2010年8月 7日 (土)
地侍たちの戦国(5)-乙幡(追幡)一族ー
乙幡氏は「名と歴史」萩ノ尾薬師堂(東京都武蔵村山市)の中で「この近辺に住む乙幡氏(乙幡一族は近世武蔵国村山郷のおける有力氏族)は北条家家臣であり、豊臣秀吉による小田原成敗の後(天正18年)に於須免の方とともに村山郷に落ち延びたものだとするのである」とされている。他に『乙幡泉家文書』を根拠として、北条氏直の家臣石川土佐守の死後その娘であるお祢い殿を守って乙幡(追幡)孫三郎が中藤村に逃れたとされる説である。
雄山閣版『新編武蔵風土記記稿』第六巻二三四頁に百姓孫左衛門の記述がある。
百姓孫左衛門 乙幡を氏とす、古より里正を務む、先祖は乙幡勘解由能忠と號して、大石源左衛門尉定久に仕え、その子助七郎只次、其子六右衛門能正に至り、北条氏照に仕へしが、かの家滅亡の後子孫民間にくだり、當村に居住するよし、されど今證左とすべきものを傳へず、又いかなる故にて蔵せるや、承應の此の文書一通あり、其文は左のごとし、
『村山市史』所載の「乙幡文書」の伝承は次のようになっている。
一 武蔵多摩郡八王子拝島大日堂之開基ハ、むかし北条うじなをの御臣下ニ石川土佐守総領之息女お禰いどのと申御方、七才の節ひかんの煩を被成、両眼ひしと見へさるところに、てんやく療冶懸といへとも、叶さるによって、仏神ニ祈ヲつくす処ニ、候ニ拝島ニむかし辻堂あり。誰の作とハなれども、天道大日の尊像なるゆへ、父母願をかけ三七日はっさいしてこもり、壱人の娘眼病をせめて一がんなりとも御ほうへんにてあき候ハゝ、一門一家をつくし御堂を建立したてまつらんとふかく心信し奉れば、其年秋八月右眼つふれ左はあき候ゆへ、一門をつくして御堂を建立したてまつる。其てうほん石川土佐守、二番ハ三田弾正義宗、其弟羽村兵衛太夫義尚、三沢兵庫助、目りん是心入道、土屋衛門、追畠孫三郎、有山内記、被是はち方の者共以上拾六人御堂建立致し、本尊之御座の下地ヲ壱丈弐尺ほり、永楽千貫文後修覆のためうつめおきたるよし子孫ニ言伝有之、御堂のむな礼ニ慥ニ有之よし永申伝来也。其後彼娘成長の後、うしなを公より縁組仰出、羽村兵衛総領左源太と申ニ被下候処に、小田原一戦の時分一門五拾七人松山の城、小田原本城、高野山三ヶ所にて相果、子孫たんせつニ及候。右ハ大日への御奉公のため、我等承伝への通是ヲ書印遺候。若脇より如何様のひはん候とも、此大日之根けんハ、我等より外ニ委存知、只今ハ相模、八王子の者ニも覚有間敷と存候。石川土佐守殿御領分八王子之内拝島、羽村、久保、天間、高築五ヶ村の主のよし申伝候。(以下欠)
昭島市史によれば石川土佐守なる人物が大日堂の開基といわれている。彼は「乙幡家文書」によると、北条氏直(後北条氏五代の当主)の家臣で、「八王子之内拝島・羽村・久保・天間・高築五ヶ村」の領主であった。しかしこれには疑問がある。氏直の家臣が滝山領主氏照の居城周辺に所領を与えられているたのだろうか。石川土佐守が氏直の家臣であったにしても、彼は天正十八年(1950)七月の後北条氏滅亡後、当地に帰農して来ていたのではなかったか。『新編武蔵風土記稿』に、大神村の名主八郎右衛門に関して、「当村の旧家にて石川を氏とす、先祖は拝島村の縁起にみえたる、石川土佐守が氏族の者と云伝たれど、先祖のこと伝へたる証左なし、」という記載がある。この伝承は、石川土佐守の帰農説を想定させる材料の一つとなるだろう。
雄山閣版『新編武蔵風土記』第六巻二五八頁の萩ノ尾薬師堂の記載は次のようである
薬師堂 除地、小名萩尾にあり、三間に三間半の堂を東向に立、薬師は長一尺九寸許、此本尊は北条氏照の息女すめの方守本尊と云傳ふ、堂の後へ五輪の石塔を立、延文元年(1356)八月十六日了意禅尼と刻せり、長三尺許、しかれども何人の墓碑たることしらず、
北条氏照の息女は貞心尼が知られているが、すめの方は三田弾正綱秀の息女と氏照との間に生まれた姫と考えると、昭島市郷土研究会編の小冊子『滝山城物語』の「悲恋哀話 狐塚の由来」が興味深い。
幕臣に乙幡氏がいる。重義 勘次郎は東照宮につかえたてまつり、武蔵国拝島領の御代官をつとむとある。-ー重親 六郎右衛門ーー重行 半右衛門と続き家が絶える。のちに二男重友 六郎右衛門が時に家を再興する。乙幡氏の一族であろう。 家紋 丸に三鱗 上藤の丸
新青梅街道の「三本榎」という交差点に、乙幡榎・加藤榎・奥住榎がある、此の榎には二百年ほど前に、腕自慢の若者が弓矢の腕を比べるために、近くに山から弓を引き、矢の落ちた場所に榎を植え、それぞれの名をつけたという伝説がある。乙幡榎は今も10本以上の支えがあるが元気である。
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地侍たちの戦国(5)-乙幡(追幡)一族ー
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