『藤九郎屋敷と上恩方の歴史』(楢本要助著 揺籃社刊より抜粋)
「平家」ゆかりの山室家 (江戸時代以前の過去帳は残っていない)
藤九郎屋敷の敷地に続いて建っている瑞雲山龍泉寺は、室町時代の寛正五年(1464)に山室長定が、僧瑞龍を招いて開基したと『恩方村寺院明細帳』に記
載されている。また力石の草木家の古文書には、弘治元年(1555)僧祖保及び山室家が改修に当たっていることが記されている。
山室家がいかに古くから、この地で勢力をもっていたかが実証されている。また龍泉寺は山室家の菩提寺の意味をもっていたことが分かるが、残念ながら江戸時
代以前の過去帳や位牌は残っていない。慶長十三年(1608)に、山室十郎正衡一盛が亡くなっていることが、龍泉寺の過去帳に次のように記されている。
慶長十戌申七月七日 山室十郎正衡一盛 照眼院殿自性覚
心大禅定門 平相国清盛之末流也
武州安下住ニシテ家名ヲ山室ト云
記録上、山室家が平家の末流であると、はっきり記されている最古のものである。
江戸以前の過去帳は、徳川家康が関東に本拠を構え、江戸入国に当り関東の各寺院や諸宗に残っている過去帳を没収したといわれている。小津町の青木氏宅位牌には
青木家先祖代々過去帳 徳川家、御入
国之砌、関東寺院諸宗不残、 過去帳御取上、其節法雲寺無住ニ
而御写無之依之先祖法号不分明故、
元和年中以隆記
の文が残っている。
藤九郎屋敷の本拠がある森久保の集落から二キロ米程東寄りの力石集落には、平の将門の家臣といわれている草木家がある。この草木家の裏山には『将門神社』が祀られていたりして、この地方の歴史を複雑なもにしている。
伊勢平氏の末流か
山室家の平氏は、先の過去帳に「平相国清盛之末流也」とみえるように、平清盛の流れを汲んでいる。山室家に今も残っている秘蔵の大小刀の内、長刀には峰に三ヶ所の受傷と廣泉の銘がある。この刀銘は小田野の渕上氏によりあきらかにされている。
さらに伊勢地方に結びつくものとして、森久保の里でおこなわれていた太神楽・獅子舞などは、八王子各地で行われている獅子舞とは異質のもので、明らかに伊勢地方に残る太神楽に共通する点が多い。
『山室』の姓について『日本の苗字』(毎日新聞社刊)を調べてみると、「山室ー伊勢飯南郡山室に起るものは桓武平氏、平の盛久の裔」とある。
更に山室家使用の家紋『蝶紋』や『三引両紋』からも平家とのつながりの深さをうかがえる。
龍泉寺裏山に、この地方としては珍しく広い十三坪の山室家の墓がある。宝筺印塔一基、五輪塔二基と並んで、本紋『鎧蝶紋』及替紋『三引両紋』のついた石
碑が建っている。鎧蝶紋・三引両紋とも平家一族の使用したものである。山室家では二つの家紋を使い分けて、本紋を表紋、替紋を裏紋とよんでいた。
現在森久保には、山室一族が四戸あるが、鎧蝶紋が一戸、三引両紋が三戸ある。下西げいとなど古い位牌には蝶紋がついている。なお、明治二十三年に没落した山室本家は、信濃国に落ちのびていたが、現在は甲府市内で宝石商として再興され、鎧蝶紋を使っている。
このように考えてくると、上恩方の一番上に『醍醐』という地名が残っているのが、京都六波羅の平家一族との関わりもうなづけないでもない。
『平家後抄』上には、伊勢平氏盛国父子について、概要次のように記されている。
平盛国とは、清盛に従って保元の乱・平治の乱で奮戦した平家の随一の重鎮である。清盛と盛国の水魚の交わりは最後まで続き、清盛は九条河原口の盛国の邸
で薨去している。源平の合戦に盛国父子は西海に下ったが、盛国は柱石として常に宗盛らの側近にあって、戦場のには出ていない。
文治元年(118)平氏一門は戦いに敗れ。盛国は鎌倉に連行されたが、日夜無言で通し、法華経を唱え、食を断って静かに入寂している。
盛国の長男盛俊は討死しているが、剛勇をもって知られた伊勢守主馬八郎左衛門平盛久は、壇ノ浦の合戦から逃れ大胆にも敵の裏をかいて、京都に潜入してい
る。盛久は仏心が篤く、高野山に土地を寄進している。京都では清水寺に帰依し、等身大の千手観音像を像立して金堂内陣の本尊右脇に安置、千日参りをしてい
た。鎌倉方への密告者が出て捕らえられ、平景時の取り調べを受けた。平家重代相伝の家人として盛久の責は重く、命を受けた土屋三郎が由比ヶ浜で首をはねよ
うとしたが、太刀が折れて二度も失敗している。政子の助言により、頼朝の前に呼び出された。結局、旧領紀伊の国の荘園は所領安堵の下文と、京都に帰る鞍・
馬一匹を与えられている。(角田博著・朝日選書)
しかし、この盛久の裔がどのようにして恩方の地に入ってきたのか、系図等を紛失していて、残念ながら詳らかではない。(本文の写真等は省略しました、本文は縦書きですが横書きにして掲載しています)。