地侍たちの戦国(1)ー宮寺与七郎ー
北条氏康は天文十五年川越夜戦で勝利すると、武蔵国の支配を進めていく上で、各地の豪族に自分の子供たちを養子として送り込み支配力を徐々に浸透させていつた。多摩の最大の支配者は木曽義仲の後裔と言われる大石氏と、平将門の血を引くと称していた三田氏であった。北条氏照は氏康の三男で早くから大石氏に養子に出され、山の根地域の支配者として送り込まれた。従来は大石定久の養子とされていたが、定久の養子の縄周であろうと云うのが最新の説であるようだ。大石氏の事跡はその間が不明で、定久には数人の子息がいたと思われるが、何故養子を迎えたかについては不明である。大石氏から北条氏に支配が交代する時期に闇の部分が有ったのであろう。大永五年(1525)十二月十五日の淨福寺再建棟札銘には「大旦那大石源左衛門入道道俊幷子息憲重」とある。
『異本小田原記』巻之五(518頁)には「…彼氏照と申すは、氏政の弟の中にも武勇勝れて、殊に大名なり。上杉の老臣に大石源左衛門定久といふ人あり。是は木曽左馬頭義仲十二代の末葉なり。代々武蔵の守護代なりしが、上杉亡びて後氏康へ降参し、後に男子なくして、氏康二男を聟にとり名跡を繼がせ、由井源三と号す。然るに大石氏の家、滅亡の時来りけん、大石名字皆男子なくして、大石信濃守・松田が子を養子にし、同隼人佐は大道寺が子を養子して一跡を繼がしむ。…」とある。これは、北条氏側からの見方であるのですべて信用できないが、他に資料がないので参考にしたい。
永禄五年(1562)四月頃、三田氏は滅び、氏照の多摩における支配は前進した。北条氏照判物(大江文書)によれば、同年五月十九日に三田氏の旧臣で家臣になった宮寺(埼玉県所沢市)の土豪宮寺与七郎の知行、原(不明)、松井田(不明)、葛見(飯能市久須美)の地八貫五〇〇文を安堵している。同大江文書、同年七月三日では氏照の重臣横地吉信が、宮寺与七郎に金子掃部助の跡を継ぐことを命じている。金子氏は入間郡に古くから蟠踞した名族である。武蔵国国人として山内上杉氏に属した金子氏に、文明(1469-1486)のはじめ金子掃部助が長尾春景に与して、相模国小沢城に籠り上杉方と戦ったが、太田資長(道灌)によって城はおとされ、以後、金子掃部助は不明になっている。この跡蹟のことであろうか。
金子氏が三田綱定と北条氏との間で家の存続を計っていたのであろう。永禄四年カ六月三日北条氏康判物(金子秀子氏所蔵文書・七〇三)では金子家長と新五郎充忠に北条氏への忠節を尽くせば知行として金子郷(埼・入間市)の屋敷近辺八貫文・入間郡小谷田村(入間市)十七貫文を安堵し「但し、この内、豊泉名字中、前々より抱え来たり候分を下され候」とある。他に本領として合計百五十貫文を宛行うと約束している。八王子城で、金子丸を守り討死した金子三郎右衛門はこの一族であろう。
宮寺与七郎のような地侍にとって、三田氏でも北条氏でも、自分たちの家名や知行地を裁定してくれる、主であれば誰でも良いのであろう。与七郎自身が金子掃部助を名乗った記録や形跡はないようである。しかし、宮寺掃部助が永禄七年五月二十三日の北条氏照朱印状に見えることに注目したい。氏照も彼らの裁定をすることで次第に山の根地域に勢力を浸透させてゆくのである。また、氏照の近臣として支え続けた人々がいたことも忘れてはならない。
【横地吉信】監物(丞。北条氏康、のち武蔵国滝山城(東・八王子市)城主北条氏照の家臣。氏照の奉者・家老を務める。永禄二年二月の『役帳』御馬廻衆に横地監物(丞と見え、「八貫文 西郡願成寺分(神・小田原市)」を知行役高とし、他に二〇貫文を支給される。『新編武蔵』多摩郡原村(奥多摩町)の横地社の伝承では天正十八年六月二十三日に八王子城が落城すると吉信は当所まで落ち延び、この谷で自殺した。また、『武蔵郡村誌』永田村(埼・飯能市)の名主細田家の記録に八王子城を脱出した吉信は細田家に隠れ住み細田姓を名乗り元和九年に死去したとある。
【宮寺与七郎】宮寺氏は武蔵国入間郡宮寺郷(埼・入間市)の地侍。『諸家系図纂』村山党系図では武蔵七党の村山氏の出で村山頼家の次男家平が宮寺五郎を称したのに始まる。与七郎は四郎左衛門の一族。武蔵国勝沼城(東・青梅市)城主三田綱定、のち滝山城(東・八王子市)城主北条氏照の家臣三田冶部少輔の同心。永禄七年五月二十三日北条氏照朱印状(和田一男氏所蔵文書・八五四)では武蔵国清戸番所(東・清瀬市)の在番衆の三番衆頭の三田冶部少輔の配下として宮寺与七郎とみえる。永禄八年六月八日北条氏照朱印状(細田長五郎氏所蔵文書・九一二)では長田(飯能市)百姓の神右衛門・四郎右衛門に武蔵国葛見と長田との相論について与七郎が長田は葛見の内と訴訟をおこしたため小田原城(神・小田原市)での裁許のための糾明に百姓両人は北条氏照の滝山城に呼び出された。奉者は藤部某。
『異本小田原記』巻之五(518頁)には「…彼氏照と申すは、氏政の弟の中にも武勇勝れて、殊に大名なり。上杉の老臣に大石源左衛門定久といふ人あり。是は木曽左馬頭義仲十二代の末葉なり。代々武蔵の守護代なりしが、上杉亡びて後氏康へ降参し、後に男子なくして、氏康二男を聟にとり名跡を繼がせ、由井源三と号す。然るに大石氏の家、滅亡の時来りけん、大石名字皆男子なくして、大石信濃守・松田が子を養子にし、同隼人佐は大道寺が子を養子して一跡を繼がしむ。…」とある。これは、北条氏側からの見方であるのですべて信用できないが、他に資料がないので参考にしたい。
永禄五年(1562)四月頃、三田氏は滅び、氏照の多摩における支配は前進した。北条氏照判物(大江文書)によれば、同年五月十九日に三田氏の旧臣で家臣になった宮寺(埼玉県所沢市)の土豪宮寺与七郎の知行、原(不明)、松井田(不明)、葛見(飯能市久須美)の地八貫五〇〇文を安堵している。同大江文書、同年七月三日では氏照の重臣横地吉信が、宮寺与七郎に金子掃部助の跡を継ぐことを命じている。金子氏は入間郡に古くから蟠踞した名族である。武蔵国国人として山内上杉氏に属した金子氏に、文明(1469-1486)のはじめ金子掃部助が長尾春景に与して、相模国小沢城に籠り上杉方と戦ったが、太田資長(道灌)によって城はおとされ、以後、金子掃部助は不明になっている。この跡蹟のことであろうか。
金子氏が三田綱定と北条氏との間で家の存続を計っていたのであろう。永禄四年カ六月三日北条氏康判物(金子秀子氏所蔵文書・七〇三)では金子家長と新五郎充忠に北条氏への忠節を尽くせば知行として金子郷(埼・入間市)の屋敷近辺八貫文・入間郡小谷田村(入間市)十七貫文を安堵し「但し、この内、豊泉名字中、前々より抱え来たり候分を下され候」とある。他に本領として合計百五十貫文を宛行うと約束している。八王子城で、金子丸を守り討死した金子三郎右衛門はこの一族であろう。
宮寺与七郎のような地侍にとって、三田氏でも北条氏でも、自分たちの家名や知行地を裁定してくれる、主であれば誰でも良いのであろう。与七郎自身が金子掃部助を名乗った記録や形跡はないようである。しかし、宮寺掃部助が永禄七年五月二十三日の北条氏照朱印状に見えることに注目したい。氏照も彼らの裁定をすることで次第に山の根地域に勢力を浸透させてゆくのである。また、氏照の近臣として支え続けた人々がいたことも忘れてはならない。
【横地吉信】監物(丞。北条氏康、のち武蔵国滝山城(東・八王子市)城主北条氏照の家臣。氏照の奉者・家老を務める。永禄二年二月の『役帳』御馬廻衆に横地監物(丞と見え、「八貫文 西郡願成寺分(神・小田原市)」を知行役高とし、他に二〇貫文を支給される。『新編武蔵』多摩郡原村(奥多摩町)の横地社の伝承では天正十八年六月二十三日に八王子城が落城すると吉信は当所まで落ち延び、この谷で自殺した。また、『武蔵郡村誌』永田村(埼・飯能市)の名主細田家の記録に八王子城を脱出した吉信は細田家に隠れ住み細田姓を名乗り元和九年に死去したとある。
【宮寺与七郎】宮寺氏は武蔵国入間郡宮寺郷(埼・入間市)の地侍。『諸家系図纂』村山党系図では武蔵七党の村山氏の出で村山頼家の次男家平が宮寺五郎を称したのに始まる。与七郎は四郎左衛門の一族。武蔵国勝沼城(東・青梅市)城主三田綱定、のち滝山城(東・八王子市)城主北条氏照の家臣三田冶部少輔の同心。永禄七年五月二十三日北条氏照朱印状(和田一男氏所蔵文書・八五四)では武蔵国清戸番所(東・清瀬市)の在番衆の三番衆頭の三田冶部少輔の配下として宮寺与七郎とみえる。永禄八年六月八日北条氏照朱印状(細田長五郎氏所蔵文書・九一二)では長田(飯能市)百姓の神右衛門・四郎右衛門に武蔵国葛見と長田との相論について与七郎が長田は葛見の内と訴訟をおこしたため小田原城(神・小田原市)での裁許のための糾明に百姓両人は北条氏照の滝山城に呼び出された。奉者は藤部某。