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地侍たちの戦国ー来住野一族ー

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2010年4月17日 (土)

地侍たちの戦国(2)-来住野一族ー

 『新編武蔵風土記稿 第六巻』雄山閣版71頁~74頁に舊家来住野徳兵衛・百姓八十八の記述が有る。
 来住野徳兵衛 徳兵衛は八王子の千人組の同心なり、家系は詳にせざれど、家に古き文書六通を蔵せり、これによれば天文以来戦争の間、来住野大炊介とてしばしば走廻の働ありし人の子孫なること知るべし、
 百姓八十八 来住野を氏とす、先祖は北条氏に仕へし士とのみ言傳へて詳なることを知らず、おもうにこれも来住野徳兵衛が一族にて、小田原北条に仕へしものなるべし、家に先祖が帯せしものなりとて太刀一振、差添一振を持傳へり、太刀は身の長二尺八寸五分、中心七寸一分、鎺本にて幅一寸三分、銘に長光の二字を鐫す、錆深くして焼刃のさましるべからず、差添は無名にて長一尺八寸二分、革柄にして鐡具はすべて赤銅斜子なり、鐔に廣道の二字を銘す、太刀の拵はみな失へり、
 
 来住野徳兵衛家に伝わる古文書六通のうちの一通に次のようなものがある(写し)。

    横地吉信書状(返書)
  
  來住野大炊助方・同名大蔵丞上下之儀承候、尤自前々
  大炊助方そうりやう筋之由候間、可爲其分候、委細承届
  候、將叉きさいち右馬助片夫の儀、急度御作買候て、彼
  方ニ御渡尤ニ候、指加之儀も、此間之半分可被爲候、何事
  も重而可申宣候、恐々謹言、
                    横地監物丞
  弘治三丁巳年                 吉信(花押)
    正月十八日 

          下高尾高岩齋
          上高尾修理進殿
                    御報

 北条氏照の重臣横地吉信が下高尾高岩齋・上高尾修理進に来住野大炊助の家臣来住野大蔵丞の着到について前々から大炊助が総領と決まっていること、また、私市右馬助の夫役についてはきっと作職を買い調えて右馬助に渡すことと半分を耕作させた(後北条氏家臣団人名事典)。
 弘治三年は北条氏照が十八歳の時、この年の七月に五日市の広徳寺領の山管理について、北条家の規定が出される(広徳寺文書)。前年五月に、相模国座間郷の鈴鹿大明神の再建棟札に「北条藤菊丸」と見え、北条氏照の初名との説が有力である。来住野(きしの)氏は武蔵国多摩郡戸倉村(東・あきる野市)の地侍。高尾氏は来住野氏の一族かと思われるが不明。東京都あきる野市大悲願寺の過去帳には天正十八年六月二十三日の八王子城の落城に際して、高尾近江・高尾雪齋・高尾備前・高尾弥八郎・高尾弥九郎等の多くが討死した。
【横地吉信】監物丞。北条氏康、のち武蔵国滝山城(東・八王子市)城主北条氏照の家臣。氏照の奉者・家老を務める。永禄二年の二月の『役帳』御馬廻衆に横地監物丞と見え、「八貫文 西郡願成寺分(神・小田原市)」を知行役高とし、他に二〇貫文の蔵出を支給された。
【来住野大炊助】某康明の家臣、のち武蔵国滝山城主北条氏照の家臣。天文十三年十二月八日某康明感状写(武州文書二五七)では上野国で「ほうさま」に従って働き忠節を認め大炊助に日影・落合(東・あきる野市乙津)を知行として宛行われる。永禄九年六月二十一日北条氏照朱印状写(同前九五六)では知行高十一貫文に対して軍役着到が確定し長柄鑓一本の足軽一人と兜に大立物(前立)を付けた大炊助自身(騎馬武者カ)が引率する事とある。鑓は竹鑓は禁止され金銀の箔で家紋を押し、長さ六~七寸のニ重にした策紙を付ける事、鑓持の足軽には革の陣笠を被らせ、武器は二〇歳より若い者に持たせてはならない。立物の無い兜は違法と命じた。
【来住野大蔵丞】横地吉信書状以外は不明。百姓八十八の先祖か
【きさいち右馬助】私市党の流れを汲み、武州南一揆の有力な構成員であった。来住野氏とは縁戚関係であろう。
【下高尾高岩齋】横地吉信書状以外は不明
【上高尾修理進】横地吉信書状以外は不明

 *このブログ作成にあたっては五日市古文書研究会の清水菊子氏に多くのご教授を頂いた、あらためて感謝したい。


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