船木田庄 ②
平安期の船木田庄の範囲や規模については不明なところが多いが、多摩川下流の稲毛庄(現川崎市、同じく摂関家領)の平安末期の承安元年(1171)の検注帳を参考にすると、稲毛・船木田庄をほぼ同一条件とみて大胆に対比すれると船木田庄の田地は二百町歩を上回り(稲毛庄は二百六十三町八段)、庄内には寺院・神社があり郷ごとに鎮守社があった。慈根寺もその一つで、藤原氏によって庄内の寺として建立されたと思われる。年貢は絹または麻布で上納したようであるが、絹よりも布であった可能性が強い。庄内にはいくつかの郷があったようで、おそらく川口・由井・椚田その他の郷名は既にあったもののようで、そこに居住した名主たちが、横山党・西党の武士団を形成していたと思われる(八王子市史下巻)。
船木田庄の中心集落は平山郷で、落川遺跡よりあまり遠くない上流に位置している。在庁官人日奉氏(西党)の有力庶家平山氏の本貫地に想定される場所であり、ここを根拠地としながら浅川を遡って開発していったのがこの船木田庄と言える。古代律令社会の耕地とは異なり、地方の開発領主が重視したのは水利権と、それを掌握することによって確保される勧農権であり、ここにはじめて私営田領主としての農業経営が成立するのである(段木一行著『中世村落構造の研究』)。この船木田庄が現在どの地域に存在していたかを知る手がかりとして「沙弥行恵(藤原道家)家領処分状」によれば、郷は平山・中野・由比野・大塚・南河口・北河口・横河・長房・由木の九ヵ郷、村は豊田・青木・梅坪・大谷・下堀・谷慈・木切沢の七ヵ村 の十六ヵ郷村で構成されていた。
船木田本庄・新庄には様々な人間模様があった。荘園領主側では船木田庄を号したが、地元や幕府では横山庄の呼称が流通していたと考えられる。その横山庄の主、横山時兼と一族は健保元年(1213)五月七日に「和田義盛の乱」で没落し、横山庄は大膳大夫の幕府宿老大江広元にあたえられた。「承久の乱」(1221)に大江広元の嫡子大江麻親広は宮方に味方し没収され、横山庄は大江姓長井氏へと受け継がれたと思われる。鎌倉幕府の末期には相論が相次ぎ起きていた。天野氏は由比に所領があった。儀海が由井本郷に滞在していたと思われる。
平安期の船木田庄の範囲や規模については不明なところが多いが、多摩川下流の稲毛庄(現川崎市、同じく摂関家領)の平安末期の承安元年(1171)の検注帳を参考にすると、稲毛・船木田庄をほぼ同一条件とみて大胆に対比すれると船木田庄の田地は二百町歩を上回り(稲毛庄は二百六十三町八段)、庄内には寺院・神社があり郷ごとに鎮守社があった。慈根寺もその一つで、藤原氏によって庄内の寺として建立されたと思われる。年貢は絹または麻布で上納したようであるが、絹よりも布であった可能性が強い。庄内にはいくつかの郷があったようで、おそらく川口・由井・椚田その他の郷名は既にあったもののようで、そこに居住した名主たちが、横山党・西党の武士団を形成していたと思われる(八王子市史下巻)。
船木田庄の中心集落は平山郷で、落川遺跡よりあまり遠くない上流に位置している。在庁官人日奉氏(西党)の有力庶家平山氏の本貫地に想定される場所であり、ここを根拠地としながら浅川を遡って開発していったのがこの船木田庄と言える。古代律令社会の耕地とは異なり、地方の開発領主が重視したのは水利権と、それを掌握することによって確保される勧農権であり、ここにはじめて私営田領主としての農業経営が成立するのである(段木一行著『中世村落構造の研究』)。この船木田庄が現在どの地域に存在していたかを知る手がかりとして「沙弥行恵(藤原道家)家領処分状」によれば、郷は平山・中野・由比野・大塚・南河口・北河口・横河・長房・由木の九ヵ郷、村は豊田・青木・梅坪・大谷・下堀・谷慈・木切沢の七ヵ村 の十六ヵ郷村で構成されていた。
船木田本庄・新庄には様々な人間模様があった。荘園領主側では船木田庄を号したが、地元や幕府では横山庄の呼称が流通していたと考えられる。その横山庄の主、横山時兼と一族は健保元年(1213)五月七日に「和田義盛の乱」で没落し、横山庄は大膳大夫の幕府宿老大江広元にあたえられた。「承久の乱」(1221)に大江広元の嫡子大江麻親広は宮方に味方し没収され、横山庄は大江姓長井氏へと受け継がれたと思われる。鎌倉幕府の末期には相論が相次ぎ起きていた。天野氏は由比に所領があった。儀海が由井本郷に滞在していたと思われる。