戦国流転 上総国堀江郷より起こった堀江氏
上総国の堀江氏は、佐藤孝太郎著は「堀江氏居城説」(『八王子物語上卷』)で、堀江氏の系図中に地方豪族として室町戦国期に、八王子城主としての記載があったことから問題となったと紹介された。最近では、椚國男氏が「八王子城の搦手」でこの系図にふれている。そして、北条氏照によって八王子城が深沢山に築城工事を始めた天正六年三月頃(一五七五 大悲願寺過去霊簿)より二年半早くつくられていると、指摘している。本項ではこの系図を中心に考察する形で進めてゆきたい。
「八王子城主」と記されている部分について述べておきたい。時代的に会わないと指摘さ
れる方もおられるが、これは、系図を作成した堀江景幸が、自分の先祖はこの地に城を構えていたのだと強調して書いたものと思われる。「八王子」の地名は北条氏照が八王子城の築城に際して「八王子権現」を勧進したことによると云われている。『東久留米市史』に「□州前澤浄牧院記」がある。その中に「……武州八王子城主安祝……中略……」の記載があり、この安祝は栗原仲道氏によれば享徳四年(一四五五)正月二十五日に府中分倍河原の合戦で負傷し死亡した大石氏重仲の子とある。城郭史の立場から考えれば、以前から城が築かれていたとしてもおかしくないであろう。
この系図によると、堀江氏の出自は越前堀江氏と同じ藤原利仁流とある。堀江籐次郎国成の上総国堀江郷は今の時点では確認のすべがない。たとえば『姓氏家系大辞典』の堀江の項に「 和名抄、越前国坂井郡に堀江郷、餘戸郷を収め、保里江と註す。又武蔵に堀江庄、堀江郷、若狭、越中、阿波に堀江庄。その他、摂津、遠江、下総、讃岐、伊予等、此の地名多し。房総の堀江氏 鴻之台戦記に義明方、堀江氏を載せ、又相州兵乱記に〈小弓勢の先陣堀江〉」とみえる。
下総国猿島郡若林郷(茨城県境町)は、現利根川中流域東岸の猿島洪積台地のほぼ末端部に位置する低台地型の村落である。若林のほぼ中心部分に土塁を伴った土豪館跡がある。この館主については、堀江という領主が住んだことなどが偽文書に見え、館跡隣接地の台喜八郎家は、堀江氏の家臣と伝える。この堀江氏は、天文三年(一五三四)閏正月一〇日の足利義明書状などから、小弓公方・足利義明に従った「堀江下総守」と思われ、近世に入って古河公方が喜連川に移った際に、これに従って堀江一族も若林を離れたものと考えられる。
なお昭和二年刊の『猿島郡郷土大観』に、「往昔領主堀江候なるもの、若林に小城を設けて居住せし」とみえ、その姫君を地内の桜塚に葬ったとある。これは「足利家通系図」に、天文七(一五三八)年の下総国府台合戦で討死した足利義明の弟、基頼を「若林ニ葬る」とある部分と、どこかで関係する可能性も考えられる。
房総の堀江氏について川名登は「堀江頼忠、能登守と称す。天正十五年(一五八七)鹿野山神野寺の棟札の中にはじめてその名がみえる(神野寺文書)。その後、里見忠義時代には家中において最も重きを置かれ、また一門扱いとして里見姓を名乗る事も許されていた」とある(『すべてわかる戦国大名里見氏の歴史』)。
堀江藤次郎国成の子、八郎行朝は保元の乱に源氏方に参加し京都御所内で死亡した。その子を経季といい、堀江太郎を称し、弟に堀江三郎経実があった。
「文治三年(一一八七)鎌倉右大将家御奉公中武蔵高麗郡之内玉川荘園ヲ玉ハル、承久四年(一一九三)八月九日死セラレケル」。
経実の子を盛実太郎、次が実重(堀江八郎、玉川荘居住)次を益実(堀江兵衛尉)そして益実の子に、太郎左衛門常実がある。この人が堀江氏中興と記され、初めての八王子城主となったとされ、それは次のようにきされている。
「新田左中将源義貞朝臣家臣トシテ元弘三年(一三三三)鎌倉攻之刻軍功ヲ立ル其後足利
将軍尊氏公ヨリ懇望ニテ新田殿ヨリ足利殿ニ図隋仕シテ高名手柄アリシトナリ、夫ヨリ建武元年(一三三四)十二月二十八日武蔵国郡内八王子ト云処ヲ領地被下置、殊ニ八王子山ニテ一城ヲ築キ申也同二乙亥年(一三三五)九月四日同国松山城攻之討手ニテ討死トナリ、法満寺殿廓山徳征大禅定門」。
常美の子、綱実は貞治三年(一三六四)六月二十八日死去、その子、国実は康応元年(一三八九)正月十九日死去。綱実と国実も八王子城主であつた。
国実の次は高実といった。かれは堀江佐渡守従五位下と官位を受けたらしくそのように記されている。
「応永元年(一三九四)始テ鎌倉公方氏満公ヨリ被召出、御盃頂戴、其上ニ関東目代職ニ被仰付トナリ、同五戌寅年(一三九八)五月十日夢中ニ相州江ノ島明神金竜ニ乗ジテ八王子ノ城外ノ池ヨリ出現シ玉ヒ天女ヨリ竜鱗三枚玉ハリケル、依テ今ノ竜沢ノ池ト申、此時ニ名ツクルトゾ、又弁才天社勧請ナリ子孫其事ヲ大切ニ可存ナリト御申伝へ被成下候也、応永十六乙丑年(一四〇九)八月十九日逝去、宝祐院慧山教光大居士」。
高実の子、実次は下総守を称し野州宇都宮に下向し、戦病死した。その次は貞実で堀江佐渡守八王子城主と明記されている。
「寛正二辛巳年(一四六一)六月二十日武州之内新郷合戦手柄ヲ顕シ公方様ヨリ御感状被下置ト今ニ伝来スル処ノ御墨付是ナリ同三壬午年(一四六二)正月六日逝去御辞世歌ニ〈頼みおく誓のうみに竿さしていそぎ渡れる弥陀の御国へ〉。
次は秦実、芸番介太郎と号し文明年間の人であり、次を章実、左衛門尉出羽守を称し北条氏綱の旗下で各地に転戦した。妻は氏綱息女とし、天文九年(一五四〇)九月十二日死去、光寿院殿相識妙空とある。次の経実は美濃守従五位下とあり、安房国里見氏と北条氏との戦いに従軍している(国府台合戦)。
北条氏と下総里見氏との戦いは、大永より永禄年代に及ぶ長期作戦とし知られている。北条氏照の旗下が多数、この作戦に従ったことが北条記にしるされ、堀江氏は経実及びその子直郷ともに従軍したとおもわれる。
直郷は内蔵介と称し式部少輔となっている。妻は武州鴻ノ巣城宇佐美但馬守道経女とあり、「北条殿仰ニテ死も下総国ニ御出陣御供里見安房守殿ト数日対陣軍功勝利ナリ、結城左馬頭殿追手ヲ被付ナリ是モ甚高名ヲ得ラレタリ国人も甚美談申也。永禄二巳未年(一五五九)十二月四日死去」となっている。
堀江系図の最後は景幸であり「堀江左京亮陸奥守従五位下八王子城主家督妻、遠山肥後守朝影(景ヵ)女」と書かれている。この景幸の代の天正三乙亥年(一五七五)九月十四日図附で作成されたのが堀江氏系図一巻であった。末尾には「南無江島弁天神願者武運長久子孫繁昌万代無窮奉祈念処也」と記されている。
資料としての系図の価値は残念ながら高くない。その中でも南北朝期に、洞院公定の編纂による『尊卑文脈』(永和三年~応永二年)は比較的信頼できる諸氏家系図とされている。 武蔵国守護代大石氏の動向を知る資料としての、木曽大石系図「八王子市柚木伊藤家所伝」
は問題の多い系図である。しかし、この系図でしか知りえない内容もある。これを全て否定してしまうと大石氏研究は先に進まない。堀江氏系図も同様である。江ノ島弁才天に祈念文としてだされたことは、とくに神仏に嘘偽りを言わないのが今の時代と違う処である。神仏に対する信仰の深さは現在と比べようもないほど違う、、堀江景幸は神仏に誓ったのである。このように考えるならこの系図に書かれていたことは全てではないが信じられるとおもわれる。多摩の中世資料が少ない現状ではその点を補うものがあるように感じられ、再評価されてもよいのではないかと思う。