エッセイ「じぃちゃんの人間革命」応報ー⑷
卒業して、新しく入った会社が、ティアックです。新しく本社・工場を建てている時でした。「定時制を卒業したのだから、勤まるね」が採用理由だったようです。オープンリールのテープレコーダーの老舗でした。私は計測用のレコーダーの調整でした、3年程で辞めました、日本電産の守永さんが、居られたのを後で知りました。辞めた理由は「大学の受験勉強の為」でしたが、2つ受けた大学は落ちてしまいまた。工学院大学の2部電子科に入っていたのです、「文学とは何か」と云う、本を使った授業がありました。受けている時に「そうだ、私が学ぶのはこれだ」と思いました。文化系の2部に行くのが正解だったのです。母が一年分の授業料を払ってくれていたので、中退となっていると思います。山へも行っていたのですが、この頃から単独で行くようになりました。家でゴロゴロしていた時に母が、セイコー5マチックの自動巻腕時計を買ってくれたのです。机の中に眠っています、母の形見です。山へ行っていたので、立川のスポーツ用品卸の会社に勤めました。お店の新規開拓に、名古屋から東北各地を訪問しました。成果がありました、天職だったと思います。一度辞めて、また戻りました。しかし、仲人をしてくれた社長夫婦は離婚寸前でした。原因は、倉庫に売れないで残った、アイワールドやデスカウント向けの商品と、得意先に返品可能で卸していた、大型運動具店の冬物スキーウエアが積み上げられていたのです。その他に、増築した事務所の上にトイレが作られていました。そこにはかって内墓地があったのです、駐車場の隣も共同墓地でした。紙などを燃やして、灰が飛び散り汚していたのです。景気の良い時には、お店も数件あったのです。札束に埋もれ、「社長が札束に囲まれ、喜んでいるの」と、社員たちも密かに噂していたようです。
長崎屋のスポーツ用品部門に、それらの不良品を安値で売る等して、倉庫はガラガラになったのです。私の結婚式で司会をしてくれた上司は常務になっていました。常務はどうしたら会社から逃げ出せるのか、思案中だったようです。「清水さんが来たから、大丈夫!」と言ったのです。社長から「取締役営業部長になって欲しい」と頼まれましたが、断りました。倉庫は片付き、埃まみれの床も磨きあげました。メーカーから売れる商品を仕入れ、立ち直れると思えたのです。
正月に団地の仲間と身延山へ行きました、おみくじを引いたのです。「大凶」が出たのです。その年の3月末の夜に「明日から、来なくていい」と電話が来たのです。都合10年程も?勤めた会社でした。それからが転落人生の幕開きでした。
(会社に戻る前に、少しブランクが有ります。その時に、家系調査の営業マンをしました。そして、自分で系図を作る仕事をしたのです、数件仕事を頂きました。その時の調査で、お金の為に依頼された方のご先祖へ、間違いを犯してしていたのです)
「おじちゃんは、神様になる」と幼い姪たちに言っていたのです。家でも、神道の本を読んだり、お経等を唱えるなど、自己流で「神になろうと」していたのです。この時に人間は、宗教にのめり込み過ぎると「狂うのだと」後で知りました。新興宗教の創始者は「狂っている」と、言われているのです。
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