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船木田庄

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船木田庄

 八王子市全域と日野市の一部を含む地域(旧豊田・七生地区)に平安期末から、関東の争乱の始まった「上杉禅秀(氏憲)の乱」応永二十三年 (1416)までの間は機能が維持されたとされる、藤原氏から東福寺へと領家がつづいた船木田庄という広大な荘園が存在した。九条家家領文書や東福寺文書 によれば、摂関家の荘園の歴史は古い記録では「清慎公(藤原実頼)家領文書順孫実資(小野宮流)伝之」と言われている。源頼朝が伊豆で挙兵する直前の治承 四年(1180)五月十一日に、古崇徳天皇の中宮皇嘉門院聖子(1122-1181)が甥九条良通と弟兼房に譲った三十九ヵ所の所領郡のうちに、船木田庄 と船木田新庄がみえる。建長二年(1250)十一月に船木田庄は本庄と新庄に中文され、本庄は右大臣九条忠家に、新庄は前摂政一条実経にそれぞれ譲与され た。南北朝の貞和三年(1364)七月に一条家の船木田新庄は東福寺に寄進された、船木田本庄は至徳二年(1385)に東福寺領になっている。
  八王子市の由木中山の地は野猿峠の真南の多摩丘陵に囲まれた山あいにあり、大栗川の支流の谷戸奥になっているが、ここには平安末期に船木田庄長隆寺という 有力寺院があり、現在白山神社のある丘陵一帯に埋経が行われたもののようである。江戸時代の文政年間以来数度にわたって発見され、「東京府史蹟天然記念物 調査報告第十冊」として残されている。それによれば十巻の経文は、仁平四年(1154)九月九日より十一日に亘って、僧智弁の勧進の下に、数人によって頓 写されたとある。僧智弁は一説によると武蔵坊弁慶の兄弟子であるという。
 船木田庄が八王子市域にあり、仁平四年僧智弁のもとで写経が行われ、小 野氏人、清原氏人と書かれた現地の有力者がいたことがわかる。彼らを在地の土豪と考えると、横山党(小野姓)との関係が考えられ、船木田庄の下地で武士団 的発展をとげた横山党がこの写経事業に協力したことになる。
 平安期の船木田庄の範囲や規模については不明なところが多いが、多摩川下流の稲毛庄 (現川崎市、同じく摂関家領)の平安末期の承安元年(1171)の検注帳を参考にすると、稲毛・船木田庄をほぼ同一条件とみて大胆に対比すれると船木田庄 の田地は二百町歩を上回り(稲毛庄は二百六十三町八段)、庄内には寺院・神社があり郷ごとに鎮守社があった。慈根寺もその一つで、藤原氏によって庄内の寺 として建立されたと思われる。年貢は絹または麻布で上納したようであるが、絹よりも布であった可能性が強い。庄内にはいくつかの郷があったようで、おそら く川口・由井・椚田その他の郷名は既にあったもののようで、そこに居住した名主たちが、横山党・西党の武士団を形成していたと思われる(八王子市史下 巻)。
 船木田庄の中心集落は平山郷で、落川遺跡よりあまり遠くない上流に位置している。在庁官人日奉氏(西党)の有力庶家平山氏の本貫地に想定 される場所であり、ここを根拠地としながら浅川を遡って開発していったのがこの船木田庄と言える。古代律令社会の耕地とは異なり、地方の開発領主が重視し たのは水利権と、それを掌握することによって確保される勧農権であり、ここにはじめて私営田領主としての農業経営が成立するのである(段木一行著『中世村 落構造の研究』)。この船木田庄が現在どの地域に存在していたかを知る手がかりとして「沙弥行恵(藤原道家)家領処分状」によれば、郷は平山・中野・由比 野・大塚・南河口・北河口・横河・長房・由木の九ヵ郷、村は豊田・青木・梅坪・大谷・下堀・谷慈・木切沢の七ヵ村 の十六ヵ郷村で構成されていた。
  船木田本庄・新庄には様々な人間模様があった。荘園領主側では船木田庄を号したが、地元や幕府では横山庄の呼称が流通していたと考えられる。その横山庄の 主、横山時兼と一族は健保元年(1213)五月七日に「和田義盛の乱」で没落し、横山庄は大膳大夫の幕府宿老大江広元にあたえられた。「承久の乱」 (1221)に大江広元の嫡子大江麻親広は宮方に味方し没収され、横山庄は大江姓長井氏へと受け継がれたと思われる。鎌倉幕府の末期には相論が相次ぎ起き ていた。天野氏は由比に所領があった。儀海が由井本郷に滞在していたと思われる、文保元年(1317)六月七日の和与によれば、土豪由比氏に養女となって 名跡を継いでいた、天野景広・賢茂の妹である是勝が源三郎屋敷などの所有権を主張して幕府から認められた事である。
 「上杉禅秀の乱」後、船木田 庄の在地領主たちは領家の東福寺から年貢対捍(たいかん)によって訴えられるという事件が起きている。関東管領(上杉憲実)奉行人奉書に「…平山参河入 道・梶原美作守・南一揆の輩、年貢を抑留せしむるの間、有名無実と云々。…」とある。すでに船木田庄は消滅の危機にあった。
 縣敏夫氏著『八王子 市の板碑』には「月待板碑」が収録されている。日月、天蓋、光明真言『武蔵名勝図会』に押絵掲載。〔注目すべきは、谷地郷代屋村の廾三人が月待供養の行事 をこの地でおこなったことを明示したことである。直接、中世史料になりにくい板碑において中世村落を明記した武蔵板碑の唯一例である。竜源寺近くの谷戸田 に沿った小川を谷慈川といい、代屋村は近くの大谷と比定する説もある。関連資料として、「東福寺領、武蔵船木田庄領家方年貢算用状」(延文六年1361) の七ヶ村の中に「谷慈郷 5百文」とみえ、中世において生産性を示唆している〕と縣敏夫氏は記述されている。この板碑には次のように刻されている。

 面善圓淨如滿月威光猶如千日月
 月待人数廾三人敬白
    文安五年八月廾三日
 谷慈郷代屋村住人
 聲如天鼓俱
 翅羅故我頂礼弥陀尊

 「面(おもて)は善く圓(まどか)にして、淨(きよ)きこと滿月の如し。威光は猶(なお)、千の日月ごとく。聲は天鼓(てんく)倶翅羅(くしら) のごとし。故に我れ弥陀尊を頂礼す」(天鼓=打たずして好音を発する鼓。倶翅羅=インドの美声の鳥)(石井真之助解説)と弥陀尊を礼讃するのもである。な お『板碑概説』では「滿月を彌陀に稱へつゝ、而かも廿三夜の月を拝してゐるのは如何にも無盾である」とのべている。
 
 船木田庄の至徳二 年(1385)「年貢算用状」には「大石大井介方一献料」と大石氏が登場する。この谷慈郷代屋村の人々は守護代大石氏に把握された住人であろう。船木田庄 の次の時代の始まりである。代屋村の地名はこの板碑以外に確認できない。船木田庄は豊かな荘園であったように思える。また、そのように考えながら、この地 を生きている私にとって楽しい毎日であることを感謝する。

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