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八王子城主 北条氏照

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八王子城主 北条氏照

  永禄2年(1559年)、木曾義仲の後裔である武蔵国滝山城城主・大石定久の娘・比佐を娶り、養子縁組をして大石源三氏照と名乗り、家督を譲られる。後に姓を北条に復して大石氏を配下に組み入れる(自ら北条を名乗った確実な記録は疑問視されており、大石当主の立場を全うしたという説もある)。自領であった現・相模原市方面の各村への文書では「油井源三」を名乗っている。また、養父の死後に遺族を粛清したとされている弟の北条氏邦(藤田安房守氏邦)と違い、大石定仲ら定久の家族を取り立てている。

その後、氏照は父に従って、小田原城の戦い直後の永禄4年(1561年)には辛垣城の三田綱秀と、永禄7年(1564年)には里見氏と、天正2年(1574年)には簗田氏と戦い、主に東方を担当して後北条氏の勢力拡大に大きく寄与した。また、外交手腕にも秀でており、永禄12年(1569年)には、氏邦と共に上杉氏との越相同盟の実現などを画策、伊達家とも濃密な外交関係を築くなど活躍した。織田政権期には織田信長との同盟強化を望んだが、家中の反対意見と信長の横死によって充分に機能しなかった。

永禄10年(1568年)、武田信玄の家臣・小山田信茂(大石氏と同様に木曾源氏の後裔)らの軍勢が小仏峠を越え相模国に侵攻した。氏照は中山家範・横地吉信らに迎撃を命じたが、高尾山麗の廿里(現、八王子市廿里町、廿里古戦場)にて敗退。その後余勢を駆って押し寄せた武田勢に攻め立てられ、滝山城は三の丸まで陥落し氏照は二の丸で指揮をとったという。なおこのとき氏照と武田勝頼が槍をあわせたとも伝わる。このような氏照自らの奮戦により、最終的には武田軍に滝山城の攻略を断念させている。

氏照は平山城である滝山城の防御面での不利を悟り、武蔵国と相模国の境に大規模な山城を築いた。山城の山頂に八王子社が祀られた為、城は八王子城と名付けられた。なお八王子城周辺の「八王子」という地名はこれに由来する。

永禄11年(1569年)、再度来襲した武田の軍勢が小田原城を囲んだ。撤退する武田勢を氏照・氏邦の軍勢が迎え撃ったが、小田原から追撃してきた本隊の動きが遅く挟撃体制は実現しなかった。この間に武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転した。戦国最大規模の山岳戦として知られている三増峠の戦いである。

天正6年(1578年)、上杉氏の家督争い御館の乱が起こると実弟・上杉景虎の援軍要請に応じた兄・氏政の名代として、氏邦とともに越後に出陣。北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。しかし景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。そして景虎は翌年滅亡という悲運を辿った。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が死去すると、織田領の混乱を見て甥の北条氏直らと共に織田領に侵攻し、北条領を拡大した(神流川の戦い)。

しかし天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっている。そのため小田原開城後、豊臣秀吉から主戦派と見なされ、7月11日に兄・氏政と共に切腹を命じられた。享年51。

辞世の句は、
「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」
「天地(あまつち)の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」

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