2012年11月17日 (土)
北条氏照家臣 大石惣四郎
大石惣四郎 もと松田惣四郎のち大石照基と名のる。信濃守を称す。
十四上下 大石惣四郎
此内
騎馬 神保宮内
鑓持 弐人
差物持 二人
手明 八人
已上十四人
北条氏政・氏照の家臣。氏照の持城の下野国小山城(栃・小山市)の城将。大石綱周の弟信濃守の養子となり家督を相続。『異本小田原記』巻四に「大石源左衛門綱周の伯父大石遠江守は永禄十二年十月の三増合戦で武田信玄に捕らわれて甲斐国に連行された。弟信濃守の家督は松田筑前守の孫六郎左衛門(定勝ヵ)の弟が継いで大石惣四郎、次いで信濃守をしょうした」とある。氏照の偏諱をうけた側近家臣。天正五年正月足利義氏年頭申上衆書立(東京史料編纂所所蔵・埼玉県史資料編八、六七二頁)には古河公方足利義氏への年頭の挨拶に北条氏政より太刀と扇が贈られ代官として大石信濃守が挨拶に来たので太刀を答礼として贈る。同年四月二十六日北条氏照朱印状(矢島文書・一九〇五)では小山城(祇園城)の諸触口中に小甫方備前守は他国衆のために彼の家臣等の手作地については違乱の無い様にせよとした。奉者は大石信濃守。同年十月十九日北条氏照朱印状(小山市立博物館所蔵大橋文書・一九五〇)では大橋播磨守に下野国都賀郡卒島郷(小山市)内で知行一〇〇〇疋(一〇貫文)を宛行う。同日北条氏照朱印状写(晃程文書・一九五一)では菅谷左衛門五郎に同郡友沼之郷(栃・野木町、小山市)内で知行一〇〇〇疋を宛行う。奉者は共に大石信濃守。天正六年十月二十六日北条氏照朱印状(青梅市郷土博物館所蔵並木文書・二〇二七)では三田谷(東・青梅市)の並木弥七郎に照基が同道して小山城へ向かった。天正八年二月十九日大石照基書状(小山市立博物館所蔵大橋・四七三一)では大橋播磨守に生井郷(小山市)を宛行う。天正十四年七月十八日北条家朱印状写(楓軒文書纂六〇・二九七二)では常陸国の佐竹義重が下野国都賀郡に侵攻し壬生(栃・壬生町)・鹿沼(栃・鹿沼市)方面に向かうため、対する北条氏は小山衆をこの方面に向かわせる事になり壬生へ水海衆の鉄砲・弓衆を五〇人加勢として送り、加勢衆に良い指揮官を付けて大石信濃守の注進次第に小山城に入る事とした。天正十六年十一月二十八日大石照基判物(小島文書・三三九三)では枝惣右衛門尉を小山領の鋳物師の司の任命し北条氏の御用を務めるように命じた。「大石信濃守(花押)」と署名。ただし、当文書は疑問点がある。年未詳五月二日大石照基(ヵ)黒印状(小山市立博物館所蔵大橋文書・四〇九〇)では下野国寒河郡生江郷(小山市)の年貢を四〇貫文と定め大橋氏の諸役を免除する。月日行下に印文「国所」の黒印を捺印。『北条記』では永禄十二年正月に伊豆国三島(静・三島市)に出陣して武田勢と戦っている。また、照基は天正十八年六月二十三日八王子城(東・八王子市)で討死しておらず、松田惣四郎松庵と復姓し、結城秀康に二三〇〇石で召抱えられた(秀康卿給帳)。
○『大石宗虎屋敷とサルスベリ』(八王子市松木一四九一)
「ここは松木台と称し、永禄(一五五八~一五六九)の頃、大石信濃守宗虎が居館を構えていたと伝えられている。宗虎の養子である照基がここを利用したかは定かではないが、屋敷自体は定基が没した元亀二年(一五七一)から八王子落城の天正十八年(一五九〇)の間に廃されたと思われる。また滝山城にある信濃郭も信濃守すなわち宗虎、あるいは照基の屋敷があったと考えられる。宝鏡印塔の前のサルスベリ(百日紅)は、この松木台の屋敷が機能していた頃のものと思われ、樹齢四〇〇年、根もとの周囲三メートル余、樹高十五メートルと近在にもまれな巨木である」。この屋敷内に墓地があり、そこに、忘れられたような小さな墓石が建っている。他から移したものと言われるが、宗虎夫妻の法名を併刻してある。永林寺過去帳とは少し異なるが次のようである。
蓮心院法性開華大居士(宗虎)
法蓮院春応妙華大禅定尼(宗虎室)
この墓石の左側面に「御法名天正七□□…」と微かに判読できる。これによれば、照基の養父宗虎はこの年次に没したと思われる。照基が信濃守を称するのが天正五年頃であり、家督を譲られたのはこの頃であろう。また、『新編武蔵風土記稿』多摩郡城野村(八王子市)譜願寺の条には開基大石信濃守宗虎の墓があると記し「五輪塔の石塔なり、宗虎は滝山城の城主大石源左衛門定久の嫡子にて初は内記と称せり、近郷由木に居館を構ふ、元亀二年六月八日に没せり」とあり、もしくは定基と同人物か。
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北条氏照家臣 大石惣四郎
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