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真言僧儀海の足跡 15

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真言僧儀海の足跡 十五

 十五 立川流と儀海の立場

 〔謎めいた邪教のルーツ〕

「近ごろ、世間には、『女犯は真言一宗の肝心、即身成仏の至極なり。もし女犯をへだつる念をなさば、成仏、道遠かるべし、肉食は諸仏の内証、利生方便の玄底なり。もし肉食をきらう心あらば、生死を出る門にまようべし。されば淨不淨を嫌うべからず。女犯肉食をもえらぶべからず』と説く経文が広がっている」。真言宗の僧侶で、越前国豊原寺の誓願房心定が、『受法用心集』のなかでこう嘆いたのは十三世紀のことである。この時代、即身成仏の奥義は男女の性交と肉食にあると説く真言立川流は、僧俗を問わず、広く中世人の魂を魅了していた。その発生をたどると、京都醍醐寺に住して東院阿闍梨ともよばれ、将来、同寺の座主につくことは間違いないと目されていた高僧、仁寛阿闍梨に行きつく。

 すでに三十年の長きにわたって左大臣職にある源俊房を父に、東寺の一の長者で三宝院権僧正の勝覚を兄にもち、そのほかの兄弟もすべて高位高官という恵まれた境遇にあった仁寛は、ふとしたきっかけから天皇の継承問題にまつわる内紛に巻き込まれ、永久元年(一一一三)十一月、鳥羽天皇殺害を謀ったとの嫌疑で伊豆大仁の地に流された。そして、それからわずか五ヶ月後の翌三月二十三日、配流先の大仁の岩場から身を投げて果てるのだが、その間に、後に立川邪教と呼ばれるようになった教義を新弟子の陰陽師に伝授したとされる。「武蔵国の陰陽師が仁寛に真言を習い、それを陰陽道に引き入れた。そして、邪正混乱・内外混乱の一派を立てて立川流と称え、真言密教の一流派を構えた。これが邪法の濫觴(始まり)である」(『宝鏡鈔』)仁寛から三世紀はど後の高野山の宥快は、こう記している。

この弟子を、武蔵国立川(東京都立川市)出身の陰陽師・見蓮とする説や、仁寛自害後、高野山に上がって潅頂を受け、同地で寂した定明房覚印が見蓮で、以後立川流がひそかに高野山などの真言僧に浸透していったとの説もあるが確証はない。ともあれ立川流は、この仁寛に由来する理論によって芽吹き(仁寛に法を伝えたのは兄の勝覚との説もある)弟子の陰陽師たちがそこに種々の陰陽道説や邪見を加え、一部僧侶らも加担して儀軌・経典類を備えて次第に完成していったというのが定説である。やがて、十四世紀にいたると、その教えは本拠地である関東・北陸から中部を経て、近畿一円、さらには四国を除く西国にまで広まっていた。その宣伝に最も力があったのが武蔵国立川を拠点とする陰陽師だったため、世間ではその信者を指して「あれは立川だ」と呼称し、ために立川流という名称が定着したのであろうと、真言宗大僧正の守山聖真は名著『立川邪教とその社会的背景の研究』で述べている。

立川流は単なる異端邪教ではなかった。先に見てきたように、教相と事相を備え、膨大な経典類をかんびしていた。その中心経典は「三経一論」と呼ばれる。三経とは三つの経典がセットで三種、つごう九種の経典からなる。誓願房心定が書写したリストには唐の一行訳とされる『五蔵皇帝経』『妙阿字経』『真如実相経』の一セット。不空三蔵訳の『七甜滴変化自在陀羅尼経』『有相無相究竟自在陀羅尼経』『薬法式術経』一セット。善無畏三蔵訳の『如意宝珠経』『遍化経』『無相実相経』一セットの三経と『一心内成就論』が挙げられるが、いずれも立川流行者・僧侶による偽経である。

大胆に性を肯定し、呪法による現世利益と即身成仏をといた立川流は、実に広範な信者を獲得し、他宗にも強い影響を及ぼした。たとえば日蓮が弟子の四条金吾に宛てた書簡には、「男女交合のとき、南無妙法蓮華経ととなうるところを、悩即菩提、生死即涅槃というなり」という一節がみられる。また、浄土真宗では、高田専修寺の真慧(十五世紀)がこんなことを書いている。「息の出入りに阿弥陀仏あれば、口中は阿弥陀の道場なり。かくのごとく領解するを往生というなり。……(南無阿弥陀仏は)一切衆生の父母なり。父母とは、阿とは母、吽は父なり。……この息、口を開けば阿と出入りす。出息は阿と出、入息は吽と入る。これ息位成仏のいわれなり」(『十箇の秘事』/速水侑『呪術宗教の世界』より引用)ここでは、男女の性的交わりによって即身成仏にいたるという立川流の思想が、「南無阿弥陀仏」を唱える阿吽の呼吸に置き換えられている。阿吽の意義づけは、先の立川流の理論のところで説明した。立川流の性的シンボリズムがいかに当時の人々の心を深く魅了したかが、この文意からも伝わってくる。浄土宗にも同じような異端があつた。その流派に属するものは、念仏の「念」の字を「人二人ノ心」と分解した。そして、往生にいたる念仏とは、念の字に秘められているように、男女二人が交わって恍惚境に入り、心がひとつになった刹那に発する「南無阿弥陀仏」の一念だと主張したのである。

けれども、既成仏教の根底を揺るがし、社会秩序の紊乱にも直結しかねない立川流は、いつまでも放置されることはなかった。立川流撲滅に立ち上がった僧侶のよる弾劾、立川流経典・著作の焚書などが行われ、立川流という「邪教」「悪見」に染まると、仏教を守護する諸天の罰をこうむり、事故死や変死、物狂い、疫病死、自殺、夭折など、りくな死に方はせず、死後も無間地獄に落ちて永遠の業苦のなかに沈まなければならないという宣伝が、広く行われた。こうした惜敗撲滅運動が功を奏し、立川流の熱病のごとき流行も、戦国時代にいたるころにはようやく下火になった。(『真言密教の本』学研刊より引用)

立川流 醍醐三宝院勝覚(一〇五九~一一二九)の俗弟仁寛が始祖とされる。仁寛は御三条天皇の第三皇子である輔仁親王の護持僧であったが、謀反の企てに座して永久元年(一一一三)伊豆に配流され、名を蓮念と改めた。仁寛は在俗の人々に真言密教を授けていたが、武蔵国立川の陰陽師がそれを習うとともに、陰陽道を密教に混入して広めた。後世これを〈立川流〉と称するようになった。この間の経緯は詳細ではないが、その法流の兼蓮・覚印・覚明やその弟子系統の道範や明澄などを通じて高野山・泉州・丹後に伝播し、勧修寺流良弘の付弟真慶による太古流もその一派と見られ、さらに多くの門流の人々によって諸国に流布され、浄土宗や浄土真宗にも影響している。なお南北朝期に弘真(文観)が出て大成したと伝える。

 その教義は、大仏頂首楞厳経第九に「男女二根は即ち是菩提涅槃の真処」とあり、『理趣教』巻下に「二根交会して五塵の大仏事を成ず」ということに基づき、陰陽男女の道を即身成仏の秘術とするなど、性の大胆な肯定が見られ、しばしば邪教として排撃され、たとえば宥快の『宝鏡鈔』などには、その系譜・教理・典籍などを示し、批判をしている。このため、残存する典籍が少なく、実態は不明のところが多い。しかし神道への影響も見られ、中世において無視できない思想潮流である。天台宗の玄旨帰命壇と対比される。

 立川流についての研究書は多いが、守山聖真・櫛田良洪・笠間良彦・真鍋俊照の各氏が出版されている。櫛田良洪氏の説よれば、称名寺に伝わった意教流は立川流で、その法脈は、蓮念・見蓮・覚印・覚秀・淨月・空阿・慈猛・審海となっている。儀海も、慈猛・鑁海・儀海とその法脈を伝授している。しかし、櫛田良洪氏によれば、これらの立川流には邪見の入り込む余地はないと指摘されている。そして、称名寺の別の立川流である女仏については明らかに邪流であるとされている。

「…一つだけ未解決の大問題がある。それは平安末から鎌倉前期にかけて流行し、教義と実践の両面で無視できない影響を与えた密教の一形態である。具体的にいえば、真言系の立川流と天台系の玄旨帰命壇である」(立川武蔵・頼富本宏編『日本密教』)。

 多摩川をはさんで武蔵国立川(東京都立川市)と高幡不動尊(東京都日野市)は位置する。距離にすると約四キロメートル程であろう。立川流発祥の地は、現在東京都立川市にある諏訪神社辺と思われる。

晩年の儀海は高幡不動尊に常住していた。寺の記録によれば観応二年(一三五三)二月二十四日の示寂とされるが、謎の部分もある。応永二十二年(一四一五)二月、沙門乗海が金剛寺不動堂を旧地に移築することを発願し、勧進帳を作る。この勧進帳には儀海について次のように記されている「……しかるに去る建武二年(一三三五)のころ、一人の沙門あり。精舎の風損顛沛を嘆きて、奔営修興造りおわんぬ。すでになりて行方知らず退失す。ひとえに冥慮と謂いつべし。……」。勧進状は発願者乗海が、当時の名文家・神代寺長弁和尚にその案文を依頼したもので、その草案は長弁の文集「私案抄」にも載っているが、当時きっての名文家長弁の文学的表現によるものであり修飾されているようであるが、文和三年(一三五四)までは生存が確認できる。儀海の生年は弘安二年(一二七九)と推定させるので文和三年には七十六歳となり、当時としては相当な長寿であった。金剛寺文書には室町後期に法流相承の失敗があった旨の記述があり、これが儀海の最晩年について謎となる原因であると思われる。


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