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地侍たちの戦国(4)-原島一族ー

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地侍たちの戦国(4)-原島一族ー

 奥多摩町文化財保護審議会編の「日原鍾乳洞出土の古鏡と古銭(二)」に原島氏の記述が有る。其の他に雄山閣版『新編武蔵風土記稿』第六巻一三四頁を始めとする記述や下山冶久編『後北条氏家臣団』人名事典により、丹党の出自の戦国期の原島一族を記しておきたい。
 丹党(たんとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・および児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した武蔵七党の1つである武士団で、第28代宣化天皇の子孫である丹治比の後裔を称し、各種史書でもいずれも宣化天皇後裔としている。一方で、これらの史書上に掲載されている系図の掲載内容が史実と矛盾することから、後世の仮冒とする説も多く見られる。丹党・児玉党・猪俣党などの武蔵武士団は、南北朝時代に南朝廷側=新田義貞に付いた爲、新田氏の滅亡と共に弱体化、あるいは没落していった。さらに上杉禅秀の乱では禅秀に味方した爲、鎌倉公方の足利氏に所領を没収されている。
 一石山大権現に仕える社家は、右京(原島本家)と淡路(原島本家から隠居し、後に独立)を名乗る二家があり、江戸時代右京家は名主役を、又、淡路家は年寄役を勤め、社家職と村役の職は代々世襲により明冶の初めまで続きました。両家の先祖は、室町時代の明応年中(1492~1500)に武州忍領原島村(現埼玉県熊谷市)から一党とともに来住した原島丹次郎友一・丹三郎友連の兄弟で、兄の丹次郎が「日原」を弟の丹三郎が「丹三郎」と「小丹波」を開拓、次第に奥多摩各所へ勢力を扶植していきました。日原に根を下ろした丹次郎一族は、その家系図によると丹次郎友一から、右源太友兼、右京亮友安、友正、淡路友則(後略)と続いています。原島氏が社家となった初めは、新編武蔵風土記稿によると丹次郎友一の孫右源太友兼(系図は子)の時からとあります。この頃、三田谷(みたやつ)と呼んでいた羽村辺(羽村市)から多摩川上流域までを納めていた領主は、上杉氏に属する青梅勝沼(青梅市)の城主三田氏でした。忍領から移ってきた原島氏も初めは三田氏に隷属(れいぞく)していましたが、三田氏が小田原の北条氏に滅ぼされたため、北条氏の傘下(さんか)にはいりました。この切替時の頃と思われる文書がのこされています。八王子城主北条氏照の家老横地監物から原島右京亮と日原百姓中に宛てたもので「来る(五月)朔日二日の間に鷹巣を差し出すべし。もし巣を隠すか差し出さない時は、原島は仕置きに処し、百姓や従類(一族郎党)は、いつ原(日原)から追い払ってしまうぞ。口語要約)」という厳しい内容のものです。〔日原鍾乳洞出土の古鏡と古銭(二)〕
 舊家 百姓新三郎 村の名主をつとむ原嶋氏なり、家の系図を見るに、其先祖は黨國七黨の内丹之黨丹貫主峯時の後裔にて、原嶋丹三郎友連と云、この友連より十餘代の先祖、足立郡原嶋村に居住せしより在名を以て氏とせり、友連も文明八年(1476)原嶋村にて出生せし人にて、小田原北条家に奉仕して、後にこの邊を領し、天文年中に死せり、その子彌次郎友乗も父と同じく北条家につかへしが、かの家没落の後落魄して土民となりしよりこゝに土着し、子孫連綿としてこの新三郎に至れりと云、或云友連が子孫土民となりしのち、當村及び小丹波村を開墾せしと、按に前にのせし日向和田村の百姓彌四郎が蔵する永禄の文書に、すでに丹三郎村の名みゆ、しかるにこの子孫の土民となりて此地を開きしと云うは、天正の末のことなれば、年代たがへり、此説誤れること知るべし、
 社家 原嶋右京 丹冶姓にて、先祖原嶋太郎直友と云しは、當國の忍領原嶋村に居住せし故原嶋を以て氏となせり、此人天文年中までは関東の管領上杉憲房に属し、後古河公方成氏の旗下となれり、其子丹二郎友一は文明五年(1473)原嶋村にて生まれ、弟丹三郎友連は文明八年(1476)是も同じく原嶋村にて生る、明応年中兄弟ともに小田原北条家に仕えしに北条たえしよりかの兄弟ともに民間に下し、友一は當村を開発し、友連郡内小丹波丹三郎を開発せしことは、その村舊家の條下に辨せり、友一の孫右源太友兼、村内一石山巌窟社家職となれしより子孫今に至れり、後分家せしは淡路守友則とて、これも村内倉澤巌窟の社家職となり、されば原嶋二家共に今は村内の社家職となる、
 舊家 百姓藤兵衛 氏を原嶋と称す、代々村の里正をつとむ、同郡日原村の里正右京と同家なり、右京が先祖を丹冶郎友一と云、其弟を丹三郎友連と云、北条の家臣にて天正年中まで此邊を領せしが、北条家没落せしより子孫土民となりて暫く此所に跡をかくし、其後一村をひらきおのが名を負せて丹三郎と云、夫よりして後又當村を開発せりと、村人は初めに此村をひらき、後かの村に及びしなりと云、いづれが是なりや未だ詳にせず、なを丹三郎村舊家の條下合せみるべし、彼が家に古刀及び古き鞍など所持するをもて見れば、舊家なることは疑ひなかるべし、(雄山閣版『新編武蔵風土記稿』第六巻134・158・169頁)
【原島右京亮】 武蔵国辛垣城(東・青梅市)城主三田綱定、のち滝山城(東・八王子市)城主北条氏照の家臣。永禄五年(1562)四月十日北条氏照朱印状(斎藤真指蒐集文書・七五五)では武蔵国いつ原(東・奥多摩町)の原島右京亮に三田氏の時に下ろしていた一原のはい鷹の巣を当年も滝山城の北条氏照に納めさせた。奉者は横地吉信。
【原島七郎右衛門尉】 北条親富、のち滝山城主北条氏照の家臣。年未詳九月二十八日北条親富書状(杉田郡平氏所蔵文書四一一二)では杉田入道・杉田右近丞・原島七郎右衛門尉の四人に下からの童子の証人(人質)を出す様に求めたが当方へ寄越さず四人のところに留め、あとで返してほしいと言ってきたが、今は駿河国に出陣中で帰ったら相談するので、それまでは四人でよくよく相談しておくこととし詳しくは甚左衛門から伝えるとした。杉田氏も武蔵国多摩郡川野村・小河内郷(東・奥多摩町)の地侍で、もと青梅の三田氏の家臣。
【原島孫二郎】 もと武蔵国辛垣城主三田綱定、のち滝山城主北条氏照の家臣三田冶部少輔の同心。永禄七年(1564)五月二十三日北条氏照朱印状(和田一男氏所蔵文書八五四)では武蔵国清戸番所(東・清瀬市)の在番衆の三番衆頭の三田冶部少輔の配下として原島孫二郎・同善六郎代と見える。
【原嶋善六郎】 孫二郎の一族。辛垣城主三田綱定、のち滝山城主北条氏照の家臣三田冶部少輔の同心。永禄七年五月二十三日北条氏照朱印状では武蔵国清戸番所の在番衆の三番衆頭の三田冶部少輔の配下として原島孫二郎・同善六郎代と見える。善六郎代とあって代理人が番衆を務めているのは善六郎は三田綱定に属して永禄四年四月の辛垣城で北条氏照との戦いで戦死したために代理人が番衆を務めた。
【原島新三郎】 武蔵国滝山城主北条氏照の家臣平山定衡の同心。永禄四年五月十九日平山定衡判物(原島実氏所蔵文書七〇一)では原島新三郎に武蔵国丹三郎(東・奥多摩町)の屋敷分三〇〇文と同野地一〇〇文の合計四〇〇文分を前々の様に安堵した。
【原島新右衛門】 武蔵国勝沼城主三田氏宗・綱定、のち滝山城主北条氏照の家臣師岡秀光の同心。年未詳三月二十九日三田氏宗書状(原島文書・奥多摩町史歴史編)では原島新右衛門に前々の如く武蔵国小丹波内の丹三郎の地主(領主ヵ)を安堵し沢木某抱えの地を宛行った。永禄四年三月に三田氏を北条氏照が滅ぼすと氏照の配下となり、永禄八年十一月吉日師岡秀光判物(原島実氏所蔵文書九三一)では原島新右衛門に今後も親密にしていく事を依頼し官途の事も申し合わせていくと伝えた(下山冶久編『後北条氏家臣団人名事典』)。

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