真言僧儀海の足跡 七
七 金沢顕時と称名寺
金沢顕時 鎌倉時代の武将。宝治二年(一二四八)~正安三年(一三〇一)初名時方、越後四郎・越後入道と称し、赤橋殿と呼ばれた。法名恵日。実時の嗣子、母は北条政村の女。正嘉元年(一二五七)十一月二十三日元服。文永二年(一二六五)の初め左近大夫将監となり、同七年には引付衆に列している。弘安元年(一二七八)二月評定衆に列し、同三年十一月には越後守となり、同四年十月には引付頭に任ぜられて政治の枢機に参じた。しかるに同八年十一月、霜月騒動のとき安達泰盛の婿であった関係から所領であった下総国埴生荘に流謫された。下向に際して、父実時から与えられていた武蔵国金沢の称名寺内外の地を称名寺に寄進した。この寄進状は今に存し、顕時自筆と認められている。また同時に称名寺長老審海の書状を寄せ、右の寄進の趣旨を述べ、身辺の事情や心境に及んでいる。ただし、書状が弘安八年十二月二十一日付けであるのに対し、寄進状が十六年前の文永六年十一月三日付である点が一つの問題とされている。埴生荘において出家したが、永仁元年(一二九三)ないし同四年以前に召しかえされたと考えられる。その後は所帯を子貞顕に譲って隠退したかと思われる。正安三年(一三〇一)二月九日、かつて父実時が父母の菩提のために称名寺に寄進した梵鐘の破損を修治し、入宋僧円種をして新たに銘文を撰せしめて再鋳の上、再びこれを寄進した。同年三月二十八日、五十四歳で没した。称名寺境内に五輪塔の墓が現存する。顕時は学問・信仰への関心が深く、その書写・伝習した漢籍が金沢文庫その他に伝存しており、弘安元年音博士清原俊隆から伝習した『春秋経伝集解』はその代表例である。
称名寺 神奈川県横浜市金沢区金沢町にある真言律宗の寺院。山号は金沢山。もとは極楽寺末寺。北条実時が母の菩提を弔うため文応元年(一二六〇)ごろ六浦庄内に建てた念仏の寺を、文永四年(一二六七)に妙性房審海を開山に迎えて律宗に改めた。二代釼阿、三代湛睿は優れた学僧として知られる。六浦は朝比奈切通しを通じて鎌倉と繫がり、和賀江津とならぶ鎌倉の外港であった。称名寺は、六浦津を管理し、関銭を徴収していたようで、和賀江津に関して極楽寺が同じ立場にぁった事を考えれば、忍性を中心とする律僧は北条氏と結んで鎌倉の海上ルート(貿易)を押さえていたと考えられる。境内には、北条実時以来の典籍類を集めた金沢文庫があり、大蔵経など仏教関係典籍、紙背文書を中心とする〈金沢文庫古文書〉などの文化財が豊富にある。
正応四年(一二九一)九月称名寺三重塔が建立された。その落慶供養式衆に「…観教房 石河…」の記載がある(櫛田良洪『真言密教成立過程の研究』)
正応六年(一二九三)には北条顕時の右筆であろうとおもわれる「教道」なる人物がいる。武蔵南多摩郡石河であろうとされている。石河は現八王子市石川町であろう。真福寺文庫撮影目録に次のような記述がある。
花厳論議蔵第二 三巻内 良信房 一怗(奥書)
本云寛正三年(一四六二)壬午九月二〇日於南都上房書之可□之也 本云干時寛正七
年丙戌二月十二日書畢於武州石川談所室生寺長円院厳之房高野山之居住之時於幸良写絡云々敷宥境智御房 本云干時長享三年(一四八九)十月二日后半於上州多比良光明寺境切房御本申請写之畢 惣伝房 本云干時延徳二年(一四九〇)正月十八日於新田庄別所円福寺談所此論議奥行之時節写申覚祐其後淳智房御本ニテ明応三年(一四九四)七月八日書畢 上州新田庄別所談所円福寺居住時極楽房ニテ写了 良心
船木田庄由井郷(東京都八王子市弐分方・西寺方地域)を訪れている。金沢文庫古文書第10「華厳五経章上巻指事奥書」に次のようにある。
華厳五教上巻指事
(末尾)
正應六年三月五日、於武州船木田庄内由井
□内郷御堂書写了、 右筆教道
金沢(北条)顕時・貞顕親子は特に経典の書写、収集に熱心であった。正応年間の顕時についての記録はない。それは、霜月騒動による混乱によるものと思われるが、この書写を命じているのが顕時とおもわれることからすでに下総国埴生庄より帰っている可能性がある。『華厳五教章指事記』は唐の賢首大法蔵の『華厳五教章』を文章について注釈したもの。東大寺寿霊の著作。三巻(上・中・下)。現在金沢文庫には上巻本末・下巻本が存在する。八王子市元八王子町の通称城山(八王子城)の地には「華厳菩薩」の伝説がある。『華厳菩薩記』の筆者は文怡悦山という黄檗宗の禅僧で、康暦元年(一三七五)三月十五日に書いたものである(宗関寺文書)。しかし、この伝説については従来から疑問視されていたが、この地域での教道の書写と『華厳菩薩記』の書かれた年代を考えると興味深いものがある。
『徒然草』の作者、吉田兼好(卜部兼好が正しい、兼好法師)は弘安六年(一二八三)~観応元年(一三五〇)四月八日(?)の人であるらしい。林瑞栄によれば、兼好は金沢貞顕に仕えた倉栖兼雄(文保二年没す)という人物の「連枝」(兄弟)であり、兼雄の母「尼随了」が兼好の母で、兼好の父は倉栖某である。兼好は関東武家社会の出身者であったのではないかとした。従来は『卜部氏系図』によって兼好の父は兼顕で、兼顕には慈遍・兼雄・兼好という三人の子があったとされていた。この説によれば、兼好は武蔵国金沢で生まれ、八歳の時に京に迎えられたとすることもできる。また、兼好は二度鎌倉にきて金沢に居住したようである(徳治元年~延慶元年か?)。永井晋氏は人物叢書『金沢貞顕』(吉川弘文館)で新しい説を展開している。
儀海は弘安二年(一二七二)の生まれで、日野市の高幡不動(高幡金剛寺)所蔵法統譜によれば、観応二年二月二十四日の示寂とされる。兼好と儀海は共に同じ時代を生き抜いた。兼好は隠者として生き、儀海は求法沙門として生きた。
金沢文庫には義海の書状がのこされている。「儀海」とはなっていないので本稿の儀海であるかについては疑問であるが参考までに挙げておく。
愚身も此四五日違例、風氣と學候、兩三日之際ニ
不取直候ハゝ、講問事大難義□不定存候、尚々只
今芳問、返々殊悦候也、
御音信先承悦候、抑自去月之始病床之處、結句此間以外打臥
候間、是如仰旁令計會候、如此之式候之間、破立事も干今不
申入候、雖然途賜之條、恐悦候、御違例事驚存候、熟柿之熟
子にて候へとも、返々無勿躰候、以御暇申承候ハゝ、自他可
散欝念候、恐々謹言、
十一月六日 義海
侍者御中 御報
(ウハ書)
「(切封墨引)
義海状」
弘長二年(一二六二)は謎の多い年である。『吾妻鏡』はこの年について、欠巻あるいは、故意に記載しなかったと思われるのである。石井進氏は次のように述べている。
北条長時の死の前々年、弘長二年(一二六二)、まさに『吾妻鏡』の欠落しているこの年にもまた相当の政治的陰謀事件が欠けてはいなかっただろうか。「かまくらにひそめく事あてめさるゝあいた、いのちそんめいしかたきによりて」という理由で出発前に嫡子弥二郎季高に肥前国朽井村地頭職田畠山野等を譲った同年九月廿九日付の同国国分寺地頭藤原忠俊・母堂松浦鬼丸藤原二子連署譲状(多久文書)によって、それは明らかである。では「ひそめくこと」とはいつたいなにであったのか。肥前国の地頭御家人までが召集令をうけているとこるからすれば事態は相当深刻であり、陰謀はかなり危険なものであったに違いないが、他の関係史料は口を閉じてなに一つ語ってはくれず、これまでの研究者も誰一人この事件に注目してないので詳細はこれ以上不明というほかはない(石井進著『鎌倉武士の実像』)。
弘長二年(一二六二)、鎌倉の前浜に三枚の板碑がたった。浜の西端に一枚、東端に二枚。鎌倉でそれ以前の板碑といえば、正嘉元年(一二五七)銘の折れたのが扇ガ谷の民家に一枚残っているだけだ。五年の空白の後、三枚が造立されたことになる。いくらか唐突の気味もあるこの事実は、なにを意味しているのか(馬淵和雄『鎌倉大仏の中世史』)。
鎌倉大仏は当初、木で造られていた。それがこの年鋳造されて完成したのである。
鎌倉大仏は、天台宗など旧仏教勢力と一体になった京都の公家政権による強固な国土支配を、東国の武家政権が新興の宗教勢力とともに奪取しようとした、その象徴だった、と私は考える。(『馬淵和雄』)
この年、西大寺叡尊は関東に下向する。北条時頼の再三の懇願によるものであった。時頼との会談の内容は謎である。そして、これを機に真言律宗西大寺の勢力は全国に拡大していった。北条執権体制は北条泰時の定めた御成敗式目にみられるようにその政権を維持していたのは法である。この時代訴訟のすべてはこの法によって解決されていた。北条氏はその執権の正統性を主張する為には公平な裁判による政治力しかなかったといえる。西大寺永尊は律によりる仏教の改革をめざしていた。めざすところは同じであった。しかし、法は時代の流れに適応できなくなり、やがて鎌倉幕府は崩壊へとむかってゆくのである。
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真言僧儀海の足跡 七
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