真言僧儀海の足跡 十
十 川俣甘露寺と儀海
福島県川俣町は川俣盆地を中心に絹織物の町として発展してきた町である。町の歴史は縄文時代の遺跡が多く残されていることから、原始時代の一万年も前にさかのぼれる。古代末から中世にかけて小手保といわれた川俣町は、奈良興福寺の荘園として繁栄した。甘露寺には紀州(和歌山県)根来寺の高僧が住み、川股城跡のふもとからは大量の常滑焼きが見つかっている。川俣町の地名のおこりには二つの説がある。一つはむかし、川俣町・飯野町・月舘町などを含めた地域は「小手郷」と呼ばれていた。これは、養蚕・機織りの祖「小手子姫」の名前に由来するもので、川俣の地名も小手子姫の郷里、大和国(奈良県)高市郡川俣の里にちなんで名付けられたという説、もう一つは、町を流れる広瀬川(小手川)と富田村より流れる五十沢川が合流する地域(川股)の形状から、以来これを川股と称えたという説である。今から一四〇〇年の昔、崇俊天皇の妃、小手姫は政争によって蘇我馬子に連れ去られたわが子を探して川俣にたどりつき、養蚕に適していたこの地で、養蚕と糸紡ぎ、機械の技術を人々に教えたと伝えられている。
信夫郡は、郡そのままが信夫庄という荘園と化し、平泉藤原氏と同族の佐藤氏が福島市飯坂大鳥城に居舘した。これを信夫大庄司といったが、大庄司というのは郡司が荘官を兼ねる場合の称えとされる。
興福寺荘園小手保庄は興福寺門跡である大乗院の荘園台帳『三箇院家抄』に、「小手保庄陸奥国 五十日談義 関東右大将寄進」とある。興福寺僧が春日社頭で執行する五十日談義に奉仕する出勤料として、源頼朝から安堵されたことを示す史料である。保は多くに場合、国衙の管理下の在地有力者が中心となって開発された土地のことで、その開発者が保司となる。その土地は国衙領内であるが、私領的性格の濃い土地であったので、寄進契約などにより荘園化される例が多かった。小手保もこの場合のように、平泉藤原氏の寄進によって成立したのではなかろうかと想定される。『小手風土記』は「春日神社に、藤原秀衡奉納の太刀、佐藤庄司基冶の寄附之書があり、鶴沢鍛冶内に佐藤堂があって、基冶の持仏が安置され、本尊の後に大法坊円意とある」と記している。大法坊円位は、佐藤氏の同族西行法師の別名であるが真偽のほどはわからない。
小手保が興福寺の荘園になると、神宮寺を建立し、寺の御法神そして荘園鎮守として春日社が勧請されたのであろう。神宮寺について明治初期に渡辺弥七の描いた図によると、その境内は現川俣小学校の西半分を占め、中央に本堂、西に護摩堂、東に庫裡の三棟が何面して一線に並び、大黒天碑・元三大師堂・山王権現堂・地蔵堂があつた。『小手風土記』には、大日堂・薬師堂・十王堂と釈迦堂があつたが今はなしと記し、『神宮寺年中古事覚日記』(大円寺蔵)に五重塔があって本地五仏(釈迦・薬師・地蔵・観音・文殊)を安置してあったが兵火に焼け落ち、近世になって草塔一宇が盛土の上に建ってあったとしている。さらに、『信達二郡村誌』にも、明治初年まで五重塔の基壇礎石があり、廃瓦が山積してあったと記している。神宮寺は荘園領主興福寺が法相宗大本山であったから、当初は法相宗であったが興福寺が真言密教化すると、神宮寺も真言宗となったであろう(『川俣町史中世』)。
興福寺の密教化は西大寺叡尊の戒律復興と共に、法相宗の解脱上人貞慶(一一五五~一二一三)によってなお進められた。貞慶は「興福寺奏状」も起草している。興福寺と西大寺は本末の関係にある。文永・弘安の役後、寺社は朝廷・幕府の保護によりその勢力を増した。異敵の調伏に功があったという理由である。西大寺叡尊の弟子忍性も得宗北条氏と強い関係を築き全土に影響力を及ぼした。川俣の神宮寺も寺勢を増したであろう。頼瑜もこの地を訪れている可能性がある。儀海は頼縁がこの地にいて布教に努めたことにより川俣を訪れたのである。儀海は文保二年三月から元亨三年八月まで、甘露寺に留まっているようである。その書写の聖教類は膨大な量である。この寺の経済的背景が豊かでなくては成り立たないと思われる。甘露寺は次の真福寺文庫撮影目録の文書によれば神宮寺が該当するのではないだろうか。
文保二年(一三一八)三月廿日奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印頼―御本書写畢 三宝院末資儀海
文保二年(一三一八)三月廿九日於奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印御本書写了 三宝院末資儀海
文保二年(一三一八)四月四日於奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印御本書写畢 権律師儀海三十九
文保二年(一三一八)四月九日於奥州小手保河俣宿坊書写畢 金剛資儀海
文保弐年(一三一八)四月十六日於奥州陸国河俣宿坊書写畢 金剛資儀海卅九
文保二年(一三一八)四月廿三日奥州小手保河俣書写畢 金剛仏子儀海卅九
文保二年(一三一八)四月廿八日於奥州陸国小手保河俣宿坊書写畢 金剛仏子儀海
卅九
文保三年(一三一九)四月廿五日於奥州陸国小手保書写了是偏為高祖御遺命御手印縁起三巻修学稽古之隙閣他事令染筆畢 三宝院末資律師儀海満四0
文保二年(一三一八)五月五日於奥州陸国小手保河俣書写畢 金剛資□□(儀海)
文保二年(一三一八)五月十三日於奥州河俣書写畢 金剛資□□(儀海)卅九
文保二年(一三一八)五月十六日於奥州小手保河俣令染筆畢 権律師儀海卅九
文保二年(一三一八)季五月廿日於奥州小手保河俣書写畢 三宝院末資儀海
文保二年(一三一八)五月廿一日於奥州河俣書写畢 求菩提沙門儀海
文保二年(一三一八)季五月廿二日於奥州小手保河俣酉尅令染筆畢 金剛資儀海
文保二年(一三一八)五月二十四日於奥州河俣書写畢 儀海三十九
文保二年(一三一八)五月廿五日於奥州小手保河俣令染筆畢 金剛資儀海三十九才
文保二年(一三一八)五月廿八日於奥州小手保河俣先師法印頼―遺跡以御本書写畢 権
律師儀海卅九才 已上十八巻以御自筆本書写畢 儀海
文保二年(一三一八)十月四日於奥州小手河[ ] 儀海
文保三年(一三一九)七月十四日於奥州陸国小手保河俣先師法印以御本書写畢 三宝院末資儀海四十
文保三年(一三一九)閏七月五日於奥州河俣先師頼―法印以御本書写
文保三年(一三一九)閏七月七日於奥州陸国小手保河俣先師頼瑜法印以御本書写畢 金剛資儀海
元応元年(一三一九)閏七月六日於奥州小手保河俣以御本写畢 義(儀)海
元応元年(一三一九)閏七月九日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写了 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)閏七月十四日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜御自筆御本書写畢 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)閏七月十七日於奥州陸国小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写畢 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)閏七月廿八日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十
元応元年(一三一九)八月四日時正第二於奥州陸国小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写畢 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)八月五日時正第三於奥州小手保河俣先師法印頼瑜以御本已上十五巻書写功畢 金剛資儀海生年四十
元享二年(一三二一)四月十二日於奥州小手保河俣甘露寺先師法印以御本書写畢 金剛資儀海四十三
元享二年(一三一九)卯月十二日於奥州六陸国小手保河俣甘呂寺先師法印以御本書写畢 金剛資儀海四十三
元享二年(一三二一)五月一日於奥州小手保河俣坊以先師法印頼―御本書写畢 権律師儀海四十三
元亨二年(一三二一)五月八日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢 金剛資儀海
元亨二年(一三二一)閏五月十五日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢 金剛資儀海四十三
元享二年(一三二一)五月二十三日於奥州陸国小手保河俣甘呂寺先師法印頼瑜以御本書写畢権律師儀海四十三
元享二年(一三二一)六月十九日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢此抄物正和二年(一三一三)五月十三日於高野山金剛峯寺雖書写之失本之間重後書写之偏戸是為無上菩提興隆仏子也 権律師儀海四十三
元享二年(一三二一)八月七日於奥州小平保河俣書写畢 同十八令交合畢 金剛資儀海四十三
元亨三年(一三二二)八月十八日於奥州小手保河俣宿坊以先師法印頼瑜御本書写畢 権律師儀海四十四
福島県川俣町は川俣盆地を中心に絹織物の町として発展してきた町である。町の歴史は縄文時代の遺跡が多く残されていることから、原始時代の一万年も前にさかのぼれる。古代末から中世にかけて小手保といわれた川俣町は、奈良興福寺の荘園として繁栄した。甘露寺には紀州(和歌山県)根来寺の高僧が住み、川股城跡のふもとからは大量の常滑焼きが見つかっている。川俣町の地名のおこりには二つの説がある。一つはむかし、川俣町・飯野町・月舘町などを含めた地域は「小手郷」と呼ばれていた。これは、養蚕・機織りの祖「小手子姫」の名前に由来するもので、川俣の地名も小手子姫の郷里、大和国(奈良県)高市郡川俣の里にちなんで名付けられたという説、もう一つは、町を流れる広瀬川(小手川)と富田村より流れる五十沢川が合流する地域(川股)の形状から、以来これを川股と称えたという説である。今から一四〇〇年の昔、崇俊天皇の妃、小手姫は政争によって蘇我馬子に連れ去られたわが子を探して川俣にたどりつき、養蚕に適していたこの地で、養蚕と糸紡ぎ、機械の技術を人々に教えたと伝えられている。
信夫郡は、郡そのままが信夫庄という荘園と化し、平泉藤原氏と同族の佐藤氏が福島市飯坂大鳥城に居舘した。これを信夫大庄司といったが、大庄司というのは郡司が荘官を兼ねる場合の称えとされる。
興福寺荘園小手保庄は興福寺門跡である大乗院の荘園台帳『三箇院家抄』に、「小手保庄陸奥国 五十日談義 関東右大将寄進」とある。興福寺僧が春日社頭で執行する五十日談義に奉仕する出勤料として、源頼朝から安堵されたことを示す史料である。保は多くに場合、国衙の管理下の在地有力者が中心となって開発された土地のことで、その開発者が保司となる。その土地は国衙領内であるが、私領的性格の濃い土地であったので、寄進契約などにより荘園化される例が多かった。小手保もこの場合のように、平泉藤原氏の寄進によって成立したのではなかろうかと想定される。『小手風土記』は「春日神社に、藤原秀衡奉納の太刀、佐藤庄司基冶の寄附之書があり、鶴沢鍛冶内に佐藤堂があって、基冶の持仏が安置され、本尊の後に大法坊円意とある」と記している。大法坊円位は、佐藤氏の同族西行法師の別名であるが真偽のほどはわからない。
小手保が興福寺の荘園になると、神宮寺を建立し、寺の御法神そして荘園鎮守として春日社が勧請されたのであろう。神宮寺について明治初期に渡辺弥七の描いた図によると、その境内は現川俣小学校の西半分を占め、中央に本堂、西に護摩堂、東に庫裡の三棟が何面して一線に並び、大黒天碑・元三大師堂・山王権現堂・地蔵堂があつた。『小手風土記』には、大日堂・薬師堂・十王堂と釈迦堂があつたが今はなしと記し、『神宮寺年中古事覚日記』(大円寺蔵)に五重塔があって本地五仏(釈迦・薬師・地蔵・観音・文殊)を安置してあったが兵火に焼け落ち、近世になって草塔一宇が盛土の上に建ってあったとしている。さらに、『信達二郡村誌』にも、明治初年まで五重塔の基壇礎石があり、廃瓦が山積してあったと記している。神宮寺は荘園領主興福寺が法相宗大本山であったから、当初は法相宗であったが興福寺が真言密教化すると、神宮寺も真言宗となったであろう(『川俣町史中世』)。
興福寺の密教化は西大寺叡尊の戒律復興と共に、法相宗の解脱上人貞慶(一一五五~一二一三)によってなお進められた。貞慶は「興福寺奏状」も起草している。興福寺と西大寺は本末の関係にある。文永・弘安の役後、寺社は朝廷・幕府の保護によりその勢力を増した。異敵の調伏に功があったという理由である。西大寺叡尊の弟子忍性も得宗北条氏と強い関係を築き全土に影響力を及ぼした。川俣の神宮寺も寺勢を増したであろう。頼瑜もこの地を訪れている可能性がある。儀海は頼縁がこの地にいて布教に努めたことにより川俣を訪れたのである。儀海は文保二年三月から元亨三年八月まで、甘露寺に留まっているようである。その書写の聖教類は膨大な量である。この寺の経済的背景が豊かでなくては成り立たないと思われる。甘露寺は次の真福寺文庫撮影目録の文書によれば神宮寺が該当するのではないだろうか。
文保二年(一三一八)三月廿日奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印頼―御本書写畢 三宝院末資儀海
文保二年(一三一八)三月廿九日於奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印御本書写了 三宝院末資儀海
文保二年(一三一八)四月四日於奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印御本書写畢 権律師儀海三十九
文保二年(一三一八)四月九日於奥州小手保河俣宿坊書写畢 金剛資儀海
文保弐年(一三一八)四月十六日於奥州陸国河俣宿坊書写畢 金剛資儀海卅九
文保二年(一三一八)四月廿三日奥州小手保河俣書写畢 金剛仏子儀海卅九
文保二年(一三一八)四月廿八日於奥州陸国小手保河俣宿坊書写畢 金剛仏子儀海
卅九
文保三年(一三一九)四月廿五日於奥州陸国小手保書写了是偏為高祖御遺命御手印縁起三巻修学稽古之隙閣他事令染筆畢 三宝院末資律師儀海満四0
文保二年(一三一八)五月五日於奥州陸国小手保河俣書写畢 金剛資□□(儀海)
文保二年(一三一八)五月十三日於奥州河俣書写畢 金剛資□□(儀海)卅九
文保二年(一三一八)五月十六日於奥州小手保河俣令染筆畢 権律師儀海卅九
文保二年(一三一八)季五月廿日於奥州小手保河俣書写畢 三宝院末資儀海
文保二年(一三一八)五月廿一日於奥州河俣書写畢 求菩提沙門儀海
文保二年(一三一八)季五月廿二日於奥州小手保河俣酉尅令染筆畢 金剛資儀海
文保二年(一三一八)五月二十四日於奥州河俣書写畢 儀海三十九
文保二年(一三一八)五月廿五日於奥州小手保河俣令染筆畢 金剛資儀海三十九才
文保二年(一三一八)五月廿八日於奥州小手保河俣先師法印頼―遺跡以御本書写畢 権
律師儀海卅九才 已上十八巻以御自筆本書写畢 儀海
文保二年(一三一八)十月四日於奥州小手河[ ] 儀海
文保三年(一三一九)七月十四日於奥州陸国小手保河俣先師法印以御本書写畢 三宝院末資儀海四十
文保三年(一三一九)閏七月五日於奥州河俣先師頼―法印以御本書写
文保三年(一三一九)閏七月七日於奥州陸国小手保河俣先師頼瑜法印以御本書写畢 金剛資儀海
元応元年(一三一九)閏七月六日於奥州小手保河俣以御本写畢 義(儀)海
元応元年(一三一九)閏七月九日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写了 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)閏七月十四日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜御自筆御本書写畢 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)閏七月十七日於奥州陸国小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写畢 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)閏七月廿八日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十
元応元年(一三一九)八月四日時正第二於奥州陸国小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写畢 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)八月五日時正第三於奥州小手保河俣先師法印頼瑜以御本已上十五巻書写功畢 金剛資儀海生年四十
元享二年(一三二一)四月十二日於奥州小手保河俣甘露寺先師法印以御本書写畢 金剛資儀海四十三
元享二年(一三一九)卯月十二日於奥州六陸国小手保河俣甘呂寺先師法印以御本書写畢 金剛資儀海四十三
元享二年(一三二一)五月一日於奥州小手保河俣坊以先師法印頼―御本書写畢 権律師儀海四十三
元亨二年(一三二一)五月八日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢 金剛資儀海
元亨二年(一三二一)閏五月十五日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢 金剛資儀海四十三
元享二年(一三二一)五月二十三日於奥州陸国小手保河俣甘呂寺先師法印頼瑜以御本書写畢権律師儀海四十三
元享二年(一三二一)六月十九日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢此抄物正和二年(一三一三)五月十三日於高野山金剛峯寺雖書写之失本之間重後書写之偏戸是為無上菩提興隆仏子也 権律師儀海四十三
元享二年(一三二一)八月七日於奥州小平保河俣書写畢 同十八令交合畢 金剛資儀海四十三
元亨三年(一三二二)八月十八日於奥州小手保河俣宿坊以先師法印頼瑜御本書写畢 権律師儀海四十四