儀海
日野市高幡不動尊金剛寺の中興開山権少僧都儀海は鎌倉期の弘安2年(1276)から文和3年(1354)までの生涯の大半を新義真言宗教学の研鑽
に情熱を捧げた僧である。儀海の足跡は奥州小手保の甘露寺、下野小山の金剛福寺、常陸亀隈の成福寺、武州横河の慈根寺、同じく長楽寺、相模鎌倉の大仏谷や
佐々目、山城醍醐の三宝院、紀州高野山金剛峯寺、同じく蓮華谷の誓願院、紀州根来の大谷院、同じく豊福寺中性院など各地の談義所を繰り返し訪れている。
儀海についての研究は櫛田良洪著『真言密教成立過程の研究』正・続、細谷勘助氏「儀海の布教活動と中世多摩地方」(『八王子市郷土資料館紀要第一
号』)、高幡不動尊金剛寺貫主川澄祐勝氏「儀海上人と高幡不動尊金剛寺」(『多摩のあゆみ』一〇二号平成13年)などがある。それらの著述の基となるのは
昭和10年の黒板勝美編『真福寺善本目録』正・続二冊である。現在は智山伝法院編『大須観音真福寺文庫撮影目録上・下巻』(平成9年3月31日発行)がこ
れを補っている。
名古屋市大須の真福寺開山である能信は、その伝に「赴東部、謁高幡不動儀海和上、探中性一流之源底、今吾寺武蔵方是也」とある。師主儀海は事相二教の達
人で、法脈を「虚空蔵院儀海方」と称し、それは能信に附法され「武蔵方」と言われる。儀海が諸地域で書写した密教経典は能信をはじめとする弟子たちによっ
て書写され、この写本を通じて、また各地方に転写されていったので教学は関東のみならず、広く広範囲に伝わることとなった。また、能信は真福寺を開くにあ
たり、自ら書写したものを含め、多くの経典を名古屋へ移したが、それはまとまった形で今日に伝えられている。それゆえ私たちはこの経典の奥書を通じて、儀
海の行動を知ることができるのである。
拙稿の儀海についてはそれぞれ次の論考を参考にされたい。
「真言僧儀海の足跡」は「shingonsou-gikaino-sokuseki.doc」をダウンロード
「儀海史料」は「gikai-shirixyou-shiriyou.doc」をダウンロード
「儀海史料真福寺文庫撮影目録(上・下巻)解説は「gikaishiririyoukaisetu.doc」をダウンロード
「儀海年表」は「gikai-nenpiyou.doc」をダウンロード