戦国流転 天野氏
天野氏
天正十年(一五八二)三月、武田氏が滅亡した。そして、北条氏支配の八王子分国に
遠州犬居城主天野景貫(宮内右衛門尉)は北条氏照を頼り、同月十二月二十七日、当座の
勘忍分として森下の地(八王子市上川町カ)を屋敷地として与えられた。この地域は天文二十二年頃、「武州多西郡由井郷」と呼ばれたと思われ、建長八年(一二五六)七月三日の
将軍家政所下文によれば、天野景経に「船木田新庄由井郷内横河郷」等の所領が安堵されている。この所領は永仁二年(一二九四)に景経の子頼政に譲られ、やがてその子孫の顕茂・景広兄弟の間に「由井本郷」をめぐる争論が惹起し、正和二年(一三一三)五月・文保元年(一三一七)六月に争われ和与となった。関東下知状(天野文書)によれば、本来この「由比本郷」は武蔵七党のひとつ西党に属した由比氏の所領であったが、彼らの母由比尼是心が天野氏に嫁したことから天野氏に伝領されるようになった。その後、天野氏のこの所領は次第に失われた。そのような所縁の地に天野景貫・左衛門父子はやってきたのである。
伊豆国天野氏の分流で、鎌倉時代末に遠江国山香荘(春野町他)の地頭であった遠江天野氏は、戦国期には犬居山中(春野町・天竜市)を中心とする北遠地方にあって、いくつかの家筋に分かれながらも惣領家を中心として、強固な国人領主支配を築き、今川氏のもとでその軍事力を発揮していた。犬居三か村などを相伝する景泰―元景の惣領系と、犬居山と宇奈(雲名、天竜市)代官職などを相伝する虎景―藤秀―景貫の庶子系にわかれながらも、天野一族として一体となって今川氏に属していた。天野氏は数多くの「同名・親類・被官」を抱え、その所領支配については、今川氏役人の検断権の及ばない不入特権を与えられ、自立度の高い在地領主支配を維持していた。しかし、義元が永禄三年(一五六〇)に敗死してのちは、惣領家と庶子家の間で亀裂が生じたようで、永禄五年には藤秀知行分をめぐって訴訟となり、翌年景泰・元景は、堀越・飯尾氏などと連携してと思われるが今川氏に反旗を翻し(いわゆる「遠州忩劇」)、惣領家は滅亡する。こののち、藤秀は、宮内右衛門尉として天野氏を引継ぎ、今川氏滅亡後は徳川家康に抱えられることとなる。永禄十二年(一五六九)四月藤秀は徳川家康から本領安堵(五百貫文)されたが、元亀三年(一五七二)頃武田信玄の配下となる。天正二年(一五七四)・四年と二度にわたって徳川氏から犬居を攻撃され、そののち遠江をはなれ武田氏の家臣となった。
天野景貫の年齢について『八王子市史 下巻』は北条氏照より一〇歳以上年長であり、当地にのがれてきたとき六十歳近かったのではないかとしている。
天野父子は佐竹攻めに参陣し、下野小山で活躍した。天野文書は天正一三年(一五八五)の氏直の感状と氏照の副状をのせている。
去廿二日佐竹衆一手小山表敵陣江相移之刻敵両人被討捕、高名之至、誠感悦候、弥可
被抽粉骨儀肝要候、如件。 氏直(花押)
卯月廿七日
天野左衛門殿
これとほぼ同文の感状が、恩方の設楽家や五日市舘屋の来住野家にもあるが、天野氏に対しては氏照の家臣の大石四郎左衛門(小田原編年録によれば大石遠江守の養子で小田原の松田家からきたという)が景貫に次の書状を出している(内閣文庫の写本による。「静岡県史料」は別の長文の写本をのせている)。
去廿二日貴殿御仕合具承、誠ニ心地好儀共候、殊御子息左衛門殿御走廻、敵両人被討
天正十年(一五八二)三月、武田氏が滅亡した。そして、北条氏支配の八王子分国に
遠州犬居城主天野景貫(宮内右衛門尉)は北条氏照を頼り、同月十二月二十七日、当座の
勘忍分として森下の地(八王子市上川町カ)を屋敷地として与えられた。この地域は天文二十二年頃、「武州多西郡由井郷」と呼ばれたと思われ、建長八年(一二五六)七月三日の
将軍家政所下文によれば、天野景経に「船木田新庄由井郷内横河郷」等の所領が安堵されている。この所領は永仁二年(一二九四)に景経の子頼政に譲られ、やがてその子孫の顕茂・景広兄弟の間に「由井本郷」をめぐる争論が惹起し、正和二年(一三一三)五月・文保元年(一三一七)六月に争われ和与となった。関東下知状(天野文書)によれば、本来この「由比本郷」は武蔵七党のひとつ西党に属した由比氏の所領であったが、彼らの母由比尼是心が天野氏に嫁したことから天野氏に伝領されるようになった。その後、天野氏のこの所領は次第に失われた。そのような所縁の地に天野景貫・左衛門父子はやってきたのである。
伊豆国天野氏の分流で、鎌倉時代末に遠江国山香荘(春野町他)の地頭であった遠江天野氏は、戦国期には犬居山中(春野町・天竜市)を中心とする北遠地方にあって、いくつかの家筋に分かれながらも惣領家を中心として、強固な国人領主支配を築き、今川氏のもとでその軍事力を発揮していた。犬居三か村などを相伝する景泰―元景の惣領系と、犬居山と宇奈(雲名、天竜市)代官職などを相伝する虎景―藤秀―景貫の庶子系にわかれながらも、天野一族として一体となって今川氏に属していた。天野氏は数多くの「同名・親類・被官」を抱え、その所領支配については、今川氏役人の検断権の及ばない不入特権を与えられ、自立度の高い在地領主支配を維持していた。しかし、義元が永禄三年(一五六〇)に敗死してのちは、惣領家と庶子家の間で亀裂が生じたようで、永禄五年には藤秀知行分をめぐって訴訟となり、翌年景泰・元景は、堀越・飯尾氏などと連携してと思われるが今川氏に反旗を翻し(いわゆる「遠州忩劇」)、惣領家は滅亡する。こののち、藤秀は、宮内右衛門尉として天野氏を引継ぎ、今川氏滅亡後は徳川家康に抱えられることとなる。永禄十二年(一五六九)四月藤秀は徳川家康から本領安堵(五百貫文)されたが、元亀三年(一五七二)頃武田信玄の配下となる。天正二年(一五七四)・四年と二度にわたって徳川氏から犬居を攻撃され、そののち遠江をはなれ武田氏の家臣となった。
天野景貫の年齢について『八王子市史 下巻』は北条氏照より一〇歳以上年長であり、当地にのがれてきたとき六十歳近かったのではないかとしている。
天野父子は佐竹攻めに参陣し、下野小山で活躍した。天野文書は天正一三年(一五八五)の氏直の感状と氏照の副状をのせている。
去廿二日佐竹衆一手小山表敵陣江相移之刻敵両人被討捕、高名之至、誠感悦候、弥可
被抽粉骨儀肝要候、如件。 氏直(花押)
卯月廿七日
天野左衛門殿
これとほぼ同文の感状が、恩方の設楽家や五日市舘屋の来住野家にもあるが、天野氏に対しては氏照の家臣の大石四郎左衛門(小田原編年録によれば大石遠江守の養子で小田原の松田家からきたという)が景貫に次の書状を出している(内閣文庫の写本による。「静岡県史料」は別の長文の写本をのせている)。
去廿二日貴殿御仕合具承、誠ニ心地好儀共候、殊御子息左衛門殿御走廻、敵両人被討
捕候由、無比類存候、則御書中入御被見候、一段御感候間、定而可有御直書候、於我
等、満足不過之候、爰計モ思召儘之事ハ一昨日モ敵数多被為討捕候、寔可為御満足候、
委細ハ御使見届被申候、乍御大儀、御番御勤肝要存候、猶此方御用等候ハゝ可蒙仰候、
恐々謹言
卯月廿七日 大四右(判)
天野宮内右衛門尉殿
これによれば、現存しないが氏照も天野景貫宛にねぎらいの書状を出したようであり、当時氏照は病気で静養していたのかとも想像される。故郷の遠州を没落して異郷の地で戦い続ける敗残の老将の運命と心情を思いやればこそ、氏照や臣下の大石が、主将氏直の感状の他に父親景貫に宛てた慰労と激励の書簡を残したものであろう。氏照は苦労人であったようである。天野氏は反徳川派であったので近世以後は振るわないが、子孫は前田氏、毛利氏など外様大名の陪臣となっていった(八王子市史下巻)。