戦国流転 由井郷の人々
熊野速玉大社の『熊野山新宮勧進状』の裏面に記載された人々は勧進を取り扱った先達が、覚えのために便宜一筆をもってかきつけたものとかんがえられ、全般の文字の体様から、近世初頭の頃のものかと考えられるようであるらしい。この人々の大部分は一般民衆である。其の覚えの中につぎのような記載がある。
「 二貫文 武州多西郡由井郷住人 目黒掃部助
百二十文 関山弥五郎重顕 六百文 右京 」
武州多西郡由井郷は、現在の八王子市大楽寺町・諏訪町・上壱分方町・弐分方町・西寺方町あたりと考えられる。
目黒掃部助は、天正十八年(一五九〇)六月二十三日、八王子城で討死した相即寺過去帳にある、目黒氏の一族とおもわれる。それにしても、目黒掃部助の二貫文の寄進は大きい金額である。此の地の有力な土豪であろう。
関山弥五郎重顕は、天文十五年(一五四六)に神戸山法泉寺を開基した関山土佐であろう。そして、相模原市当麻の地にあった当麻の関所の文書にある関山弥五郎その人であろう。虎の印判状につぎのようにある。
「 しほ荷弐駄の分、一ヶ月の中、此の如くとほすべき
ものなり。これは家内のつかひ用の義なり。よってく
だんのごとし。
天文五 丙申 八月廿日
関山弥五郎とのへ 」
関山氏は相模国東郡当麻郷(相模原市)の地侍。伊予国関山の出身になる河野氏の一族
と伝え河野通明の次男福良通豊の七男関山民部丞通安は通明の嫡宗と伝える。一遍上人に従って相模国当麻に時宗の無量光寺を開くと土着した。子孫は伊勢宗瑞の時から仕え飛脚役を世襲して務め、当麻宿の宿場管理と当麻関所の支配を任されていた。
永禄四年(一五六一)と推定されている、武田信玄が甲斐郡内領上野原の領主加藤丹後守に送った書状に「(上略)然者氏康由井在陣、敵味方之間隔三十里之様(下略)」(諸州古文書甲州一)とある、氏康の由井在陣を可能にしたのは、由井郷の関山氏によるものであろう。
無量院という寺は由井郷にいた菅沼氏によって、延徳二年(一四九〇)庚戌年五月廿五日に起立とある。この菅沼氏は同地(八王子市二分方町)に現在も居住しておられる。古くからの土豪であろう。下山治久著『八王子城主・北条氏照』所収文書に北条氏照感状写がみられる(奥信濃古文書)。それは菅沼六兵衛丞が永禄七年(一五六四)に、下総国葛飾郡国府台の戦いで与えられたものである。
小林土佐について、『異本小田原記』巻之三「関宿城降参の事」に「其年天正元年(一五七三)十月下旬、関宿の城主梁田中務大輔逆心して、佐竹と一味す。依之小田原より氏政御出張、関宿へ御取詰め合戦なり……中略……小田原方一同に追懸り、塀へ乗る。陸奥守内津野戸が下人籐五郎一番に乗る間、其時彼津野戸にお尋ありて、小林といふ名字を給はる。……」この名字を給はるとあるのが八王子城で討死した、相即寺過去帳にある「小林土佐守西誉浄運」その人である。
新陰流の祖、上泉信綱の高弟に神後伊豆宗治がいる。武蔵国八王子の地侍に生まれた。師信綱に従って諸国を遍歴して武技修行に励み、奥義を極めた。信綱が元亀二年(一五七一)、京都で将軍足利義昭に兵法を授けて、のちその師範となった。その後に関白豊臣秀次の師範も勤めたという。元八王子町の通称、峰山にはその道場が有ったという言伝えもある。横山氏から出た慈根寺氏は健保元年(一二一三)五月の和田合戦で討死した。この末裔が神後氏であろうか。神後伊豆は母方の姓を名乗り、鈴木意伯とも云われている鈴木氏は大石道俊の家臣に鈴木中務丞や、大石綱周のちに北条氏照の家臣となった鈴木周広や鈴木弥五郎もいる。八王子城で討死した相即寺過去帳には、鈴木佐渡守、鈴木彦八、鈴木庄三がいる。
八王子城の落城の関して『福生市史』には「戦国時代の福生市域とその周辺」で次のように述べている。
「市内福生の福生山青岩院に残された二冊の過去帳の一三日の条に記された〈玄光院源隣明坻居士〉という人物である。その注記には〈天正十八庚寅六月俗名上野作乃進於八王子討死也〉とあり、上野作之進なる人物が八王子城において戦死したことが知られる。さらに注目されることに、同過去帳の二二日の条に〈天正十六戌子八月上野作之進室河野但馬守養女〉と注記された〈青照院心月桂林大姉〉なる女性が存在することである」。
山梨県上野原町上野原に調査で訪れたときに河野氏系図を拝見した機会があった。その河野通重の箇所に「福生郷を領す」と記されていた。この河野通重は八王子千人同心頭で
あるとおもわれる。福生市史の河野但馬はこの人物で、『寛政重修諸家譜』に「通重―但馬守」とある。武田家が滅亡後河野通重は北条氏照に仕えたのである。その期間は北条氏の滅ぶまでであろう。