真言僧儀海の足跡 五
五 御内人と平頼綱
平頼綱は、鎌倉時代後期の十四世紀後半の永仁元年(一二九三)に幕府内で強大な実権を握った。その立場は、執権を継承する北条氏の本家である得宗家の被官にすぎなかった。いわゆる御内人であり、その筆頭であった。北条泰時〔寿永二年(一一八三)~仁冶三年(一二四二)六十歳〕のころからしだいに実力をつけた御内人は、経時〔元仁元年(一二二四)~寛元四年(一二四六)二十三歳〕・時頼〔安貞元年(一二二七)~弘長三年(一二六三)三十七歳〕を経て時宗〔建長三年(一二五一)~弘安七年(一二八四)三十四歳〕の代になると、御家人に対抗し得る勢力となった。御家人は将軍の直接の家来であり、北条氏を除けば、そのころは安達泰盛が代表格であった。この時代の内管領が平頼綱である。弘安七年(一二八四)に時宗が亡くなった後、執権は子の貞時〔文永八年(一二七一)~応長元年(一三一一)四十一歳〕が継いだ。安達泰盛は平頼綱との争いに敗れて滅び去った。ここで平頼綱が少年の貞時を擁して独裁的な権力を振るう。しかし九年後の正応六年(一二九三)、貞時のために滅ぼされた。頼綱はあまりに独裁的に政治を左右したため、当時の貴族の日記に「一向執政し、諸人恐懼のほか他事なく候」(『実躬卿記』)とあるように諸人に恐れられたという。その結果、現代でも、頼綱の政治は恐怖政治であったとされるがどうであろうか。一方、平頼綱は日蓮との交渉が多くしられている。鎌倉で『法華教』の教えを説く日蓮を逮捕し、佐渡国に流した直接の責任者が頼綱である。三年後に許されて鎌倉に帰った日蓮に、蒙古襲来の時期の予測を、幕府の公的な代表者としてたずねたのも頼綱であった。頼綱は侍所の所司という職にあり、政治的な問題として日蓮を扱ったのであるが、信仰の問題が色濃くかかわっているのは明らかである。さらに頼綱は、横曽根門徒に経済的援助をして、親鸞の主著である『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』を出版させている。横曽根は下総国言飯沼地方にあり、頼綱に直接結びついていた。兄宗綱をしのいで権力を振るった頼綱の次男助宗〔文永四年(一二六七)~永仁元年(一二九三)二十七歳〕は飯沼を称し、飯沼地方の領主であったと考えられるからである(今野雅晴「平頼綱と『教行信証』の出版」)。頼綱は嫡子宗綱よりも、この助宗に目をかけていた。気ままに育った助宗は百姓たちには幼いころから残酷であり、人をはばからぬ専横・驕慢なところはあったが、京の女性にはやさしく、和歌もよく解したのである。
北条時宗のあとの得宗北条貞時の成人にともない、平頼綱は貞時権力の強化にとっては障害となった。頼綱の嫡男宗綱は「頼綱が次男の飯沼助宗を将軍に立てようとしている」と密告し、正応六年(一二九三)四月二十二日、北条貞時は平頼綱・助宗父子を誅殺した。
いわゆる平禅門の乱である。頼綱の助宗偏愛に端を発していようが、得宗北条貞時の側にもそれを利用して平頼綱をおさえようとした面もあったろう。平宗綱は佐渡に流され、赦免されて内管領になったようであるが、のちまた罪ありとして、上総に配流されている。こうして得宗被官として権勢を振るった平氏の頼綱系にかわって光綱系の長崎氏が得宗被官の代表者となる。鎌倉末期の御内政治の主導権を握ったのは、光綱の子高綱(入道円喜)である。(『川添昭二』)
正応六年(一二九三)八月五日、朝廷は永仁と改元した。改元の理由は、四月十三日の「関東大地震」に加えて、この年の六月~八月の大旱魃と前年二月十一日の「木星が軒轅女主〈けんえんじょしゅ〉星(しし座のα星)を犯す」(『伏見院御記』)という天変であつた。(『続史愚抄』『一大要記』)。この関東大地震は、治承元年(一一七七)に畿内を襲った大地震(東大寺の鐘と大仏の螺髪〈らほつ〉の落下)以来のものといわれ、鎌倉の堂舎や人宅がことごとく転倒し、幾千人もの死者が出て、建長寺が倒壊炎上した。由比ケ浜の鳥居付近では、一四〇人もの死体が転がっていたと、当時鎌倉に在住していた京都醍醐寺の僧親玄僧正〔建長元年(一二四九)~応長元年(一三一一)四十一歳〕が書き遺している(『親玄僧正日記』)。また、大地震と山崩れで人家が倒壊し、関東全域で二万三〇三四人の死者が出て、大慈寺は倒壊し、建長寺は炎上したとされている(『武家年代記裏書』)。さらに、その後二十一日まで、強弱折り交ぜての揺り返し(余震)が続き(その後、断続的になる)、人々の不安が高まり、寺社では愛染王護摩や大北斗法の読経などが行われた。(『親玄僧正日記』)。この地震は、推定マグニチュード七・九の極浅発(直下型)地震とかんがえられ、震源地は相模の陸地(丹沢付近か)と推定され、相模西北部を震源としマグニチュード七・九の大正十二年(一九二三)の関東大地震に匹敵する大地震と推定される。ところが、この大地震直後の二十二日に、幕府内の大事件が発生する。平禅門(平頼綱)の乱である。貞時は謀反を理由に武蔵七郎(北条一門か)を討手にさしむけ、経師ヶ谷・葛西ヶ谷などの平頼綱とその子飯沼助宗の屋敷を次々に襲撃させ、頼綱・助宗をはじめとして九三人を殺害した。この中には、頼綱邸で乳母に預けられていたと考えられる貞時の娘もいた。この事件は内管領平頼綱より執権の北条貞時が実権を奪取し、得宗専制を確立する契機となったものとして評価されているが、前記の地震災害と密接に関連した政治事件として興味深いものがある。当時、この乱は、大地震と並んで衝撃的に受け止められ、頼綱の専横と驕りが、滅亡を招いたと評されている。貞時は、母〔覚山尼、建長四年(一二五二)~嘉元三年(一三〇五)五十五歳〕も妻も安達氏の出身で、頼綱に滅ぼされた安達氏に同情を抱きつつ成人し、頼綱の専横を憎み奪権の機会をうかがっていたことは想像に難くないが、事件の発端は大地震の世情不安の中で偶発的に発生したものと考えられる。大地震の発生と同時に、権勢者平頼綱は身の危険を感じて屋敷内の防備を固め、それが執権北条貞時の目に謀反準備と映じ、世情不安のなかで飛び交う情報がこれを増幅した。一種の集団ヒステリー状況のなかの極度の疑心暗鬼が、貞時をした頼綱誅殺の先制的軍事発動に走らせたと考えられる(峰岸純夫「永仁元年関東大地震と平禅門の乱」『中世 災害・戦乱の社会史』)。
平頼綱は、鎌倉時代後期の十四世紀後半の永仁元年(一二九三)に幕府内で強大な実権を握った。その立場は、執権を継承する北条氏の本家である得宗家の被官にすぎなかった。いわゆる御内人であり、その筆頭であった。北条泰時〔寿永二年(一一八三)~仁冶三年(一二四二)六十歳〕のころからしだいに実力をつけた御内人は、経時〔元仁元年(一二二四)~寛元四年(一二四六)二十三歳〕・時頼〔安貞元年(一二二七)~弘長三年(一二六三)三十七歳〕を経て時宗〔建長三年(一二五一)~弘安七年(一二八四)三十四歳〕の代になると、御家人に対抗し得る勢力となった。御家人は将軍の直接の家来であり、北条氏を除けば、そのころは安達泰盛が代表格であった。この時代の内管領が平頼綱である。弘安七年(一二八四)に時宗が亡くなった後、執権は子の貞時〔文永八年(一二七一)~応長元年(一三一一)四十一歳〕が継いだ。安達泰盛は平頼綱との争いに敗れて滅び去った。ここで平頼綱が少年の貞時を擁して独裁的な権力を振るう。しかし九年後の正応六年(一二九三)、貞時のために滅ぼされた。頼綱はあまりに独裁的に政治を左右したため、当時の貴族の日記に「一向執政し、諸人恐懼のほか他事なく候」(『実躬卿記』)とあるように諸人に恐れられたという。その結果、現代でも、頼綱の政治は恐怖政治であったとされるがどうであろうか。一方、平頼綱は日蓮との交渉が多くしられている。鎌倉で『法華教』の教えを説く日蓮を逮捕し、佐渡国に流した直接の責任者が頼綱である。三年後に許されて鎌倉に帰った日蓮に、蒙古襲来の時期の予測を、幕府の公的な代表者としてたずねたのも頼綱であった。頼綱は侍所の所司という職にあり、政治的な問題として日蓮を扱ったのであるが、信仰の問題が色濃くかかわっているのは明らかである。さらに頼綱は、横曽根門徒に経済的援助をして、親鸞の主著である『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』を出版させている。横曽根は下総国言飯沼地方にあり、頼綱に直接結びついていた。兄宗綱をしのいで権力を振るった頼綱の次男助宗〔文永四年(一二六七)~永仁元年(一二九三)二十七歳〕は飯沼を称し、飯沼地方の領主であったと考えられるからである(今野雅晴「平頼綱と『教行信証』の出版」)。頼綱は嫡子宗綱よりも、この助宗に目をかけていた。気ままに育った助宗は百姓たちには幼いころから残酷であり、人をはばからぬ専横・驕慢なところはあったが、京の女性にはやさしく、和歌もよく解したのである。
北条時宗のあとの得宗北条貞時の成人にともない、平頼綱は貞時権力の強化にとっては障害となった。頼綱の嫡男宗綱は「頼綱が次男の飯沼助宗を将軍に立てようとしている」と密告し、正応六年(一二九三)四月二十二日、北条貞時は平頼綱・助宗父子を誅殺した。
いわゆる平禅門の乱である。頼綱の助宗偏愛に端を発していようが、得宗北条貞時の側にもそれを利用して平頼綱をおさえようとした面もあったろう。平宗綱は佐渡に流され、赦免されて内管領になったようであるが、のちまた罪ありとして、上総に配流されている。こうして得宗被官として権勢を振るった平氏の頼綱系にかわって光綱系の長崎氏が得宗被官の代表者となる。鎌倉末期の御内政治の主導権を握ったのは、光綱の子高綱(入道円喜)である。(『川添昭二』)
正応六年(一二九三)八月五日、朝廷は永仁と改元した。改元の理由は、四月十三日の「関東大地震」に加えて、この年の六月~八月の大旱魃と前年二月十一日の「木星が軒轅女主〈けんえんじょしゅ〉星(しし座のα星)を犯す」(『伏見院御記』)という天変であつた。(『続史愚抄』『一大要記』)。この関東大地震は、治承元年(一一七七)に畿内を襲った大地震(東大寺の鐘と大仏の螺髪〈らほつ〉の落下)以来のものといわれ、鎌倉の堂舎や人宅がことごとく転倒し、幾千人もの死者が出て、建長寺が倒壊炎上した。由比ケ浜の鳥居付近では、一四〇人もの死体が転がっていたと、当時鎌倉に在住していた京都醍醐寺の僧親玄僧正〔建長元年(一二四九)~応長元年(一三一一)四十一歳〕が書き遺している(『親玄僧正日記』)。また、大地震と山崩れで人家が倒壊し、関東全域で二万三〇三四人の死者が出て、大慈寺は倒壊し、建長寺は炎上したとされている(『武家年代記裏書』)。さらに、その後二十一日まで、強弱折り交ぜての揺り返し(余震)が続き(その後、断続的になる)、人々の不安が高まり、寺社では愛染王護摩や大北斗法の読経などが行われた。(『親玄僧正日記』)。この地震は、推定マグニチュード七・九の極浅発(直下型)地震とかんがえられ、震源地は相模の陸地(丹沢付近か)と推定され、相模西北部を震源としマグニチュード七・九の大正十二年(一九二三)の関東大地震に匹敵する大地震と推定される。ところが、この大地震直後の二十二日に、幕府内の大事件が発生する。平禅門(平頼綱)の乱である。貞時は謀反を理由に武蔵七郎(北条一門か)を討手にさしむけ、経師ヶ谷・葛西ヶ谷などの平頼綱とその子飯沼助宗の屋敷を次々に襲撃させ、頼綱・助宗をはじめとして九三人を殺害した。この中には、頼綱邸で乳母に預けられていたと考えられる貞時の娘もいた。この事件は内管領平頼綱より執権の北条貞時が実権を奪取し、得宗専制を確立する契機となったものとして評価されているが、前記の地震災害と密接に関連した政治事件として興味深いものがある。当時、この乱は、大地震と並んで衝撃的に受け止められ、頼綱の専横と驕りが、滅亡を招いたと評されている。貞時は、母〔覚山尼、建長四年(一二五二)~嘉元三年(一三〇五)五十五歳〕も妻も安達氏の出身で、頼綱に滅ぼされた安達氏に同情を抱きつつ成人し、頼綱の専横を憎み奪権の機会をうかがっていたことは想像に難くないが、事件の発端は大地震の世情不安の中で偶発的に発生したものと考えられる。大地震の発生と同時に、権勢者平頼綱は身の危険を感じて屋敷内の防備を固め、それが執権北条貞時の目に謀反準備と映じ、世情不安のなかで飛び交う情報がこれを増幅した。一種の集団ヒステリー状況のなかの極度の疑心暗鬼が、貞時をした頼綱誅殺の先制的軍事発動に走らせたと考えられる(峰岸純夫「永仁元年関東大地震と平禅門の乱」『中世 災害・戦乱の社会史』)。