.com  清水中世史研究所のブログにアクセスが出来ますよ!
http://twitter.com/#!/taroushimizu      清水太郎のTwitterですよ!

はるとくんの一升餅(*^▽^*)

$
0
0

おはようございます。端午の節句に、湯河原で力餅を背負えなかった、はるとくん☆(*^▽^*)一升餅は1.8キロもあるのです。じぃ~ちゃんも持ち上げようとして、落としそうになりました!怖いときに、ダァーとじぃ ~ちゃんにしがみついてきます。嬉しいじぃ~ですよ♪
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
#日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr
#LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ
#Google#GREE#
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

泣き虫のゆうとくん(#^_^#)

$
0
0

おはようございます。ゆうとくん、写真を撮らせてくれません♪前の家の名字を言いました、じぃ~ちゃんは驚きました!ご縁があるのでしょうか?母方の名字で、調べれば繋がっている筈です。直ぐ泣く優しい孫です、とても大切な孫たちです。(#^_^#)
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
#日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr
#LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ
#Google#GREE#
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

今書いている詩((900)「たろうさんのボール盤」

$
0
0


今書いている詩(900)

    たろうさんのボール盤

此処にあるのは
世間の荒波に
揉まれすぎて
鉄板のように固くなってしまった
あなたのこころに
風穴を開けるための
ボール盤です

鉄板でなく アルミのシャーシなら
むかし ラジオやアンプを
作るときに 大きな穴を開けてました
トンボという工具で 大きな穴を開けるのです
若いときには 配線工もしていたのです
小さな町工場にいました
ドリルの刃もグラインダーで研げます
穴を開けるのも上手です

どうしたら良い音が出るのかなと
休みの日にアンプを作ったり壊したりと
夢中で没頭していた頃もあったのです
いまは孫に夢中の 67歳になる老人です
孫が離乳食と水分不足から 3日もウンチがでなくて
4日目にやっとでたことを
嬉しがる 幸せな老夫婦です

このボール盤は娘の友達の
自動車修理工場のものです
「神さま 天の国にもボール盤がありますか?」
「たろうさん わたしの国には今も 
 切り(錐=キリ)がないことばかりです!」

世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
#日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr
#LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ
#Google#GREE#
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

船木田庄

$
0
0
2009年9月26日 (土)

船木田庄

 八王子市全域と日野市の一部を含む地域(旧豊田・七生地区)に平安期末から、関東の争乱の始まった「上杉禅秀(氏憲)の乱」応永二十三年(1416)までの間は機能が維持されたとされる、藤原氏から東福寺へと領家がつづいた船木田庄という広大な荘園が存在した。九条家家領文書や東福寺文書によれば、摂関家の荘園の歴史は古い記録では「清慎公(藤原実頼)家領文書順孫実資(小野宮流)伝之」と言われている。源頼朝が伊豆で挙兵する直前の治承四年(1180)五月十一日に、古崇徳天皇の中宮皇嘉門院聖子(1122-1181)が甥九条良通と弟兼房に譲った三十九ヵ所の所領郡のうちに、船木田庄と船木田新庄がみえる。建長二年(1250)十一月に船木田庄は本庄と新庄に中文され、本庄は右大臣九条忠家に、新庄は前摂政一条実経にそれぞれ譲与された。南北朝の貞和三年(1364)七月に一条家の船木田新庄は東福寺に寄進された、船木田本庄は至徳二年(1385)に東福寺領になっている。
 八王子市の由木中山の地は野猿峠の真南の多摩丘陵に囲まれた山あいにあり、大栗川の支流の谷戸奥になっているが、ここには平安末期に船木田庄長隆寺という有力寺院があり、現在白山神社のある丘陵一帯に埋経が行われたもののようである。江戸時代の文政年間以来数度にわたって発見され、「東京府史蹟天然記念物調査報告第十冊」として残されている。それによれば十巻の経文は、仁平四年(1154)九月九日より十一日に亘って、僧智弁の勧進の下に、数人によって頓写されたとある。僧智弁は一説によると武蔵坊弁慶の兄弟子であるという。
 船木田庄が八王子市域にあり、仁平四年僧智弁のもとで写経が行われ、小野氏人、清原氏人と書かれた現地の有力者がいたことがわかる。彼らを在地の土豪と考えると、横山党(小野姓)との関係が考えられ、船木田庄の下地で武士団的発展をとげた横山党がこの写経事業に協力したことになる。
 平安期の船木田庄の範囲や規模については不明なところが多いが、多摩川下流の稲毛庄(現川崎市、同じく摂関家領)の平安末期の承安元年(1171)の検注帳を参考にすると、稲毛・船木田庄をほぼ同一条件とみて大胆に対比すれると船木田庄の田地は二百町歩を上回り(稲毛庄は二百六十三町八段)、庄内には寺院・神社があり郷ごとに鎮守社があった。慈根寺もその一つで、藤原氏によって庄内の寺として建立されたと思われる。年貢は絹または麻布で上納したようであるが、絹よりも布であった可能性が強い。庄内にはいくつかの郷があったようで、おそらく川口・由井・椚田その他の郷名は既にあったもののようで、そこに居住した名主たちが、横山党・西党の武士団を形成していたと思われる(八王子市史下巻)。
 船木田庄の中心集落は平山郷で、落川遺跡よりあまり遠くない上流に位置している。在庁官人日奉氏(西党)の有力庶家平山氏の本貫地に想定される場所であり、ここを根拠地としながら浅川を遡って開発していったのがこの船木田庄と言える。古代律令社会の耕地とは異なり、地方の開発領主が重視したのは水利権と、それを掌握することによって確保される勧農権であり、ここにはじめて私営田領主としての農業経営が成立するのである(段木一行著『中世村落構造の研究』)。この船木田庄が現在どの地域に存在していたかを知る手がかりとして「沙弥行恵(藤原道家)家領処分状」によれば、郷は平山・中野・由比野・大塚・南河口・北河口・横河・長房・由木の九ヵ郷、村は豊田・青木・梅坪・大谷・下堀・谷慈・木切沢の七ヵ村 の十六ヵ郷村で構成されていた。
 船木田本庄・新庄には様々な人間模様があった。荘園領主側では船木田庄を号したが、地元や幕府では横山庄の呼称が流通していたと考えられる。その横山庄の主、横山時兼と一族は健保元年(1213)五月七日に「和田義盛の乱」で没落し、横山庄は大膳大夫の幕府宿老大江広元にあたえられた。「承久の乱」(1221)に大江広元の嫡子大江麻親広は宮方に味方し没収され、横山庄は大江姓長井氏へと受け継がれたと思われる。鎌倉幕府の末期には相論が相次ぎ起きていた。天野氏は由比に所領があった。儀海が由井本郷に滞在していたと思われる、文保元年(1317)六月七日の和与によれば、土豪由比氏に養女となって名跡を継いでいた、天野景広・賢茂の妹である是勝が源三郎屋敷などの所有権を主張して幕府から認められた事である。
 「上杉禅秀の乱」後、船木田庄の在地領主たちは領家の東福寺から年貢対捍(たいかん)によって訴えられるという事件が起きている。関東管領(上杉憲実)奉行人奉書に「…平山参河入道・梶原美作守・南一揆の輩、年貢を抑留せしむるの間、有名無実と云々。…」とある。すでに船木田庄は消滅の危機にあった。
 縣敏夫氏著『八王子市の板碑』には「月待板碑」が収録されている。日月、天蓋、光明真言『武蔵名勝図会』に押絵掲載。〔注目すべきは、谷地郷代屋村の廾三人が月待供養の行事をこの地でおこなったことを明示したことである。直接、中世史料になりにくい板碑において中世村落を明記した武蔵板碑の唯一例である。竜源寺近くの谷戸田に沿った小川を谷慈川といい、代屋村は近くの大谷と比定する説もある。関連資料として、「東福寺領、武蔵船木田庄領家方年貢算用状」(延文六年1361)の七ヶ村の中に「谷慈郷 5百文」とみえ、中世において生産性を示唆している〕と縣敏夫氏は記述されている。この板碑には次のように刻されている。

 面善圓淨如滿月威光猶如千日月
 月待人数廾三人敬白
    文安五年八月廾三日
 谷慈郷代屋村住人
 聲如天鼓俱
 翅羅故我頂礼弥陀尊

 「面(おもて)は善く圓(まどか)にして、淨(きよ)きこと滿月の如し。威光は猶(なお)、千の日月ごとく。聲は天鼓(てんく)倶翅羅(くしら)のごとし。故に我れ弥陀尊を頂礼す」(天鼓=打たずして好音を発する鼓。倶翅羅=インドの美声の鳥)(石井真之助解説)と弥陀尊を礼讃するのもである。なお『板碑概説』では「滿月を彌陀に稱へつゝ、而かも廿三夜の月を拝してゐるのは如何にも無盾である」とのべている。
 
 船木田庄の至徳二年(1385)「年貢算用状」には「大石大井介方一献料」と大石氏が登場する。この谷慈郷代屋村の人々は守護代大石氏に把握された住人であろう。船木田庄の次の時代の始まりである。代屋村の地名はこの板碑以外に確認できない。船木田庄は豊かな荘園であったように思える。また、そのように考えながら、この地を生きている私にとって楽しい毎日であることを感謝する。
 
Viewing all 5691 articles
Browse latest View live