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真言僧儀海の足跡 三

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真言僧儀海の足跡 三

 三  鎌倉新仏教の開祖たち

 筆者が高校生の時代であった、昭和四十年代の社会史の教科書では鎌倉仏教の成立について、堕落した平安仏教に代わって登場した仏教であるというのが定義で、当時の主流であると教えられた。開祖達は易行を主張し、人々もそれに同調して鎌倉仏教を信仰していたとされていた。しかし、現在の定義では鎌倉新仏教は異端であり、当時の主流は南都北嶺の顕密勢力であったとされている(黒田俊男の顕密体制論)。密教でも易行化が進められて、真言宗に阿弥陀信仰が取り入れられた新しい流れが、覚鑁を祖とする近世の新義真言宗である。儀海はその流れの中にいた。儀海が生まれた、弘安二年(一二七四)には異端と弾圧された鎌倉新仏教の開祖たちの多くが没していた。開祖たちは仏法を人々に伝え広めるための苦難を乗り越えて生涯を送ったのである。現在の私たちの日常生活に接している仏教は鎌倉新仏教である。しかし、その多くが葬式仏教になってしまっていることに祖師たちはどのように思っているであろうか。

鎌倉仏教 日本の仏教史のなかで鎌倉時代の仏教を特別視するのは近代以降のことである。特に、禅や浄土系の諸宗、日蓮宗など、この時代に端を発する諸宗や、その祖師の活動を〈鎌倉新仏教〉と呼んで、日本の仏教史の中でも特別優れたものとして評価することは、戦前から戦後にかけて長い間常識視されてきた。その特徴として、民衆中心であること、実践方法の単純化、宗教哲学的な深化、政治権力に対して宗教の自立性を主張したことなどが挙げられた。それに対して、南都北嶺の仏教や真言密教などは旧仏教とされ、新仏教の活動を阻害したり敵対したりする勢力と見なされた。このような見方は、一九七〇年代に黒田俊雄によって顕密体制論が提示されて大きく変わることになった。黒田は、当時の仏教界の主流はあくまで従来旧仏教といわれてきたものであり、これを顕密仏教と呼び、それにたいして、いわゆる新仏教は当時極めて勢力の小さな異端派に過ぎなかったと主張した。黒田以後、いわゆる旧仏教に関する研究が急速に進められるようになり、従来新仏教の特徴とさてきた民衆中心の教化や実践方法の単純化は旧仏教にも見られることが明らかにされ、新仏教と旧仏教という二分化が疑問視されるようになってきた。新仏教という用語を用いる場合でも、永尊の律宗教団を含むなど、新たな見直しが提案されている。さらに言えば、鎌倉時代の仏教を特別視することにも必然性はなく、鎌倉仏教も他の時代の仏教の中で相対化して理解されなければならなくなってきている。

法然 長承二年(一一三三)~建暦二年(一二一二)浄土宗の開祖。名は源空。法然は号。父は漆間時国。美作稲岡荘に生まれる。永冶元年(一一四一)荘園支配をめぐる内紛で討たれた父の遺言により九歳で僧となることを決意,十五歳で比叡山延暦寺に入寺,受戒する。十八歳で遁世して西塔黒谷に住み,天台の円頓戒を相承したが,『往生要集』を読んで以降しだいに浄土教に傾斜し,安元元年(一一七五)四十三歳で専修念仏へ転入した。以後,比叡山を下りて東山大谷など京都の所々に住み,武士・庶民だけでなく九条兼実など貴族の帰依をうけた。建久九年(一一九八)専修念仏を顕密仏教と別立することの意義を説いた『選択本願念仏集』を著した。法然の専修念仏は,念仏は阿弥陀が選択した唯一の往生行であるので,念仏以外では往生できないとして所業往生を否定し,念仏以外の造像起塔などの雑修雑信仰の宗教的価値を剥奪して,此岸におけるすべての人間の宗教的平等を説いた点に意義がある。このため延暦寺や興福寺など顕密寺院は法然の専修念仏を偏執として弾圧を要求,建永二年(一二〇七)二月,後鳥羽院は専修念仏禁止を発令,法然の弟子,安楽・遵西が死罪に,法然は同年中には赦免されて摂津国勝尾寺に住し,さらに建暦元年(一二一一)京都への帰還が許されたが,翌年八十歳で死去した。

明庵栄西 永冶元年(一一四一)~建保三年(一二一五)鎌倉前期の僧。日本臨済宗の開祖。栄西は「ようさい」とも読み,千光法師・葉上房とも称す。備中の人。平治元年(一一五九)比叡山の天台教学を学ぶ。仁安三年(一一六八)入宋。重源に会い,ともに天台山万年寺に登り,帰国。文治三年(一一八七)再度入宋。インド行きを試みるがはたさず,帰国の船に乗ったが,温州瑞安県に漂着。天台山万年寺の虚庵懐敞に臨済禅を学び,伽藍の補修にも尽力。虚庵の法をついで建久二年(一一九一)帰国し,翌年宋の天童山に「千仏閣」の修造用材を送る。建久五年(一一九五)京都で布教するが,比叡山州都の妨害にあう。翌年博多に聖福寺を建立。九条兼実之ために『興禅護国論』を著す。正冶元年(一一九九)鎌倉にて北条政子の帰依をうけ,翌年正月,源頼朝の一周忌仏事をつとめ,寿福寺を開山。建仁二年(一二〇二)京都に台(天台)・密(真言)・禅三宗兼学の建仁寺を建立。この間『日本仏教中興願文』を著し,戒律の厳守を主張。建永元年(一二〇六)重源のあとの東大寺大勧進職となり,建保元年(一二一三)権僧正となった。著書に『出家大綱』『喫茶養生記』など,墨跡に福岡市誓願寺蔵『盂蘭盆縁起』(国宝)がある。

親鸞 承安三年(一一七三)~弘長二年(一二六二)鎌倉時代の僧。浄土真宗の開祖。父は日野有範。九歳のとき慈円のもとで出家し,範宴と号したという。比叡山で堂衆として修業した後,夢告により建仁元年(一二〇一)法然の門に入り専修念仏に帰依,綽空と号す。承元元年(一二〇七)比叡山や興福寺の衆徒の念仏禁止要求をうけた朝廷の念仏弾圧により,藤井善信の俗名をあたえられて越後国国府に流罪となる。配流後,愚禿と称す。建暦元年(一二一一)赦免されたが同国にとどまり,健保二年(一二一四)妻恵心尼らを伴い関東への布教に旅立つ。以後,二〇年間にわたる布教に専念。この間,下野高田の真仏・顕智,下総横曽根の性真,同国蕗北の善信,常陸鹿島の順真,同国河和田の唯円,奥州大網の如信などを中心とする初期真宗教団が関東各地で成立した。この東国在住中に浄土真宗の根本教義を説く『教行信証』を著し,帰京後たびたび手を加えて完成をみた。帰京の年や恵心尼の関東同伴については諸説あり,定かではない。京都では『三怗和讃』『愚禿鈔』などの著述により門弟の教化につとめた。一二六二年十一月二十八日三条富小路善法坊で没し大谷に納骨される。のち東国門徒によって墓所が改修され,大谷本廟が営まれ,のち本願寺となる。弟子唯円が著した『歎異鈔』が,悪人正機説や他力本願など,親鸞の信仰やことばを伝えている。

道元 正冶二年(一二〇〇)~建長五年(一二五三)鎌倉前期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。号は希玄。父は源通親(一説に通具)母は藤原基房の娘。建暦二年(一二一二)出家して比叡山横川の首楞厳院の般若谷千光坊にとどまり,健保元年(一二一三)天台座主公円について得度,仏法道元と名のった。一二一八年建仁寺に赴き,明庵栄西門下の仏樹坊明全に禅を学んだ。貞応二年(一二二三)名全らと入宋。天童山の長翁如淨の法をついで,安貞元年(一二二七)帰国。しばらく建仁寺に身を寄せたが,人々に坐禅を強固に勧めたため,比叡山の衆徒に追われ建仁寺を出て,寛喜元年(一二二九)京都深草の安養院に住した。ついで天福元年(一二三三)藤原教家・正覚尼らの勧めで山城に7興聖寺を開き,只管打坐(ただひたすら打ち座る)・修証一如(修行と悟りはひ等しい)の禅をとなえた。寛元元年(一二四三)波多野義重の招きで越前志比荘に移り,宝治元年(一二四七)大仏寺を永平寺と改める。この時からい一段ときびしい修行に励み,当初となえた在家成仏や女人成仏よりも,出家至上主義に傾いていく。同年北条時頼の招きにより鎌倉に赴くが,翌年永平寺に帰り,やがて永平寺を孤雲壊奘に譲り,京都で死去した。でしはほかに詮慧・僧海・寂光などがいる。孝明天皇から仏性伝東国師,明治天皇から承陽大師の称号を贈られた。著書は『正法眼蔵』『普勧坐禅儀』『永平清規』(『典座教訓』をおさめる)『学童用心集』『宝慶記など。

日蓮 貞応元年(一二二二)~弘安五年(一二八二)鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。号は蓮長。安房の人。父母は荘官層といわれる。十二歳にして近郊の天台寺院清澄寺に入る。のち鎌倉・京畿への留学を経て法華至上主義を確信。建長五年(一二五三)同寺にて立宗を宣言。以後鎌倉を中心に法華信仰を宣楊するとともに,文応元年(一二六〇)幕府に『立正安国論』を提出し,安国実現のために

念仏禁止をもとめた。しかし,そのはげしい他宗批判は既成教団の反発を招き,幕府からも危険視されて一二六一年伊豆流罪,一二七一年佐渡流罪など,様々な法難をよびおこした。日蓮はそれらの受難の体験を『法華経』普及のエネルギーに転化させた。佐渡で著した『開目鈔』と『観心本尊抄』は,その新たな信仰世界の確立を示すものであった。文永一一年(一二七四)佐渡流罪赦免後,鎌倉で平頼綱と会見。蒙古襲来を防ぐための密教祈祷の停止を求めるが,いれられず,甲斐身延に入山。その後山中にとどまり,『撰時抄』『報恩抄』などの重要著作の執筆,弟子の育成,手紙を通じての信徒の激励などに専念した。一二八二年療養のため常陸の温泉に向かったが,健康悪化のため武蔵の池上宗仲宅で目的を断念。日昭ら六人を本弟子(六老師)に指定して死去した。墓所は遺言により身延に設けられ,当初で本弟子が輪番で守った。大正一一年(一九九二)立正大師号を贈られる。

一遍 延応元年(一二三九)~正応二年(一二八九)鎌倉中期の僧。時宗の開祖。幼名松寿丸,法名髄縁・智真。諡号円照大師・証誠大師。父は河野通広。十歳で出家して浄土宗西山派の聖達や華台に学び,信濃善光寺参籠や伊予窪寺での修業を経て,「十一不二頌」に代表される独自の宗教的悟りに達し,みずから一遍と称した。これ以降「南無阿弥陀仏,決定往生六十万人」という名号札を配り(賦算),全国各地に念仏を勧進した(遊行)ので遊行上人とよばれた。踊念仏による布教で教線は拡大し,賦算は二百五十万人,門弟は約千人に及んだという。兵庫県真光寺に廟所がある。体系的な著作はないが『一遍聖絵』や『一遍上人伝絵』が教化のようすを伝え,門弟の聞き書きを収録した『播州法語集』『一遍上人語録』などからその思想がうかがえる。

叡尊 建仁元年(一二〇一)~正応三年(一二九〇)鎌倉中期の西大寺流律宗の僧。号は思円。大和の人。はじめ醍醐寺などで真言宗を学んだが,真言の行者が戒律をおろそかにしていることに疑問を感じ,嘉禎二年(一二三六)覚盛・円晴・有厳とともに東大寺法華堂で自誓受戒をした。以後,戒律と真言密教の共存が西大寺流の特徴となる。奈良西大寺を拠点として戒律復興運動や畿内の古代寺院の復興などの勧進活動に奔走する一方,奈良坂・清水坂などで文殊信仰にもとつく非人・癩者救済を実践した。叡尊の非人救済の中心となったのは,食物,乞食の道具類を非人に施すことと,斎戒を授けることによる非人の生活統制である。また奈良法華寺などの尼寺を再興し,正式の受戒の作法にもとずく尼を誕生させた。弘長二年(一二六二)北条時頼の招きで一時鎌倉へも赴いた。また蒙古襲来に際しては,宇治川の殺生禁断を条件に異国調伏の祈祷を行った。著書に『感身学正記』などがある。

忍性 健保五年(一二一七)~嘉元元年(一三〇三)鎌倉中期の西大寺流律宗の僧。号は良観。大和の人。延応元年(一二三九)叡尊と出会って受戒し弟子となる。以後,戒律の復興に努める一方,文殊信仰にもとつく非人・癩者救済運動に奔走。建長四年(一二五二)関東に赴き,常陸三村寺に住んだ。弘長二年(一二六二)以降北条氏の信頼を得て鎌倉に進出,極楽寺を拠点として非人救済・作道・殺生禁断などの慈善事業に努めた。

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