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清水太郎と儀海の縁(えにし)

清水太郎と儀海の縁(えにし)

 昭和21年4月14日に私、清水太郎は八王子市元八王子村(八王子市元八王子町)の通称慈根寺(慈根山西明寺)の本堂跡に生まれた。正しくは昭和 20年12月24日であったらしいが戦後の混乱で板橋区の役所に届けが遅れたことによるらしい。この遅れがその後の人生にどのように作用したのかは今と なっては吉と思えるようになっている。男と女の双子であった。この地には母方の縁を頼って疎開したのである。母方の姓は志村氏で、先祖に北条氏照に仕えた 志村将監(中宿の志村将監)がいる。母の父は中島家から志村家に養子に出たのである。中島要と母はいとこであった。中島氏は北条氏照に仕え、八王子城で討 死した人々がいるが、その中島氏との関係は不明である。母の妹の志村ナヲは福島県川俣出身の高橋直衛に嫁ぎ、川俣の山奥の地を開拓した。儀海が滞在した、 川俣甘露寺の近くである。その下の妹志村マサは新見市出身の真壁荘輔と結婚し、新見市で真壁荘輔は炭焼をして生計を営んだ。真壁氏は常陸国真壁郡内(現茨 城県桜川市真壁町亀隈に儀海が滞在した亀熊成福寺があった)に所領を持ち、平安時代末期から戦国時代末期までを生き抜いた真壁氏の庶流が鎌倉時代に新見庄 に移住して、新見の真壁氏を称した。
 二人の叔母がこれらの地に居住したのは単なる偶然と私には思えない。現在、私は宝生寺団地(八王子市西寺方町)を終の棲家と決めているが、この名の由来 は宝生寺にある。宝生寺の前身は大幡観音堂で儀海が、慈根寺から河口の長楽寺にあった談義所に行き来した折に、歩を休めた場所である。由比尼是勝(天野景 茂女)の住まいの地であったと思われる。私の家の横を宝生寺から登り下るとすぐに長楽寺である。この道を私は儀海みちと呼んでいる。時々ふと、私の前世が 僧であったのではないかと思うことがある。何も考えずに生きている妻を視ていると、考えに考えて生きる道を選んだ私と大きな違いはないと思われる。しか し、私はそのような生き方しかできない。これからも中世に生きた人々のことを考え、今を生きる人々に伝えたいと思う。儀海については「「shingonsou-gikaino-sokuseki.doc」をダウンロード」を参考にされたい。最近「中世宗教テクストの地平」と題する第5回「テクスト布置解釈学原論」授業がおこなわれ、新しい発見がなされた。担当名古屋大学大学院文学研究科 阿部泰郎教授(比較人文学)。儀海もこの中に含まれている。うれしいかぎりである。


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