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真言僧儀海の足跡 十二

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真言僧儀海の足跡 十二

     十二 高野山と儀海

高野山は弘法大師空海が修禅の道場として一院を建立したのにはじまる。そして空海の入滅の地である。真言宗の聖地で、現在世界遺産に指定されている。中世の高野山を支えたのは高野聖達である。儀海が高野山を訪れたのは根来寺に来寺していた時であろう。

蓮華谷誓願院については荒五郎発心譚がある。これは『高野山通念集』が『蓮華谷誓願院縁起』の荒五郎発心譚としてのせるものであるが、『沙石集』巻九が「悪縁に値うて発心する事」にとりあげているから、その発生は鎌倉中期以前までさかのぼることができよう。しかし『通念集』では、この発心した高野聖由阿弥陀仏の名を荒五郎とし、かれの住房誓願院の本尊を京都三条京極の誓願寺からむかえるなど、誓願寺系時宗聖の手がはいっているようである。この物語の荒筋は、京都三条の荒五郎なるものが、貧乏のために妻にそそのかされて、ある夕暮れに、下女をつれた美しい若妻を刺し殺して、血染めの小袖をはぎとる。これを持って家に帰り妻にあたえると、つまはその美人のながい髪の毛も、なぜ切り取ってこなかったかと責めた。これを聞いて荒五郎は、女の貪欲と残忍に無常を感じて高野にのぼり、蓮華谷の誓願院にはいって、由阿弥陀仏と名のった。ちょうどそのころ、この寺に勒阿弥陀仏という道心者がおっていつしか仲良くなったが、ある夜ふけに、ふとお互いの発心の動機を話し合うことになった。由阿弥陀仏がさきに殺人の罪の懺悔話をすると、勒阿弥陀仏は被害者の着衣や日時から、わが妻であったことを知り、その奇縁におどろく。かれも最愛のつまを人手にかけられて世の無常を知り、出家して高野に登っておったのである。しかしいまは仏道にはいって恩讐をこえた身であるので、これを機にいよいよ道心堅固にして女の後世をとむらった。ところがこの誓願院はたいそう衰微していたから、由阿弥陀仏は京の三条殿に勧化してこれを中興するについて、三条京極の誓願寺の本尊と同木の阿弥陀如来像をむかえたというのである。(五来重著『高野聖』)

南谷には成就院が今現存する。儀海は高野山金剛峯寺南谷宿坊での聖教類を書写した奥書に「報恩院末資権律師儀海」と記している。報恩院は醍醐寺の寺院である。醍醐寺は京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派総本山で、寺伝では貞観十八年(八七六)に理源大師聖宝が開山とある。醍醐寺は院政期になると、源氏系貴紳が相次いで入山し、特に事相の面で業績を残し東密事相小野流(野沢二流)の中心の地位を得るにいたった。報恩院は成賢(一一六二~一二三一)によって建立され、報恩院は醍醐寺の門跡を輪番で勤めた三宝院・理性院・金剛院・無量寿院と共に醍醐の五門跡の一つと言われている。



正和二年(一三一三)五月十七日夜戌尅於高野山蓮華谷誓願院書写了 求法沙門(梵字二字)(儀海ヵ)

正和二年(一三一三)七月九日於高野山金剛峯寺蓮華谷誓願院書写畢 此書聞名字年久雖然未得之今幸感得之至宿願処以如是云々 権律師義海卅四

元応元年(一三一九)七月五日於高野山金剛峯寺南谷宿坊賜師主御自筆御本書写畢 

以書写功為生々世々大師値遇之縁成聴聞密蔵之因耳 報恩院末資権律師儀海四十一才

元応二年(一三二〇)五月廿六日於高野山金剛峯寺釈迦文院書写畢 金剛資儀海四十一

元応二年(一三二〇)六月三日於高野山金剛峯寺釈迦文院書写畢 儀海

元応二年(一三二〇)七月二日於高野山金剛峯寺南谷宿坊書写畢 権律師儀海

元応二年(一三二〇)七月五日於高野山金剛峯寺南谷宿坊賜師主御自筆御本書写畢 願以書写功為当来大師値遇之縁成聴聞密蔵之因耳 報恩院末資権律師儀海四十一才

元応二年(一三二〇)七月六日於高野山金剛峯寺南谷宿坊書写了 願以書写功為当来大

師値遇縁而已 金剛資儀海四十一

干時元応弐年(一三二〇)七月八日於高野山金剛峯寺書写畢 金剛仏子儀海

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