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儀海史料 真福寺文庫撮影目録(上・下巻)解説 ④

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儀海史料 真福寺文庫撮影目録(上・下巻)解説 ④

法華開題愚草

『法華経開題』は空海の著。『法華開題愚草』は頼瑜の『愚草』なる著作群の一つである。宗祖弘法大師空海の主要な著作に対し、伝法会談義に際して為された議論の内容を頼瑜が編集したもの。開題は仏教経典の題目について解釈しその大要を述べること。
【法華経】第一期(初期)大乗経典に属し、紀元五〇年から一五〇あたりにかけて成立したと考えられる経典。現在の漢訳本は、竺法護訳〈正法華経)(一〇巻 二七品。二八六年訳)、鳩摩羅什訳〈妙法蓮華経〉(七巻二七品、のち八巻二八品。四〇六年訳)、闍那崛多・達摩笈多訳〈添品妙法蓮華経〉(七巻二七品、羅 什訳の補訂。六〇一年訳)の三本であるが、羅什訳がもっぱら用いられてきた。一九世紀以後、ネパール、チベット、中央アジア、カシミール(ギルギット)な どで原典写本が相次いで発見され、漢訳本と対比しながら、改めて法華経の成立状況や特色について研究が進められている。
【構成と内容】法華経は、伝統的には「安楽行品第十四」と「従地涌出品第十五」の間で区切りが入れられ、前半は「方便品第二」を中心として統一的真理(一 乗妙法)を明かし(開三顕一)、後半は「如来寿量品第十六」を中心として永遠の仏(久遠釈迦)を明かす(開近顕遠)とされた。天台智顗(五三八―五九七) は『法華文句』において、前半を〈迹門〉、後半を〈本門〉と称し、それぞれの特色づけに努めた。ところで、原典の成立状況からすると、もう一つの部門が立 てられてくる。それは、「法師品第十」から「嘱累品第二十二」(「提婆達多品第十二」を除く)までの部分で、大乗の菩薩ないし菩薩行が強調されている。た とえば「法師品」では、苦難を耐え忍んで慈悲利他の菩薩行に励む者が〈如来使〉とたたえられ、「従地涌出品」では、その典型として地涌の菩薩のことが、 「常不軽菩薩品第十二」では常不軽菩薩のことが物語られ、「如来神力品第二十一」および「嘱累品」では、菩薩たちに布教の使命付与(付嘱、嘱累)がなされ る。
【特色】以上、伝統的立場と成立史的観点とを合わせて結論すると、宇宙の統一的真理(一乗妙法)、久遠の人格的生命(久遠釈迦)、現実の人間的活動(菩薩 行道)が法華経の三大特色といえよう。それらは大乗仏教の三要素(法・仏・菩薩)をなすもので、古来、宗派の別なく注釈書が著されたり、法華思想の体系化 がはかられたりした。一方で、他の代表的な大乗仏典との関係や優劣が論ぜられた。例えば中国の五・六世紀におきた教相判釈において、真理の統一性を説き明 かしたものとして法華経を万善同帰教、純一性を説き明かしたものとして華厳経を頓教、永遠性を説き明かしたものとして涅槃教を常住教と規定し、それらの間 の優劣が論議された。
【日本における展開】日本では、聖徳太子の『法華義疏』(真偽問題がある)が法華教注釈の始まりであるが、平安初期に最澄が出て、天台法華宗を樹立し、鎌 倉中期に日蓮が出て、改めて法華思想の体系化に努める。一般では信仰や書写の功徳が説かれた部分に目を付け、除災招福や懺悔滅罪のための法会が営まれた り、法華経を書写する行事がなされるにいたる。また法華八講など、法華経を講説する法会が催されたり、のちの法華経各品の内容が絵図に表されたり(法華曼 荼羅)、説法(絵解き)に用いられたりした。文芸面では、釈教歌の多くが法華経歌であり、説話にもしばしば法華経が引用されるなど、法華経は民間に広く流 布するようになり、今日に至っている。なお法華経の霊験功徳譚の編集は、中国や朝鮮(高麗)でも行われた。その中で唐の僧詳撰『法華伝記』、恵詳撰『弘賛 法華伝』、新羅僧の義寂撰『法華経集験記』(『法華験記』)などは日本にも伝来し、同類国書の成立をうながした。その代表的なものが鎮源撰『法華験記』 (『大日本国法華経験記』)である。また『梁塵秘抄』に収める「法華経二十八品歌百十五首」なども、法華経各品を今様にうたえあげた法文歌の圧巻として注 目すべきものであろう。

 御遺告釈疑抄(ごゆいごうしゃくぎしょう)

 一般に、弘法大師空海撰と言われる『御遺告』には四本が知られている。それは、『太政官符案并遺告』『御遺告』『遺告真然大徳等』『遺告諸弟子 等』である。これらは相い類似した内容を有するものであるが、『御遺告』(二十五箇条)は東寺の立場から述べられているのに対し、『太政官符案并遺告』や 『遺告真然大徳』は高野山の立場に依拠しているなど、それぞれ差違が認められる。頼瑜の『御遺告釈疑鈔』は「問う。東寺真言家と文へり」云々という文章か ら始まり、第九の問に至るまで、『御遺告』(二十五箇条)の1本のみに認められる文章を解釈しており、一見して、四本の『御遺告』の中でも『御遺告』(二 十五箇条)にたいする注釈書であることが知られる。
 『御遺告釈疑抄』は、その奥書によると、弘長二年(一二六二)三月、頼瑜三十六歳の時に撰述されたものであるという。そこでは、撰述の動機として「忝な く師長の命を承り」とのべられているが、弘長元年六月以後、頼瑜は醍醐寺報恩院憲深に随っており、このことから憲深の要請を受けていたことが予想される。
 『御遺告釈疑鈔』以前の『御遺告』注釈書としては、実運(一一〇五~一一六〇?)の『御遺告秘決』、尚作(?~一二四五)の『御遺告勘註』等が知られる。

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