Quantcast
Channel: たろうくん(清水太郎)のブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 5691

墓塔にみる菊家紋と多摩の中世

$
0
0

墓塔にみる菊家紋と多摩の中世

 菊家紋の墓塔への使用はその家が何らかの意味で天皇家に尽くした功績を持って許されたと考えられる、楠木氏の菊水紋は著名であるが、墓塔にみる菊 家紋は熊沢天皇の事件で波紋を投げかけたものである。徳川家の葵の御紋の厳しいし規制に比べれば天皇家の16菊紋の規制は緩やかであったと言われている が、庶民が簡単に使えたのかと言えば疑問が残る。八王子市の大塚家の敷地内に残っている供養塔は五層の物であっように思われるが今は石の台座の上に3層だ けが残っている。その最下層に16紋菊が使われている。この大塚家は過去帳に寛文年中の戒名が確認できる。墓地では古い墓塔は確認できない。しかし、この 供養塔のある所に観音堂を持っておられるからすると名もない庶民とは思われない。ひっそりと隠れ住んで謂われを隠してしておられたのかと推察するのみであ る。大塚姓を辿ると高萩市に南朝の王孫と名乗る「常王」なる人物が大塚信州と称している異説がある、この高萩市は梶原美濃の老臣で梶原源三郎や水戸家の付 け家老の中山家とも深い関係がある。梶原氏も中山氏も八王子と深い関係がある。高萩の地を退去した大塚氏の誰かがこの供養塔を八王子の地に建立したと考え るのは飛躍しすぎであろうか。今となっては定かでない。

檜原村史の316頁に「高尾の平山氏」の項目がある。この平山重太郎家の敷地内に、江戸期末期に再建した”平山氏先祖の墓がある。その文面は次のように刻まれている。

      前摂津守摂西居士

      文亀 天文之間  郷中主采

      八月四日      平山摂政次

この石塔は天正十八年六月二十三日に、八王子城で討ち死にした先祖の平山弥八郎・弥九郎兄弟の 霊を弔い、八王子城の方向へ面して建てられている。この平山氏は足利尊氏が伴なった光厳天皇が五日市の光厳院に留まった時に尊氏に従い菊紋の使用を許され たのではないだろうか、この墓塔では笠石に下半分の菊紋が使われている。

写真は大塚家にある16菊家紋と平山家の墓塔の笠石の菊家紋 082084 a> >083

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 5691

Trending Articles