2009年5月 5日 (火)
清水太郎の歴史交友録
私の郷土の尊敬する人々のうちで、三人の名前を挙げさせていただくと、まず八王子市元八王子村の時代に活躍されていた村田光彦翁である。それは私の中学時代であったが「郷土史の事は村田のおじいさんにきけばよい」と級友に言われていた。其のころ、私の疑問は北条氏照が次男であるのに、「何故切腹させられたか」ということであった。昭和36年頃のことである。今ほど北条氏照について研究されていなかった時代であった。その村田光彦翁と共に、多摩文化を主宰されていた、鈴木竜二氏である。残念なことにこのお二人には生前にであうことはできななかった。そして、縣敏夫氏は現在73歳でお元気に活躍されている。縣敏夫氏の業績はこれから益々評価され続けられてゆくことと思う。研究者の間ではつとに高名である。板碑については、故石井真之助氏に教えを受けられた。石井真之助氏は私の高校の英語の先生であつた。その当時、石井先生の英語の発音は独特で私たち生徒には不評であった。村田光彦翁・鈴木竜二・縣敏夫のこの三人が私の大切な人である。西海賢二博士は娘の大学の教授で、その縁で知り合えることができたが、そのきっかけをつくっていただいたのも縣敏夫先生である。元八王子歴史研究会に所属していた縁で、樋口豊治・沼謙吉・前川實・歴史作家の伊東潤氏とも知り合えた。また、年賀状を差し上げている橋本豊治画伯・峰岸純夫先生がおられる。これらの人々はインターネットのWeb検索でその業績がを知ることができる。元八王子歴史研究会の人々には私の研究を理解して、その機会を与えていただいた。私の高校の後輩で古本屋「さわやか記念文庫」を営んでいる中野悦男氏もいる。中学時代の社会科の先生に小作寿郎先生がいた。私は授業の時に,地域の古い石碑の場所などを記して、提出していたそれを先生は評価して良い点を下さった。今も飾らずに羽村市で「隣人」の発行に携わっている。私が今郷土史の研究に携わっているを喜んでおられるのが小作寿郎先生である。そして、最後に妻の洋子と娘の里美に「自分勝手な私を支えてくれてあるがとう」の感謝を言いたい。プライバシーの問題があるので、このブログに名前を挙げた人々には改めて他意はないことを付け加えお許しを頂きたい。
清水太郎の歴史交友録
私の郷土の尊敬する人々のうちで、三人の名前を挙げさせていただくと、まず八王子市元八王子村の時代に活躍されていた村田光彦翁である。それは私の中学時代であったが「郷土史の事は村田のおじいさんにきけばよい」と級友に言われていた。其のころ、私の疑問は北条氏照が次男であるのに、「何故切腹させられたか」ということであった。昭和36年頃のことである。今ほど北条氏照について研究されていなかった時代であった。その村田光彦翁と共に、多摩文化を主宰されていた、鈴木竜二氏である。残念なことにこのお二人には生前にであうことはできななかった。そして、縣敏夫氏は現在73歳でお元気に活躍されている。縣敏夫氏の業績はこれから益々評価され続けられてゆくことと思う。研究者の間ではつとに高名である。板碑については、故石井真之助氏に教えを受けられた。石井真之助氏は私の高校の英語の先生であつた。その当時、石井先生の英語の発音は独特で私たち生徒には不評であった。村田光彦翁・鈴木竜二・縣敏夫のこの三人が私の大切な人である。西海賢二博士は娘の大学の教授で、その縁で知り合えることができたが、そのきっかけをつくっていただいたのも縣敏夫先生である。元八王子歴史研究会に所属していた縁で、樋口豊治・沼謙吉・前川實・歴史作家の伊東潤氏とも知り合えた。また、年賀状を差し上げている橋本豊治画伯・峰岸純夫先生がおられる。これらの人々はインターネットのWeb検索でその業績がを知ることができる。元八王子歴史研究会の人々には私の研究を理解して、その機会を与えていただいた。私の高校の後輩で古本屋「さわやか記念文庫」を営んでいる中野悦男氏もいる。中学時代の社会科の先生に小作寿郎先生がいた。私は授業の時に,地域の古い石碑の場所などを記して、提出していたそれを先生は評価して良い点を下さった。今も飾らずに羽村市で「隣人」の発行に携わっている。私が今郷土史の研究に携わっているを喜んでおられるのが小作寿郎先生である。そして、最後に妻の洋子と娘の里美に「自分勝手な私を支えてくれてあるがとう」の感謝を言いたい。プライバシーの問題があるので、このブログに名前を挙げた人々には改めて他意はないことを付け加えお許しを頂きたい。