八王子合戦と大道寺駿河守政繁
天正十八年(1590)六月二十二日、月明かりを頼りに前田利家・上杉景勝の両大將は上州、武州の降人を先鋒として15000余の軍兵を亥の刻(午後9時から11時)より段々に進め近寄らせて、丑の刻(午前1時から3時)に横山口に至り、黎明に八王子町構えの城戸を破るといえども、城までは遥かに遠きゆえを是を知らず。守兵少なくして、恣に是を破り入りて城際に押し詰める(『武蔵名勝図会』所収「古戦記」)。八王子合戦の始まりである、あっけなくその日のうちに落城した。名のある首250とも500ともいわれ、討死した者3000と書かれた文書もある。同年4月には豊臣の先遣隊によって三多摩の各地は抑えられている。あきる野市の大悲願寺過去帳には「村山領奈良橋岸入道平吉家ハ六月朔日ニ拝島領ニテ討死」と記載されている。先遣隊に従わなかった土豪の死であろう。
上州・武州の降人の先鋒その中心にいたのが大道寺駿河守政繁である。天正18年豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、中山道の入口である上野の松井田城を守っていたが、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの大軍の前に開城降伏した。その後、豊臣方に加えられ、忍城攻めの道案内を勤め、5月22日に武蔵松山城、6月14日に鉢形城、6月23日に八王子城攻めと北条氏の拠点攻略戦に加わった。特に八王子城攻めでは、城の搦め手の攻め口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し最も働いたとされている。しかし7月5日に小田原城が陥落した後の同月19日、秀吉から北条氏政・氏照・松田憲秀らと同じく開戦責任を咎められ(秀吉の軍監と意見が対立し讒言された、秀吉に寝返りを嫌われた、小田原北条氏の中心勢力を一掃させたかった、などの諸説あり)、自らの本城である川越城(城下の常楽寺)にて切腹を命ぜられた。享年58。政繁にとって、代々の北条氏に仕えることも大事であるが、大道寺氏の家(家族、家臣団)の存続を考えることも大事であっただろう。彼の裏切り行為を後世の我々がただ責めることは、同時代の武家の当主の生き様からいって不適当であろう。
天正十八年(1590)六月二十二日、月明かりを頼りに前田利家・上杉景勝の両大將は上州、武州の降人を先鋒として15000余の軍兵を亥の刻(午後9時から11時)より段々に進め近寄らせて、丑の刻(午前1時から3時)に横山口に至り、黎明に八王子町構えの城戸を破るといえども、城までは遥かに遠きゆえを是を知らず。守兵少なくして、恣に是を破り入りて城際に押し詰める(『武蔵名勝図会』所収「古戦記」)。八王子合戦の始まりである、あっけなくその日のうちに落城した。名のある首250とも500ともいわれ、討死した者3000と書かれた文書もある。同年4月には豊臣の先遣隊によって三多摩の各地は抑えられている。あきる野市の大悲願寺過去帳には「村山領奈良橋岸入道平吉家ハ六月朔日ニ拝島領ニテ討死」と記載されている。先遣隊に従わなかった土豪の死であろう。
上州・武州の降人の先鋒その中心にいたのが大道寺駿河守政繁である。天正18年豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、中山道の入口である上野の松井田城を守っていたが、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの大軍の前に開城降伏した。その後、豊臣方に加えられ、忍城攻めの道案内を勤め、5月22日に武蔵松山城、6月14日に鉢形城、6月23日に八王子城攻めと北条氏の拠点攻略戦に加わった。特に八王子城攻めでは、城の搦め手の攻め口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し最も働いたとされている。しかし7月5日に小田原城が陥落した後の同月19日、秀吉から北条氏政・氏照・松田憲秀らと同じく開戦責任を咎められ(秀吉の軍監と意見が対立し讒言された、秀吉に寝返りを嫌われた、小田原北条氏の中心勢力を一掃させたかった、などの諸説あり)、自らの本城である川越城(城下の常楽寺)にて切腹を命ぜられた。享年58。政繁にとって、代々の北条氏に仕えることも大事であるが、大道寺氏の家(家族、家臣団)の存続を考えることも大事であっただろう。彼の裏切り行為を後世の我々がただ責めることは、同時代の武家の当主の生き様からいって不適当であろう。