真言僧儀海の足跡 十一
十一 鎌倉大仏と儀海
徳治二年三月二日、関東に大地震(一代要記)。徳治三年七月九日の子刻(午前零時)真夜中であるにもかかわらず、将軍久明親王は佐介ヶ谷より出御して上洛。将軍の地位から降ろされた。このとき三十四歳。その子守邦親王が、わずか七歳で将軍識についた。この頃、北条貞時も祖父時頼以来の廻国使という密偵を諸国に派遣していたことが、『北条九代記』の異本に記されている。同年八月、平政連、北条貞時に諌書を進める。その内容は箇条書きで、㈠政術を興行せらるべき事、㈡早く連日の酒宴を相止め暇景の歓遊を催さるべき事、㈢禅呂の屈請を省略せらるべき事、㈣固く過差を止めらるべき事、㈤勝長寿院を造営せらるべき事の五ヶ条を得宗北条貞時に献言する目的であった。徳治三年は十一月に延慶と改元する。延慶元年十一月、兼好法師、称名寺長老の書状をもって帰洛(金沢貞顕書状に「兼好帰洛之時同十二日禅礼」とあり)金沢貞顕に呈す。同月釼阿、称名寺長老に就任。最近の研究では兼好の鎌倉滞在については疑問視されているが、従来の説によれば兼好は金沢の地にいたことになる。この時期、儀海と即円は共に慈根寺より鎌倉大仏谷の佐々目僧正と呼ばれた頼縁のもとに往き来している。兼好と儀海、即円は鎌倉の何処かで出会い、大仏をどのような思いで眺めていただろうと想像すると楽しい。
徳治二年(一三〇七)四月廿六日於鎌倉大仏谷書写畢 金剛仏子儀海
徳治二年(一三〇七)七月十七日於相州鎌倉大仏谷申尅書写畢 金剛資即円廿八
徳治二年(一三〇七)七月廿四日於相州鎌倉大仏谷午尅令染筆畢 金剛資儀海
徳治二年(一三〇七)七月二十四日於相州鎌倉大仏谷午尅令染筆畢 金剛資儀海
徳治二年(一三〇七)七月卅日於鎌倉大仏谷巳尅許書写畢 願以書写生々世々値遇大師密教聴聞 金剛仏子儀海
徳治二年(一三〇七)八月十二日於相州鎌倉大仏谷入戌尅令交合畢
徳治二年(一三〇七)於相州鎌倉大仏谷申尅書写畢 金剛資即円廿八
徳治二年(一三〇七)八月十二日於相州鎌倉大仏入戌尅令交合畢
徳治三年(一三〇八)四月廿六日於鎌倉大仏谷書写畢 金剛仏子儀海
徳治三年(一三〇八)四月二十九日於鎌倉大仏谷令染筆畢 義海
干時徳治三年(一三〇八)五月六日於相州鎌倉大仏谷辰尅令染筆畢 金剛資義海
干時徳治三年(一三〇八)五月六日於相州鎌倉大仏谷辰尅令染筆畢 願以書写生々世々値遇大師聴聞密教 金剛資義(儀)海
徳治三年(一三〇八)五月十七日於相州鎌倉大仏谷辰 令染筆了金剛資儀海二十九
徳治二年三月二日、関東に大地震(一代要記)。徳治三年七月九日の子刻(午前零時)真夜中であるにもかかわらず、将軍久明親王は佐介ヶ谷より出御して上洛。将軍の地位から降ろされた。このとき三十四歳。その子守邦親王が、わずか七歳で将軍識についた。この頃、北条貞時も祖父時頼以来の廻国使という密偵を諸国に派遣していたことが、『北条九代記』の異本に記されている。同年八月、平政連、北条貞時に諌書を進める。その内容は箇条書きで、㈠政術を興行せらるべき事、㈡早く連日の酒宴を相止め暇景の歓遊を催さるべき事、㈢禅呂の屈請を省略せらるべき事、㈣固く過差を止めらるべき事、㈤勝長寿院を造営せらるべき事の五ヶ条を得宗北条貞時に献言する目的であった。徳治三年は十一月に延慶と改元する。延慶元年十一月、兼好法師、称名寺長老の書状をもって帰洛(金沢貞顕書状に「兼好帰洛之時同十二日禅礼」とあり)金沢貞顕に呈す。同月釼阿、称名寺長老に就任。最近の研究では兼好の鎌倉滞在については疑問視されているが、従来の説によれば兼好は金沢の地にいたことになる。この時期、儀海と即円は共に慈根寺より鎌倉大仏谷の佐々目僧正と呼ばれた頼縁のもとに往き来している。兼好と儀海、即円は鎌倉の何処かで出会い、大仏をどのような思いで眺めていただろうと想像すると楽しい。
徳治二年(一三〇七)四月廿六日於鎌倉大仏谷書写畢 金剛仏子儀海
徳治二年(一三〇七)七月十七日於相州鎌倉大仏谷申尅書写畢 金剛資即円廿八
徳治二年(一三〇七)七月廿四日於相州鎌倉大仏谷午尅令染筆畢 金剛資儀海
徳治二年(一三〇七)七月二十四日於相州鎌倉大仏谷午尅令染筆畢 金剛資儀海
徳治二年(一三〇七)七月卅日於鎌倉大仏谷巳尅許書写畢 願以書写生々世々値遇大師密教聴聞 金剛仏子儀海
徳治二年(一三〇七)八月十二日於相州鎌倉大仏谷入戌尅令交合畢
徳治二年(一三〇七)於相州鎌倉大仏谷申尅書写畢 金剛資即円廿八
徳治二年(一三〇七)八月十二日於相州鎌倉大仏入戌尅令交合畢
徳治三年(一三〇八)四月廿六日於鎌倉大仏谷書写畢 金剛仏子儀海
徳治三年(一三〇八)四月二十九日於鎌倉大仏谷令染筆畢 義海
干時徳治三年(一三〇八)五月六日於相州鎌倉大仏谷辰尅令染筆畢 金剛資義海
干時徳治三年(一三〇八)五月六日於相州鎌倉大仏谷辰尅令染筆畢 願以書写生々世々値遇大師聴聞密教 金剛資義(儀)海
徳治三年(一三〇八)五月十七日於相州鎌倉大仏谷辰 令染筆了金剛資儀海二十九