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Channel: たろうくん(清水太郎)のブログ
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藤原朝臣不比等と平清盛の出生について

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藤原朝臣不比等と平清盛の出生について

 藤原朝臣不比等は斉明5年(659)~養老4年(720)生没で、中臣鎌足の次男。母は車持君与志古娘(よしこのいらつめ)(公卿補任・尊卑分脉)。但し『興福寺縁起』によれば母は鏡王女(天智に召され、のち鎌足の正妻となる)
。分脉の不比等伝に「公(おほやけ)避くる所の事有り」(出生の公開に憚られるところがあった)とあり、天智後落胤説の根拠とされている。同母兄に定恵がいる(父を孝徳天皇とする伝がある)。蘇我臣連子の娘を娶って武智麻呂・房前・宇合の三子をもうけ、また天武の未亡人で異母妹である五百重娘との間に麻呂をもうけた。不比等が天智の子であれば、異母娘の五百重娘との婚姻関係に問題はない。また壬申の乱による不比等の特別なはからいにも納得がゆく。そして、以後の藤原氏の発展と栄華も天智の子であったからである。子の麻呂は京家と呼ばれこの系から元杲がでる。慈根寺の開山はこの元杲であり、慈根寺は船木田庄内に藤原氏の寺として建立されたと思われる。
 平清盛も明治26年(1893)になって、滋賀県・胡宮神社所蔵の文暦2年(1235)の日付けを持つ『仏舎利相承系図』が発見されたことで、祇園女御の妹が白河法皇の寵愛を受けて懐妊後に、平忠盛に下賜されて生まれたのが清盛であり、母が亡くなったので姉の祇園女御が猶子ちして養育したという説が有力となった。白河法皇の子であればその後の清盛の異例の出世も納得がゆく。当時の人々は清盛が後落胤であることを知っていた(常識であった)と思われる。我々の日常の普通の出来事はあんがい記録されないものである



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