戦国を生きる「北条氏照家臣ー小山源七郎朝則・源五左衛門朝久-」
現在八王子市大楽寺町に居住する、小山(こやま)祐三家は以前は西寺方町の宝生寺の前に居住した名家である。宝生寺の古い檀家であったが今は長円寺の檀家となっておられる。その墓誌にこの家の謂われを記した家誌と代々の当主の名前が刻まれている。現在は小山(こやま)であるが「おやま」と発音したと思われる、いつの時から「こやま」になったのかは定かでないが、同家の先祖は藤原氏秀鄕流小山氏である。その家誌を参考にこの小山祐三家の歴史を明らかにしておきたい。
家誌
遠祖小山七郎朝光十九代の後裔として当國
八王子城主北条陸奥守氏照に仕え當祖小山
源七郎朝則天正十八年七月相模國小田原城
の戦に討死し弟源五左衛門朝久八王子城
落城後再擧の興空しく遂に野に下り武蔵国
西寺方に巋農す
中興祖 小山源七郎朝則 天正十八年七月七日
二代 小山源五左衛門朝久 慶長九年七月二十八日
三代 小山五郎左衛門朝秀 慶安二年九月九日
以後略・・・・
十二代 小山泰助
おやま 〔小山〕 下野国都賀郡小山郷(栃・小山市)を本貫地とした国衆。平安後期の藤原秀郷の末裔という正光を祖とする。鎌倉初期には小山氏は源頼朝を助けて有力な御家人として活躍した。小山城を本拠にして領国を確立し戦国期には永禄三年に上杉謙信に属し、四年には北条氏に属したために謙信に攻められ、永禄六年に小山秀綱が謙信に属し、天正五年初頭には北条氏照に攻略されて氏照に属した。天正十八年に北条氏と共に滅亡。
【高朝 たかとも】 六郎・弾正少輔・下野守。下野国小山祇園城(栃・小山市)城主。古河公方足利義氏の家臣。結城政朝の次男で小山政長の養子となり跡を継ぐ。永正四年生まれ、天正元年十二月晦日に没。法名は天翁孝運。墓所は茨城県結城市の孝顕寺。
【秀綱 ひでつな】 氏朝・孝山。小四郎・弾正大弼。下野国小山祇園城(栃・小山市)城主。はじめは古河公方足利晴氏・義氏に仕え、永禄六年に北条氏に属した。のち上杉謙信、天正元年十年からは北条氏照に属した。室は北条氏政の養女。秀綱の文書には家臣に対する官途状や一字書出し三三通と非常に多いのが特徴。天正十八年には豊臣秀吉と同盟した実弟結城晴朝に小山城を攻略されて降伏した。秀吉から知行を没収され没落し慶長七年頃に没した。法名は天山孝哲。孫の秀恒が相続した。
○秀綱・天正中小田原北條に降り、その藩屏となる。よりて十八年北條滅亡の際、旧領没収、家滅ぶ。(小山系図にては秀綱の一男政種十四歳夭死、次男高綱・十九歳戦死、故に三男秀廣、家を嗣ぐと)。此の末流寛政系譜に見ゆ。家紋は二頭右巴。
○寛政譜小山氏は第二十一巻 二一六頁に「小山 家傳にいはく、小山下野守朝政より六代村田阿波守政盛が後胤にして、村田を稱し、英茂がめし出さるゝにおよび、外家の稱を冒して大塚にあらため、英本がとき小山に復す。」とある。
八王子市大楽寺町の小山氏は秀綱の次男、高綱十九歳戦死の記述に重なり合う。高綱は小田原におり、三男秀廣は八王子城に籠城し、落城の際に家の再興を期して落ちのび、西寺方にて帰農したと思われる。秀廣が小山源五左衛門朝久と一致するのかについては定かでないが、八王子城に籠城の時は十五歳前後と思われる。