豊嶋勘解由左衛門尉 平康保・宗忠(兵庫頭)・同人室の墓
永林寺(東・八王子市下柚木)は大石氏所縁の寺である。開基は大石定久で、開山は一種長純(大石定重の弟)となっている。寺の裏の区切られた一角に大石定久の墓を中心に家臣達等の暮塔が並んでいる。この人々については拙稿「大石氏関連の永林寺墓碑銘考」で述べてあるので参照にされたい。此処ではその片隅にある豊嶋勘解由左衛門尉平康保・宗忠(兵庫頭)・同人室の五輪塔について記しておきたい。正面に戒名、左右側面に名前と没年が刻してある。
清岳光輪居士(豊嶋勘解由左衛門尉 平康保 永正元甲子年八月十五日)
心月正印居士(豊嶋兵庫頭 平宗忠 天文二十年辛亥四月十一日)
華林妙昌大姉(同人室 弘治元年乙卯年三月五日)
豊嶋氏は平姓秩父氏の一族で、武蔵国豊嶋郡から発展し平安時代から室町時代にかけて国人系領主として存続した。長尾景春の乱に豊嶋泰経は与党として組みし太田道灌と対立する。その結果、江古田・沼袋原の戦いに敗れ、文明十年(1478)豊嶋泰経は平塚城で再挙するが、太田道灌の攻撃を受けて落城、小机城に逃れる。しかし、ここも落とされ、泰経は行方知れずとなり豊嶋氏宗家は滅亡した。杉山博著『豊嶋氏の研究』も豊嶋氏本宗家の泰経以後は不明とされている。没年からすると、この豊嶋康保・宗忠の墓はどこにもないとされていたものであろう。
葛西城の大石石見守の動静とも関連していたことから、豊嶋宗本家は最後には大石定久のもとに身をよせていたとおもわれる。そして、徳川家に仕えた豊嶋氏により供養のためにこの暮塔が作られたと考えたい。