Quantcast
Channel: たろうくん(清水太郎)のブログ
Viewing all 5691 articles
Browse latest View live

たろうさんの気象観測所

$
0
0

おはようございます。梅雨の本格的な雨の朝です、スズメたちが食べ物を待っています。心を洗い流す雨と心を照らす日の光がいるのですね!
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
#日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr
#LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ
#Google#GREE#
世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 69-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!


地侍たちの戦国(5)ー乙幡(追幡)一族ー

$
0
0

2010年8月 7日 (土)

地侍たちの戦国(5)-乙幡(追幡)一族ー

 乙幡氏は「名と歴史」萩ノ尾薬師堂(東京都武蔵村山市)の中で「この近辺に住む乙幡氏(乙幡一族は近世武蔵国村山郷のおける有力氏族)は北条家家臣であり、豊臣秀吉による小田原成敗の後(天正18年)に於須免の方とともに村山郷に落ち延びたものだとするのである」とされている。他に『乙幡泉家文書』を根拠として、北条氏直の家臣石川土佐守の死後その娘であるお祢い殿を守って乙幡(追幡)孫三郎が中藤村に逃れたとされる説である。
 雄山閣版『新編武蔵風土記記稿』第六巻二三四頁に百姓孫左衛門の記述がある。

 百姓孫左衛門 乙幡を氏とす、古より里正を務む、先祖は乙幡勘解由能忠と號して、大石源左衛門尉定久に仕え、その子助七郎只次、其子六右衛門能正に至り、北条氏照に仕へしが、かの家滅亡の後子孫民間にくだり、當村に居住するよし、されど今證左とすべきものを傳へず、又いかなる故にて蔵せるや、承應の此の文書一通あり、其文は左のごとし、

 『村山市史』所載の「乙幡文書」の伝承は次のようになっている。

 一 武蔵多摩郡八王子拝島大日堂之開基ハ、むかし北条うじなをの御臣下ニ石川土佐守総領之息女お禰いどのと申御方、七才の節ひかんの煩を被成、両眼ひしと見へさるところに、てんやく療冶懸といへとも、叶さるによって、仏神ニ祈ヲつくす処ニ、候ニ拝島ニむかし辻堂あり。誰の作とハなれども、天道大日の尊像なるゆへ、父母願をかけ三七日はっさいしてこもり、壱人の娘眼病をせめて一がんなりとも御ほうへんにてあき候ハゝ、一門一家をつくし御堂を建立したてまつらんとふかく心信し奉れば、其年秋八月右眼つふれ左はあき候ゆへ、一門をつくして御堂を建立したてまつる。其てうほん石川土佐守、二番ハ三田弾正義宗、其弟羽村兵衛太夫義尚、三沢兵庫助、目りん是心入道、土屋衛門、追畠孫三郎、有山内記、被是はち方の者共以上拾六人御堂建立致し、本尊之御座の下地ヲ壱丈弐尺ほり、永楽千貫文後修覆のためうつめおきたるよし子孫ニ言伝有之、御堂のむな礼ニ慥ニ有之よし永申伝来也。其後彼娘成長の後、うしなを公より縁組仰出、羽村兵衛総領左源太と申ニ被下候処に、小田原一戦の時分一門五拾七人松山の城、小田原本城、高野山三ヶ所にて相果、子孫たんせつニ及候。右ハ大日への御奉公のため、我等承伝への通是ヲ書印遺候。若脇より如何様のひはん候とも、此大日之根けんハ、我等より外ニ委存知、只今ハ相模、八王子の者ニも覚有間敷と存候。石川土佐守殿御領分八王子之内拝島、羽村、久保、天間、高築五ヶ村の主のよし申伝候。(以下欠)

 昭島市史によれば石川土佐守なる人物が大日堂の開基といわれている。彼は「乙幡家文書」によると、北条氏直(後北条氏五代の当主)の家臣で、「八王子之内拝島・羽村・久保・天間・高築五ヶ村」の領主であった。しかしこれには疑問がある。氏直の家臣が滝山領主氏照の居城周辺に所領を与えられているたのだろうか。石川土佐守が氏直の家臣であったにしても、彼は天正十八年(1950)七月の後北条氏滅亡後、当地に帰農して来ていたのではなかったか。『新編武蔵風土記稿』に、大神村の名主八郎右衛門に関して、「当村の旧家にて石川を氏とす、先祖は拝島村の縁起にみえたる、石川土佐守が氏族の者と云伝たれど、先祖のこと伝へたる証左なし、」という記載がある。この伝承は、石川土佐守の帰農説を想定させる材料の一つとなるだろう。
 雄山閣版『新編武蔵風土記』第六巻二五八頁の萩ノ尾薬師堂の記載は次のようである
 
 薬師堂 除地、小名萩尾にあり、三間に三間半の堂を東向に立、薬師は長一尺九寸許、此本尊は北条氏照の息女すめの方守本尊と云傳ふ、堂の後へ五輪の石塔を立、延文元年(1356)八月十六日了意禅尼と刻せり、長三尺許、しかれども何人の墓碑たることしらず、

 北条氏照の息女は貞心尼が知られているが、すめの方は三田弾正綱秀の息女と氏照との間に生まれた姫と考えると、昭島市郷土研究会編の小冊子『滝山城物語』の「悲恋哀話 狐塚の由来」が興味深い。
 幕臣に乙幡氏がいる。重義 勘次郎は東照宮につかえたてまつり、武蔵国拝島領の御代官をつとむとある。-ー重親 六郎右衛門ーー重行 半右衛門と続き家が絶える。のちに二男重友 六郎右衛門が時に家を再興する。乙幡氏の一族であろう。 家紋 丸に三鱗 上藤の丸
 新青梅街道の「三本榎」という交差点に、乙幡榎・加藤榎・奥住榎がある、此の榎には二百年ほど前に、腕自慢の若者が弓矢の腕を比べるために、近くに山から弓を引き、矢の落ちた場所に榎を植え、それぞれの名をつけたという伝説がある。乙幡榎は今も10本以上の支えがあるが元気である。

今書いている詩(930)「たろうさんの白ツツジ(初恋)」

$
0
0
今書いている詩(930)
    たろうさんの白ツツジ(初恋)
ブログでツツジが咲いていますと
教えられ 思い出したように
次の日に駐車場のツツジを眺めた 
白いツツジが咲いていた
花言葉は「初恋」 村下孝蔵さんの
『初恋』がとても好きで 良く聴きます
聴くたびに切ない思いに駆られます
わたしの初恋は定時制高校の
3年生の夏でした
奥多摩の大岳山に大勢で行き
意気投合した16歳の子「美樹」 
小悪魔的な顔の少女
何処にいるかは判りません
60歳を過ぎたお婆ちゃんに
なっているでしょう
幸せに暮らしているといいです
その頃に記した書き殴りの大学ノート
今も天袋の段ボールの中にあります
青いインクが半世紀も過ぎて
多分色褪せています
私の記憶は 時にこころの中で
プリントアウトされて 今も鮮明に
もう恋することもない 年齢
妻と 娘と 孫に 囲まれて
幸せな時を過ごす 老人
思い出は 若い青春を
フラッシュバックして
元気の源(みなもと)
(ユンケルかも?)
白ツツジくん キミは来年も
咲いてくれるよね
枝を太陽に伸ばして
わたしの 家族の 未来にもね

戦国を生きる「大森氏」

$
0
0

2010年10月 9日 (土)

戦国を生きる 「大森氏」

 戦国の世に入ると力だけでなく総ての能力が求められた。早雲が実に優れていたという他はない。人が良いだけでも駄目である、大森藤頼は騙されて城を盗られたわけであるが、より人間的と言いたい。今の時代は騙される側の人間にむしろ人気がある。戦国の世ではいかにして家を守るのかを主も一族も家臣も必死なのである、お人よしは「たわけ」でしかない。最後まで生き残る、そのために敵、味方両方どちらが勝ってもよいように策を練ったのである。北条氏は五代百年をいきた。朝倉氏も同時代を同じく生きた。後北条氏に仕えた大森氏には大森某・大森越前守・大森兵衛太夫等がいる(戦国遺文後北条氏)。大森の家は滅びたが、幕臣と水戸徳川家の家臣として幕末まで生きたのである。しぶとかったのはむしろ大森氏であろう。

○ 寛政重修諸家譜によれば藤原氏道隆流大森氏の大森藤頼は兄實頼死して其子大森泰頼幼稚なるにより領地を譲られ小田原城に住す。明応四年北条早雲がために城を落とされ、一族とゝもに同国眞田城に退き、居こと三年にをよぶ。こゝにをいて早雲と兵をまじへ、しばしば挑み戦ふといへども畢に北条のために滅さる。

○ 大森藤頼の子、大森泰頼は藤頼没落のとき、幼きにより潜に眞田城を出て甲斐国におもむき、成長にをよび武田家に属して、一家の讐をむくいんとす。しかれどもつゐにこゝろざしをとげず。天文十年(1582)彼地にをいて死す。法名道休。道号中翁。

 大森泰頼の子には泰次・頼慶がいる。

○ 大森泰次 甚七郎 下総守 父死してのち、北条の家臣山中、仙波両家は親戚たるにより、ひそかに泰次をいざなひ相模国にかへる。ときに北条と大森は讎敵たるをもってこれをはばかり、外祖の家号菊池を称し、仙波某に育撫せらる。慶長十五年(1610)死す。年八十二。法名生西。道号往譽。相模国田端の生往寺に葬る。幕臣の大森氏の祖である。

○ 大森頼慶 興三 周防守 武田信玄に仕えて後、梅安と号す。男君安と同居して慶長十三年(1608)戌申十一月二日水戸に病死す。七六歳。君安初め萬千代君に仕ふ八百石を賜いて番頭となる。水戸徳川家の大森氏の祖 (水府系纂)

 雄山角版 新編武蔵風土記稿第六巻氷川村(現奥多摩町)条153頁に大森氏に関する記載がある。

 舊家 百姓峰次郎 今村の里正なり、明応年中相州小田原の城主大森式部少輔氏頼の長男、實頼とゝもにかの城にをり、次男宗頼は小田原の小峯と云所に住せり、其後北条新九郎氏茂(早雲)がために亡ぼされて、兄弟共に没落せしとき、宗頼が子肥後守頼定は此地へ落来り、田村氏の舊跡をつけり、されど此時氏をば小峯と改めたり、此人は永禄十一年(1568)に死せり、是を初代として今の峯次郎は十一代に及べりと云、按に小田原城主大森式部少輔氏頼は、大和守源頼親の遠裔年老て後寄栖菴と号し、明応三年(1494)八月廿六日に卒せり、其子式部少輔實頼同き九年北条氏茂のために没落せしことは、正しき者に見えたれど、峯次郎の家に伝ふ所とはやゝ違ひあり、しかのみならず此家も明和年中丙丁の災にかゝり舊記を失ひ、外に記しとすべきことなけれども、明応年間こゝへ土着せしと云こと正しきならんには、とにかく舊き家なることは知らる、

※この記事は元八王子小学校初代校長大森彦次郎氏の調査のために書きました。氏のご先祖が水戸徳川家の家臣でした。元八王子小学校は創立100周年を迎えます。

今書いている詩(931)「たろうさんの高尾駅」

$
0
0
今書いている詩(931) 

   たろうさんの高尾駅

元八王子の掘っ立て小屋を
タタンで初沢町に18歳の時に
家族5人で転居でした
高尾駅がもっと身近になりました
駅舎は今も変わりません
家族構成は変わりました

昔は一番線の向こうに
お召し列車が納められていました
昭和天皇の多摩御陵参拝のためです
高尾駅を降りられたのにも出逢しました
大正天皇の大喪の時の
仮の駅舎なのです

元八王子からこの駅に来るには
廿里(とどり)の暗い山道を歩いたのです
人が通るのがやっとで 古戦場です
昼なお暗い山賊が出そうな道でした
オリンピックを境に道が次第に整備され
今は面影がありません

北口のターミナルはバスで混雑なのです
おっ 今日は空いてます
南北通路が出来ないので不便です
娘もバスに乗って帰ってきました
立川駅から電話があると
どんな日でも 嬉しくて迎えに行きました
今は育児休暇中で お迎えは加藤くんです
友翔くんは西八王子駅になるのかな

小仏に向かうハイカーや
陣馬山に行く登山者や
土日は八王子城跡に行く人も使う駅です
わたしはバスで宝生寺団地から
仕事の引き継ぎです
池尻まで京王線で行くのです
3時30分の待ち合わせなので
13時のバスに乗りました

おいおい 東京は遠いね
10日には朝6時のバスですよ
今日は行きは 良い良い 追い風に乗って
ブレザーもネクタイも ヒラヒラ
インターネットのおみくじは「凶」 
お祓いもついでにして 出かけたのです

12365歩(365歩のマーチ)で家に帰りました
足にマメ拵えて まめなお百姓さんです
「ごくろうさま 洋子さんが嬉しそうに笑ってます」

おはようございます。梅雨の本格的な雨の朝です、スズメたちが食べ物を待っています。心を洗い流...

$
0
0

今書いている詩(932)  たろうさんのバス あなたも乗っている時間の軸上で動き出し...

$
0
0

今書いている詩(932)  たろうさんのバス あなたも乗っている 時間の軸上で 動き出したバスは 止められません 急発進・急ブレーキに ご注意下さい 身を任せたのです 運命のまま走るのです 時刻通りに運行できません 「運転手さん 何処行きですか」 「お客さん 話しかけないで下さいね!  光ケーブルの中を走っているので」 「えっ 未来のトンネルの中?」 昔はハンドルも こころも重かった いまは パワーハンドルです みんな捨てれば 軽くなるのですね こころのパスモ 5000円チャージします 三途の川の渡り賃 16文かぁ~ 天国まで行けますか? 「お客さん着きましたよ 降りて下さい!」 「天国じゃない 現実の国だなぁ~  高尾駅行き!」 「お客さん 寝惚けていたんですね!」 運転席の後ろに 吊り下げられた パンフレット 夢の国への案内状です 世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を! #日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr #LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ #Google#GREE#今書いている詩 世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます! Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 69-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

Tarou Shimizuさん(@taroushimizu)が投稿した写真 -

墓塔にみる菊家紋と多摩の中世

$
0
0
2011年7月29日 (金)

墓塔にみる菊家紋と多摩の中世

 菊家紋の墓塔への使用はその家が何らかの意味で天皇家に尽くした功績を持って許されたと考えられる、楠木氏の菊水紋は著名であるが、墓塔にみる菊家紋は熊沢天皇の事件で波紋を投げかけたものである。徳川家の葵の御紋の厳しいし規制に比べれば天皇家の16菊紋の規制は緩やかであったと言われているが、庶民が簡単に使えたのかと言えば疑問が残る。八王子市の大塚家の敷地内に残っている供養塔は五層の物であっように思われるが今は石の台座の上に3層だけが残っている。その最下層に16紋菊が使われている。この大塚家は過去帳に寛文年中の戒名が確認できる。墓地では古い墓塔は確認できない。しかし、この供養塔のある所に観音堂を持っておられるからすると名もない庶民とは思われない。ひっそりと隠れ住んで謂われを隠してしておられたのかと推察するのみである。大塚姓を辿ると高萩市に南朝の王孫と名乗る「常王」なる人物が大塚信州と称している異説がある、この高萩市は梶原美濃の老臣で梶原源三郎や水戸家の付け家老の中山家とも深い関係がある。梶原氏も中山氏も八王子と深い関係がある。高萩の地を退去した大塚氏の誰かがこの供養塔を八王子の地に建立したと考えるのは飛躍しすぎであろうか。今となっては定かでない。

檜原村史の316頁に「高尾の平山氏」の項目がある。この平山重太郎家の敷地内に、江戸期末期に再建した”平山氏先祖の墓がある。その文面は次のように刻まれている。

      前摂津守摂西居士

      文亀 天文之間  郷中主采

      八月四日      平山摂政次

この石塔は天正十八年六月二十三日に、八王子城で討ち死にした先祖の平山弥八郎・弥九郎兄弟の 霊を弔い、八王子城の方向へ面して建てられている。この平山氏は足利尊氏が伴なった光厳天皇が五日市の光厳院に留まった時に尊氏に従い菊紋の使用を許されたのではないだろうか、この墓塔では笠石に下半分の菊紋が使われている。

写真は大塚家にある16菊家紋と平山家の墓塔の笠石の菊家紋



北条氏照家臣 常盤小六郎平盛時

$
0
0

2011年8月12日 (金)

北条氏照の家臣 常盤小六郎平盛時

八王子市元八王子町3丁目の八幡神社の通称「宮ノ前」に常盤姓の人々がおられる。この一族の常盤聖一氏は本稿の直系のご子孫である。その私有地に常盤塚があったが今は畑になりその地に墓石だけがたっている。ご好意に甘えて過日写真に撮らさせていただき、本稿の記述となった次第である。記録としては慶友社版の『武蔵名勝図会』の三三九頁と多摩文化第一四号『多摩文化・元八王子の研究』の318頁にある記述と墓石に記載された戒名等である。聖一家は八王子千人同心も勤めめられたがこれは千人株を買われてなられたようである。
 『武蔵名勝図会』は『新編武蔵風土記稿』の編纂に携わった八王子千人同心組頭植田孟縉によって文政五年(1822)には多摩の部が完成したようである。『多摩文化・元八王子の研究』の記録は明治拾参年編成とある。墓石については風化が激しく判読が出来ないところがあるが、常盤聖一氏によれば古い墓石ではないと言われている。

 【常盤塚】 北条家の家臣常盤小六郎平盛時というもの天正十八年(1591)六月廿三日に討死す。その軀を埋めたる塚なり。この人は相州下川尻の辺に住せしと云。子孫民間に入り、この地も荒廃の野となりしかば、文禄(一五九二~九六)の頃ここに子孫移住すと云。
 【一】 常盤五兵衛平時定二男五左衛門子孫今有元八王子 (『多摩文化・元八王子の研究』318頁)。

 【常盤】 ときわ <常葉・常和> 桓武平氏極楽寺流北条重時のこ子時茂から時範(時治)ー範貞ー重貞と四代が、鎌倉郡常葉郷(鎌倉市)に居住して常葉流北条氏を称した(参考)

 【墓石戒名】 (元祖は正面 二代は右側面 三代は左側面)

【元祖】         天正十八 庚寅 年
            廓□不味居士之墓
             六月二十一日

【二代】                 常盤譽四右衛門盛久立之
             正保二 乙酉 十一月廿五日
           千聖不携禅者
           湛凉定池禅尼
            慶安元 戌子 八月十日

【三代】        延宝(欠損)
          雲凉常閑上座    
                    各位
         白室妙雲大姉
          貞享三 丙寅 六月六日


今書いている詩(933)  たろうさんの孫(40) 眠れ 眠れ愛しい 愛しい孫よ 眠...

$
0
0

『藤九郎屋敷と上恩方の歴史』(楢本要助著 揺籃社より抜粋)

$
0
0

2011年8月17日 (水)

『藤九郎屋敷と上恩方の歴史』(楢本要助著 揺籃社刊より抜粋)

 「平家」ゆかりの山室家 (江戸時代以前の過去帳は残っていない)
 
 藤九郎屋敷の敷地に続いて建っている瑞雲山龍泉寺は、室町時代の寛正五年(1464)に山室長定が、僧瑞龍を招いて開基したと『恩方村寺院明細帳』に記載されている。また力石の草木家の古文書には、弘治元年(1555)僧祖保及び山室家が改修に当たっていることが記されている。
山室家がいかに古くから、この地で勢力をもっていたかが実証されている。また龍泉寺は山室家の菩提寺の意味をもっていたことが分かるが、残念ながら江戸時代以前の過去帳や位牌は残っていない。慶長十三年(1608)に、山室十郎正衡一盛が亡くなっていることが、龍泉寺の過去帳に次のように記されている。                                                                                慶長十戌申七月七日 山室十郎正衡一盛                                        照眼院殿自性覚心大禅定門                                                     平相国清盛之末流也                                                        武州安下住ニシテ家名ヲ山室ト云                                   記録上、山室家が平家の末流であると、はっきり記されている最古のものである。
 江戸以前の過去帳は、徳川家康が関東に本拠を構え、江戸入国に当り関東の各寺院や諸宗に残っている過去帳を没収したといわれている。小津町の青木氏宅位牌には
  青木家先祖代々過去帳                                                      徳川家、御入国之砌、関東寺院諸宗不残、                                          過去帳御取上、其節法雲寺無住ニ                                                而御写無之依之先祖法号不分明故、                                             元和年中以隆記                                                          の文が残っている。
 藤九郎屋敷の本拠がある森久保の集落から二キロ米程東寄りの力石集落には、平の将門の家臣といわれている草木家がある。この草木家の裏山には『将門神社』が祀られていたりして、この地方の歴史を複雑なもにしている。
   伊勢平氏の末流か
 山室家の平氏は、先の過去帳に「平相国清盛之末流也」とみえるように、平清盛の流れを汲んでいる。山室家に今も残っている秘蔵の大小刀の内、長刀には峰に三ヶ所の受傷と廣泉の銘がある。この刀銘は小田野の渕上氏によりあきらかにされている。
 さらに伊勢地方に結びつくものとして、森久保の里でおこなわれていた太神楽・獅子舞などは、八王子各地で行われている獅子舞とは異質のもので、明らかに伊勢地方に残る太神楽に共通する点が多い。
『山室』の姓について『日本の苗字』(毎日新聞社刊)を調べてみると、「山室ー伊勢飯南郡山室に起るものは桓武平氏、平の盛久の裔」とある。
 更に山室家使用の家紋『蝶紋』や『三引両紋』からも平家とのつながりの深さをうかがえる。
 龍泉寺裏山に、この地方としては珍しく広い十三坪の山室家の墓がある。宝筺印塔一基、五輪塔二基と並んで、本紋『鎧蝶紋』及替紋『三引両紋』のついた石碑が建っている。鎧蝶紋・三引両紋とも平家一族の使用したものである。山室家では二つの家紋を使い分けて、本紋を表紋、替紋を裏紋とよんでいた。
 現在森久保には、山室一族が四戸あるが、鎧蝶紋が一戸、三引両紋が三戸ある。下西げいとなど古い位牌には蝶紋がついている。なお、明治二十三年に没落した山室本家は、信濃国に落ちのびていたが、現在は甲府市内で宝石商として再興され、鎧蝶紋を使っている。
 このように考えてくると、上恩方の一番上に『醍醐』という地名が残っているのが、京都六波羅の平家一族との関わりもうなづけないでもない。
 『平家後抄』上には、伊勢平氏盛国父子について、概要次のように記されている。
 平盛国とは、清盛に従って保元の乱・平治の乱で奮戦した平家の随一の重鎮である。清盛と盛国の水魚の交わりは最後まで続き、清盛は九条河原口の盛国の邸で薨去している。源平の合戦に盛国父子は西海に下ったが、盛国は柱石として常に宗盛らの側近にあって、戦場のには出ていない。
 文治元年(118)平氏一門は戦いに敗れ。盛国は鎌倉に連行されたが、日夜無言で通し、法華経を唱え、食を断って静かに入寂している。
 盛国の長男盛俊は討死しているが、剛勇をもって知られた伊勢守主馬八郎左衛門平盛久は、壇ノ浦の合戦から逃れ大胆にも敵の裏をかいて、京都に潜入している。盛久は仏心が篤く、高野山に土地を寄進している。京都では清水寺に帰依し、等身大の千手観音像を像立して金堂内陣の本尊右脇に安置、千日参りをしていた。鎌倉方への密告者が出て捕らえられ、平景時の取り調べを受けた。平家重代相伝の家人として盛久の責は重く、命を受けた土屋三郎が由比ヶ浜で首をはねようとしたが、太刀が折れて二度も失敗している。政子の助言により、頼朝の前に呼び出された。結局、旧領紀伊の国の荘園は所領安堵の下文と、京都に帰る鞍・馬一匹を与えられている。(角田博著・朝日選書)
 しかし、この盛久の裔がどのようにして恩方の地に入ってきたのか、系図等を紛失していて、残念ながら詳らかではない。(本文の写真等は省略しました、本文は縦書きですが横書きにして掲載しています)。

今書いている詩(934)  たろうさんの夢(大吉) 寝つかれない朝方 夢を見た大きな...

$
0
0

今書いている詩(934)  たろうさんの夢(大吉) 寝つかれない 朝方 夢を見た 大きな川に満々と水が 流れている 尾びれが見える 魚が泳いでいるのだ かなりでかい 鯉かなぁ~ 魚は反転して 腹を見せた プリント柄のような 鮮やかな色彩です 5月の鯉のぼりとは違う 朝5時20分に起きて 6時のバスで 高尾駅へ 池尻まで行く 代務です 朝の所長の迎えに 根本さんが同行して 道を教えてくれた 定期便のために 市ヶ谷・目黒を廻る 気に掛かっていた知らない場所も  根本さんのアドバイスでクリアできた 二人で雑談をして 18時になる 所長の送りなので 玄関で待機してると 「今日は打ち合わせで 遅くなるので  帰って下さいです」と女の子 予定にない嬉しいアクシデント 19時05分に帰りです 行きも帰りも少し立っただけで座れました 足は痛いが こころは軽い 嬉しい職場でした 明大前から 快速高尾山口行で チンタラと帰ります 21時30分には家に着くでしょう 長い一日です 明日は友翔くんの 遅いお節句祝いがあります 助けられた思いの一日でした たろうさんの夢(大吉)はもうこれで終わりですか? 少しの幸せが 嬉しい一日ですね 電車は京王片倉駅を過ぎました おっ ケイタイが鳴る GREEの「白日夢」さんから お友達のリクエストメールです 洋子さんが待っている家に帰ります http://www.facebook.com/#!/tarou.shimizu 清水太郎Facebookの記事に接続が出来ますよ! http://taroukun-rekishi.cocolog-nifty.com  清水中世史研究所のブログにアクセスが出来ますよ! http://twitter.com/#!/taroushimizu  清水太郎のTwitterですよ! 世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を! #日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr #LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ #Google#GREE#今書いている詩 世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の68歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます! Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 68-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

Tarou Shimizuさん(@taroushimizu)が投稿した写真 -

戦国を生きる「北条氏照家臣ー小山源七郎朝則・源五左衛門朝久ー」

$
0
0

2011年8月29日 (月)

戦国を生きる「北条氏照家臣ー小山源七郎朝則・源五左衛門朝久-」

 現在八王子市大楽寺町に居住する、小山(こやま)祐三家は以前は西寺方町の宝生寺の前に居住した名家である。宝生寺の古い檀家であったが今は長円寺の檀家となっておられる。その墓誌にこの家の謂われを記した家誌と代々の当主の名前が刻まれている。現在は小山(こやま)であるが「おやま」と発音したと思われる、いつの時から「こやま」になったのかは定かでないが、同家の先祖は藤原氏秀鄕流小山氏である。その家誌を参考にこの小山祐三家の歴史を明らかにしておきたい。

             家誌

      遠祖小山七郎朝光十九代の後裔として当國
      八王子城主北条陸奥守氏照に仕え當祖小山
      源七郎朝則天正十八年七月相模國小田原城
      の戦に討死し弟源五左衛門朝久八王子城
      落城後再擧の興空しく遂に野に下り武蔵国
      西寺方に巋農す

      中興祖  小山源七郎朝則     天正十八年七月七日
      二代    小山源五左衛門朝久 慶長九年七月二十八日
      三代    小山五郎左衛門朝秀 慶安二年九月九日
      以後略・・・・
      十二代 小山泰助

 おやま 〔小山〕 下野国都賀郡小山郷(栃・小山市)を本貫地とした国衆。平安後期の藤原秀郷の末裔という正光を祖とする。鎌倉初期には小山氏は源頼朝を助けて有力な御家人として活躍した。小山城を本拠にして領国を確立し戦国期には永禄三年に上杉謙信に属し、四年には北条氏に属したために謙信に攻められ、永禄六年に小山秀綱が謙信に属し、天正五年初頭には北条氏照に攻略されて氏照に属した。天正十八年に北条氏と共に滅亡。

【高朝 たかとも】 六郎・弾正少輔・下野守。下野国小山祇園城(栃・小山市)城主。古河公方足利義氏の家臣。結城政朝の次男で小山政長の養子となり跡を継ぐ。永正四年生まれ、天正元年十二月晦日に没。法名は天翁孝運。墓所は茨城県結城市の孝顕寺。

【秀綱 ひでつな】 氏朝・孝山。小四郎・弾正大弼。下野国小山祇園城(栃・小山市)城主。はじめは古河公方足利晴氏・義氏に仕え、永禄六年に北条氏に属した。のち上杉謙信、天正元年十年からは北条氏照に属した。室は北条氏政の養女。秀綱の文書には家臣に対する官途状や一字書出し三三通と非常に多いのが特徴。天正十八年には豊臣秀吉と同盟した実弟結城晴朝に小山城を攻略されて降伏した。秀吉から知行を没収され没落し慶長七年頃に没した。法名は天山孝哲。孫の秀恒が相続した。

○秀綱・天正中小田原北條に降り、その藩屏となる。よりて十八年北條滅亡の際、旧領没収、家滅ぶ。(小山系図にては秀綱の一男政種十四歳夭死、次男高綱・十九歳戦死、故に三男秀廣、家を嗣ぐと)。此の末流寛政系譜に見ゆ。家紋は二頭右巴。

○寛政譜小山氏は第二十一巻 二一六頁に「小山 家傳にいはく、小山下野守朝政より六代村田阿波守政盛が後胤にして、村田を稱し、英茂がめし出さるゝにおよび、外家の稱を冒して大塚にあらため、英本がとき小山に復す。」とある。

 八王子市大楽寺町の小山氏は秀綱の次男、高綱十九歳戦死の記述に重なり合う。高綱は小田原におり、三男秀廣は八王子城に籠城し、落城の際に家の再興を期して落ちのび、西寺方にて帰農したと思われる。秀廣が小山源五左衛門朝久と一致するのかについては定かでないが、八王子城に籠城の時は十五歳前後と思われる。

今書いている詩(935)  たろうさんの孫(41) 初節句のお祝で「うかいとうふ亭」に...

$
0
0

八王子城主 北条氏照

$
0
0

2012年5月28日 (月)

八王子城主 北条氏照


永禄2年(1559年)、木曾義仲の後裔である武蔵国滝山城城主・大石定久の娘・比佐を娶り、養子縁組をして大石源三氏照と名乗り、家督を譲られる。後に姓を北条に復して大石氏を配下に組み入れる(自ら北条を名乗った確実な記録は疑問視されており、大石当主の立場を全うしたという説もある)。自領であった現・相模原市方面の各村への文書では「油井源三」を名乗っている。また、養父の死後に遺族を粛清したとされている弟の北条氏邦(藤田安房守氏邦)と違い、大石定仲ら定久の家族を取り立てている。

その後、氏照は父に従って、小田原城の戦い直後の永禄4年(1561年)には辛垣城の三田綱秀と、永禄7年(1564年)には里見氏と、天正2年(1574年)には簗田氏と戦い、主に東方を担当して後北条氏の勢力拡大に大きく寄与した。また、外交手腕にも秀でており、永禄12年(1569年)には、氏邦と共に上杉氏との越相同盟の実現などを画策、伊達家とも濃密な外交関係を築くなど活躍した。織田政権期には織田信長との同盟強化を望んだが、家中の反対意見と信長の横死によって充分に機能しなかった。

永禄10年(1568年)、武田信玄の家臣・小山田信茂(大石氏と同様に木曾源氏の後裔)らの軍勢が小仏峠を越え相模国に侵攻した。氏照は中山家範・横地吉信らに迎撃を命じたが、高尾山麗の廿里(現、八王子市廿里町、廿里古戦場)にて敗退。その後余勢を駆って押し寄せた武田勢に攻め立てられ、滝山城は三の丸まで陥落し氏照は二の丸で指揮をとったという。なおこのとき氏照と武田勝頼が槍をあわせたとも伝わる。このような氏照自らの奮戦により、最終的には武田軍に滝山城の攻略を断念させている。

氏照は平山城である滝山城の防御面での不利を悟り、武蔵国と相模国の境に大規模な山城を築いた。山城の山頂に八王子社が祀られた為、城は八王子城と名付けられた。なお八王子城周辺の「八王子」という地名はこれに由来する。

永禄11年(1569年)、再度来襲した武田の軍勢が小田原城を囲んだ。撤退する武田勢を氏照・氏邦の軍勢が迎え撃ったが、小田原から追撃してきた本隊の動きが遅く挟撃体制は実現しなかった。この間に武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転した。戦国最大規模の山岳戦として知られている三増峠の戦いである。

天正6年(1578年)、上杉氏の家督争い御館の乱が起こると実弟・上杉景虎の援軍要請に応じた兄・氏政の名代として、氏邦とともに越後に出陣。北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。しかし景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。そして景虎は翌年滅亡という悲運を辿った。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が死去すると、織田領の混乱を見て甥の北条氏直らと共に織田領に侵攻し、北条領を拡大した(神流川の戦い)。

しかし天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっている。そのため小田原開城後、豊臣秀吉から主戦派と見なされ、7月11日に兄・氏政と共に切腹を命じられた。享年51。

辞世の句は、
「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」
「天地(あまつち)の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」市


今書いている詩(936)  たろうさんの夏柑 加藤くんの湯河原のお父さんがお土産に去...

$
0
0

今書いている詩(936)  たろうさんの夏柑 加藤くんの湯河原の お父さんがお土産に 去年も頂いた夏柑を 21コも持ってきてくれました 自家製の無農薬です わたしのことを気にかけて頂いて 嬉しい限りです 心強い 親戚ですね 毎日これから食べて 夏場に備えます 「わたしは 砂糖がないと食べられないわ」 玄関は夏柑の香りで充満してます 男の好きな香り「柑橘」系ですね 友翔くんの初節句の席でお父さん 「いつも YouTubeありがとうございます」 友翔くんの成長記録を「太郎清水YouTube」で 公開してるのです 誰でも見られます わたしの住んでいる夕焼けの里の自然も 少し紹介してます 67歳まで健康でいられたので 感謝の意味で流してます 「友翔は 芸能界かな?」とお父さん 「もう 芸能界デビューしてますよ!」 じぃさんたちの会話です 夏柑の色鮮やかな色と香りが 幸せを運んでくる 今日この頃です (もう一個食べちゃいました) 世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を! #日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr #LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ #Google#GREE#今書いている詩 世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます! Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 69-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

Tarou Shimizuさん(@taroushimizu)が投稿した写真 -

今日は、午後1時10分の私の家で記録しました!38℃です、熱いですね!皆さん熱中症に気をつ...

$
0
0

PR: 児童ポルノは、絶対に持たない!!-政府広報

$
0
0
今月15日から、性的好奇心を満たす目的で児童ポルノを所持した者は処罰の対象に!

木下かれんちゃん、おはようございます。今日もクレイジーな暑さが予感される八王子の夕焼けの里...

$
0
0

今書いている詩(937)  たろうさんの孫(42)出逢い 空が曇っていても 何処かで ...

$
0
0

今書いている詩(937)  たろうさんの孫(42)出逢い 空が曇っていても  何処かで  新しい出逢いがある 母と父が 出逢い  洋子さんとわたしが 出逢い 娘と加藤くんが 出逢い 友翔くんと 出逢えた みんなさんとブログで 出逢い ああ 繫がっているんだなぁ~ 過去も 今も 未来も 人間の輪ですね 何処までも辿れば 人間はみんな兄弟 (笹川良一さんのCMみたい) 人間網の目の法則 昔 小学生が言っていた 今も生きる 明日も生きる 未来も生きる 夏柑食べたので 元気なたろうさんです 友翔くん わたしの 孫に生まれて  ありがとう 真っ直ぐな こころを 感じるよ 世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を! #日本#東京#八王子#夕焼けの里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr #LinkedIn #Ameba #G+#YouTube#nifty#Yahoo!#Hatena#CROOZ #Google#GREE#今書いている詩 世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市夕焼けの里の69歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます! Children around the world to smile in anti-nuclear anti-war! 69-year-old old man of the village of Japan Hachioji sunset will appeal the anti-nuclear anti-war for the sake of happiness of the future of the 2nd grandchildren!

Tarou Shimizuさん(@taroushimizu)が投稿した写真 -

Viewing all 5691 articles
Browse latest View live