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戦国残照

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2009年8月 8日 (土)

戦国残照

伊勢新九郎氏茂入道早雲(あきる野市大悲願寺過去帳)は駿河国守護の今川義忠の正室であった妹の北川殿を補佐して今川家の内粉を調停し、興国城主となり関東への足懸かりをつくり堀越公方を滅ぼし、小田原を手に入れたのは今川氏が室町幕府の関東への抑えとしての軍事行動であったように思われる。早雲の出自は唯の素浪人とされていたが、現在は幕府政所執事伊勢氏の一族が岡山県井原市東方の高越城を拠点にした伊勢盛定の子としてうまれ、青年時代をこの地で過ごし京に登り足利義視に仕えていたというのが定説となっている。早雲の夢は「享徳の大乱」以来の関東の戦乱を鎮め、ゆくゆくは上杉氏に代わって関東管領として古河公方を補佐することであつたろう。子の氏綱が北条姓を名乗ったのもそのためであろう。北条氏は鎌倉八幡宮の再建にも力を注いだ。氏康・氏政・氏直と五代にわたり百年を通じて今川家との間には友好関係が続いた。今川家が滅びると氏真を受け入れている。
 朝倉氏が百年で滅びた過程と北条氏もよく似たところがあるように私は思っている。織田家との間は比較的に良好であったが秀吉とのパイプがなかった。氏政は時代に適応できなかった。それは、弟の氏照と子の氏直の家臣団の対立を調整できなかったことであろう。氏照は古河公方の権威を背景に北関東に進出してゆき、北条家のナンバー2となり、氏照は陸奥守を正式に受領している。今や、北条氏の研究はこの氏照を中心となっている観がある。
 天正の初年の北関東の戦いは佐竹氏側の多賀谷氏と北条氏側の岡見氏との代理戦争であった。小田氏に替って竜ヶ崎地方を抑えた岡見氏はもともと小田氏の一族であった。天正六年頃、この岡見氏の消息を知る氏照の書状がのこされている(岡見文書)。やがて岡見氏は北条氏の家臣化してしまい、北条氏が滅ぶと結城秀康に仕える。結城秀康に仕えたのはこのほかにも、梶原美濃・由木左衛門尉景盛・大石照基(松田松庵)・小田氏冶・守冶親子がいる。岡見文書は江戸時代に整理せれたようで、その中に岡見氏系図がある。そこに、次のような記載がある。

 ○某 岡見五郎左衛門(常陸国河内郡牛久新地城主、子孫新地ニアリト云、)ー女子 常陸国河内郡岩崎城主 大石四郎左衛門某妻・女子 小田原北条家ノ士、大藤兵部某妻

 ○朝冶 小田源太郎、肥後、亨禄二年己丑年小田城内ニテ生ル、故有テ母トトモニ小田ヲ出テ、相州小田原ニ走リ、北条家ニ奇食ス、天正十年壬午十月十三日卒、五十三歳ト云、-朝家 小田源太左衛門、父ト俱ニ北条陸奥守氏照ニ属ス、北条家滅亡後、松平薩摩守忠吉卿ニ仕、卿逝去ノ後、元和四年中山備前守信吉ノ薦ニテ、水戸頼房卿ヘ奉仕、子孫水戸ニアリ、

 下山冶久編『後北条氏家臣団人名事典』に次のようにある。
 おだの〔小田野〕 武蔵国多摩郡別所村(東・八王子市)など小田野地区を本貫とした地侍。別所の教福寺が菩提寺。『新編武蔵』多摩郡別所村教福寺の小田野肥後守定久墓の条には「八王子城主北条氏照が家人なり、流浪の後当所に住し、元和二年七月六日寂せり、法諡を白月斎葉山道秋と云、その子源太左衛門は当寺を起立せしよし、この人後に水戸殿に仕え野をのぞき小田と称せり」とみえ、村内の稲荷社は小田野源太左衛門の鎮守。

 小田野源太左衛門が小田氏となった背景には、もともと小田氏の出自であったことによると思われる。水戸家の附家老中山氏には多くの氏照の旧臣が仕え八王子衆とも呼ばれていたが、何故か禄を離れている人々がいる。よほどの事情があったのであろう今後の研究課題としたい。
 


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