慈根寺(八王子市元八王子町)と梶原氏
慈根寺(じごじ)を支えた人々の中に鎌倉御家人梶原氏がいる。梶原氏はこの地と関係が深い。八王子市との合併で市制が変更されるまでは通称慈根寺と呼ばれ、元八王子村の大字であった。慈根寺は梶原八幡宮の神官である、梶原正統氏のお宅附近一帯で現在、本堂跡は中央高速道路が通っている。慈根寺は正暦(990~995)の頃よりあった寺で、藤原氏の京家の出自の元杲が開山となっている。船木田庄内の藤原氏の寺として建立されたと思われる。この寺は明治の廃仏毀釈で廃され今はない。此の寺で活躍した鎌倉末期から南北朝初期の僧儀海については、拙稿「真言僧儀海の足跡」を参照されたい。梶原八幡宮は建久2年(1191)鶴ケ岡八幡宮が正遷座のときに、梶原景時が古い御神体を賜い、この地が景時の所領の地ゆえに、鶴ケ岡に似たところを選び鎮座したという。この時慈根寺は梶原八幡宮の別当寺とされ慈根寺山西明寺となった。慈根寺の所領は景時の母(横山庄の別当横山孝兼の娘)の持参の地であった。この孝兼は和田合戦で滅んだ横山時兼の曾祖父にあたる。梶原景時は正治2年(1200)10月、新将軍源頼家に結城朝光を、異心を抱く者として讒言したことから、三浦・和田その他、重臣の憤りをまねき、景時一族は鎌倉を追放された。景時は源氏の一族武田有義を将軍に擁立を計り上洛を企てたが、駿河国狐崎で在地の御家人の為に殺され一族は滅んだ。景時の長男、景季もこのとき父と運命を共にした。景時の次子、平次景高の子景継は三代実朝嗣職の後、再び召されて鎌倉幕府に仕えた。また景時の三男景茂の子孫は室町時代には近畿、さらに阿波国、讃岐国へも広がっていった。
その後の梶原氏は足利氏の被官として歴史にみえている。建長6年(1254)、将軍宗尊親王にオウ飯を、足利義氏が献じた時、献上の馬を引いた御家人のうち梶原景綱がいた。景綱は景俊の子で、梶原景時とともに討死した三郎景茂の子孫であった。その後に起こった承久の乱に、梶原一族は幕府方として活躍し、復活をとげたようである。景俊は御家人としてしばしば『吾妻鏡』にあらわれ、やがて、北条一門や足利氏嫡流の被官(御内人)となっていった。
鎌倉幕府滅亡ののち後醍醐天皇によって建武の新政が開始された。その武者所の所司に梶原景直が登用され、この景直の一族は京都将軍家に仕えた。これに対し鎌倉に残った梶原氏は、鎌倉公方足利氏満の御所奉行人であった梶原道景が知られる。また、暦王3年(1340)足利義詮の病気平癒の祈願を鶴岡八幡宮に寄進し、美作守の受領を得ている。かれは名を景寛といい、美作守を称した道景と同一人物と思われる。道景の一族は「美作守」を称し、至徳2年(1385)、梶原美作守の代官が新田相模守を捕えた。この使者は、相模守が上野・武蔵両国の軍勢に対し謀反を呼び掛けた廻状を持っていたのである。このことから、鎌倉府による関東支配が、新田の残党を忍び込ませる余地のないほど浸透していたことを知らせてくれる。
鎌倉公方に仕えた梶原氏には、能登守の系統もあった。応永24年(1417)に起きた「上杉禅秀の乱」には、能登守・但馬守らは公方に味方して戦い、但馬守は討死した。但馬守は名を季景といい、常陸国鹿島郡徳宿郷内の鳥栖村を知行したことが知られている。禅秀の乱で、鎌倉御所は焼けてしまい、そのため公方持氏は梶原美作守の屋形に入った。応永25年、下野国御家人の長沼義秀が孫憲秀への遺蹟相続を申請したのに対し、公方の持氏の許可するとの意思を伝えた美作入道禅景であろう。この禅景は先の道景とは父子の関係と思われる。
応永34年頃、京都東福寺領の武蔵国船木田荘の年貢を押領したと訴えられた梶原美作守は、その地の土豪平山三河入道に率いられた武蔵国南一揆と行動をともにしている。彼も道景・禅景の流れをくむ公方の奉公人であっとみられる。美作守と但馬守は兄弟と思われる。美作守は船木田庄由井郷横河村(八王子市元八王子町)に館を持っていた。
『系図纂要』の「梶原系図」に持景ー経景ー時景とあるが、持景は御所奉行人として応永年末の史料に見える。その子である経景は系図に「武蔵国荏原郡馬篭」に住むと注記してある。また『応仁武鑑』に、経景について「梶原美作守経景 武蔵国荏原・豊島・多摩三郡内田六百参拾町」とある。梶原氏の所領が武蔵国にあることが確認できる。ただし、戦国時代に梶原氏は馬篭を所領としていることから、それ以前に同地を支配していたことも考えられる。
永享の乱で鎌倉公方足利持氏は殺害され、公方不在という事態が生じた。そこで、持氏の子で京都にいた永寿王を迎え鎌倉公方とした。このとき、「御奉行人」として佐々木氏らの名が記され、そのなかに梶原美作守もいた。
このように梶原氏は鎌倉時代から足利氏の被官であり、その後足利政権の成立とともに、京都将軍家に仕えるものと鎌倉公方奉行人となる一族に分かれた。それは、最後の公方足利義氏の時代まで続いていることが知られる。
『異本小田原記』には大石定久の娘(名を登志という)が太田資正との間に生まれた子を梶原源太政景と名乗らせたとある。この間の出来事については、天正期に書かれたという。異本小田原記抜粋「「ihonn-odawaraki-yori-batusui.doc」をダウンロード を参考にされたい。
天文15年の川越の夜軍以後大石氏をはじめ、上杉氏を支えた家臣たちの勢力図は大きくかわった。慈根寺の梶原美作守の消息は不明である。この地は北条氏の支配となった。氏照が三田氏を倒し、滝山城に入るのは弘治2年から永禄6年にかけてである。やがて、八王子城が築かれ、慈根寺地域の重要性はますが、梶原氏が関係する資料はない。神官としてひっそりと息をひそめていたのであろうか。今後の研究課題である。