戦国流転 越前国より移住の堀江氏
1 越前国より移住の堀江氏
弘治元年(一五五五)堀江兵部は、百姓十八名と共に武蔵国多東郡中野郷に移住してきた。『中野区史上巻』(昭和十八年五月三十日発行)では備前国(一説
に越前国ともいう)『後北条氏家臣団人名事典』下山治久編、では「備前国出身または、越前国出身ともいう。」となっている。
堀江氏については、『姓氏家系大辞典』によると「利仁流藤原姓 越前の豪族にして、河口庄司斉藤氏裔也と云ふ。氏人は朝倉始末記に堀江七郎景重とみえ」と
ある。中野区中野にある、宝仙寺の過去帳に「寛文十三年(一六七三)九月十八日、堀江兵部重次」とある。(寛文は寛永の誤字と考えられる)
大石学氏「武州多東郡中野郷と小代官堀江氏」(『多摩のあゆみ』第四十六号)の論文(史料4)によると「……弘治元年越前国より堀江兵部と申十八人連参り中野郷開発仕、……」とある。本稿は堀江兵部が越前国より移住したとの前提でそれまでの経緯を推察してみたい。
堀江家に関心を持つようになったのは調査で中野区の宝仙寺の墓地を訪れたのがきっかけであった。墓地の入り口に白く塗られた木製の案内板があり、ペンキ
がところどころ剥がれ落ちていて、あまり人の訪れている様子がないようであった。堀江家の墓所は二ヶ所にわかれていたが、広く立派な墓石が整然と並んでい
た。のちに、友人の古書店で『中野区史上巻』を見つけ格安で購入した、その中に堀江氏についての記述があった。現在、此の墓地は寺の管理になっており、堀
江家と寺の繋がりはないとの言である。この墓石群は、墓石の歴史を知る上で貴重な考古資料と考えられる。
堀江氏が最初に、住まいを定めた場所は、中野駅から新宿寄りのJR中央線の南側、中野区中野一丁目四十四番地にある城山公園付近とおもわれる。中世的土
豪としての位置づけから、堀江氏の屋敷を推測すると寛延三年(一七五〇)四月に作成された中野村の「村鑑帳」(堀江家文書)には、「……中野村之内ニ九百
坪程土手ヲ築から堀ヲほり候処御座候、此所ヲ前々より城山と申伝候、此儀古来名主卯右衛門先祖屋鋪ニテ御座候、------」とある。この城山の土地をめ
ぐっては寛保三年(一七四三)七月の史料に、年季が明けたにもかかわらず堀江家は借金をかえせなかった、本来ならば流地とすべきところ、この土地が堀江家
の先祖の居屋敷であり、前々から城山とよばれた由緒ある土地であるので流地とはせず、何百年たとうとも本金(元金)を返済したならば並木ごと堀江家へ返す
ことが約束されている(大石学)。「八王子城の時代地侍と百姓と人質」(『多摩のあゆみ』第六〇号)で、羽鳥英一氏は『新編相模国風土記稿』所載の、里正
(名主)五郎助宅図を紹介されているので参照とされたい。
百姓と武士の関係は古来より対立的に捉えがちであるが、堀江兵部と十八名の百姓との間には強い紐帯があったとおもわれる。兵農は朝倉氏と北条氏共まだ未分
離で武士と百姓は共に農業をおこなっていたと考えられる。遠く武蔵国にきて新田開発をするためには、百姓達の協力がなくてはならない。この時代、百姓は専
門的職能集団と考えたほうが良い。武蔵と越前では気象条件がかなり違う「雪がない」のである。たとえ未開の武蔵野の地でも開発はしやすかったとおもわれ
る。越前の百姓は食うや食わずの状態であった。
天文二十年(一五五一)九月一日、北条氏康は武蔵国市宿新田(埼玉県鴻巣市鴻巣)移住者の諸役を免じ田畠を開発させる印判状を、小池長門守屋敷に発給している。
堀江兵部たちの行為は戦国大名にとって問題であったろうとおもわれる。朝倉氏側から見れば、堀江兵部は「退転」であり、百姓達は「逃散」となる。北条氏
は「欠落」と見ているが、国境越えの「欠落」についての「人返し」は領主間協定でも解決困難な問題であったとおもわれる。しかし、朝倉氏側にとっての百姓
十八名の「逃散」は、「郷中明」とよばれ、村人全員であったろうから、朝倉義景にとっても国人堀江氏の動向は注視せざるをえないものと思われる。
堀江兵部ら一行はどのような経路をとり、武蔵まで移住したのであろう。天文二十三年三月(一五五四)甲斐の武田信玄(晴信、三四歳)相模の北条氏康(四
〇歳)駿河の今川義元(三六歳)が駿河の善得寺(富士市善徳寺)に集まり、三氏間の婚姻を媒介とした三国同盟が成立した。生活用具、農具、女、子供も一緒
であれば移動は困難がともなう、彼らには幸いであったとおもわれる。たぶん、近江、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、相模を経ての道のりであろう。彼らが一
向宗徒であれば、「門徒送り」によって助けられた可能性がより高い。備前の熱心な法華信者として知られる松田氏の臣大村家盛の『日蓮霊地巡礼記』がある。
天文二十二年(一五五三)四月、大村家盛の比企・池上・身延参詣の旅往路『大村文書』によれば次のようである。
【近江】坂本―鏡―醒ヶ井―【美濃】垂井―井ノ口―【尾張】岩倉―森山―岩崎―【三河】
岡崎―山中―吉田―【遠江】白須賀―今切―引馬―懸川―金屋―【駿河】島田―藤枝―府中―清見関―興津―蒲原―吉原~(舟)~沼津―【伊豆】三島―北条―伊東―網代~(舟)~【相模】小田原―江ノ島―比企―【武蔵】神奈川―池上、となっている。
堀江氏の先祖、堀江三郎左衛門はその父「賢光」と共に越前より遠江に進出し、土着したのち、北条早雲と共に戦っているが、敗戦して没落し、越前にもどっ た。たぶん堀江城がこの時のものであろうとおもわれる。文亀元年(一五〇一)堀江三郎左衛門尉為清は、北条早雲から三河国(愛知県)における戦功を賞さ れ、同年遠江国引佐郡三ヶ日村(三ヶ日町)金剛寺に寺領を寄進している。堀江兵部は北条氏とこのような所でも繋がっていると思われる。「つて」を求めて武 蔵国にきた遠因の一つであるかも知れない。また越前朝倉氏と北条氏の間には近しい関係にあることもしめされている。朝倉氏の一族であるとおもわれる朝倉兵 次郎は、江戸城代遠山氏の家臣で、永禄二年(一五五九)頃までには作成されたと思われる『小田原衆所領役帳』によると一二九貫文を知行している。