戦国流転 武士たちの真実
はじめに
関東の戦国乱世は、亨徳三年(一四一五)の乱がきっかけで始まる。その原因は鎌倉公方にあった。足利尊氏の二男の基氏―氏満―満兼―持氏―成氏と続いたが、次第に京に登り将軍になりたいと思うようになった。特に持氏は足利義教が籤で将軍職を継ぐと不満を隠しきれなかった。鎌倉公方を補佐する立場の関東管領、上杉憲実は将軍の命に抗しきれずに持氏を殺してしまった。永享の乱(一四三八)である。遺児の春王丸・安王丸も結城合戦で(一四四〇)捕らえられ美濃で殺害された。残され成長してようやく鎌倉公方となった成氏は関東管領の上杉憲忠(憲実の嫡子)を謀殺した。これを契機に、足利方と上杉方とのたたかいが関東の中央部を舞台に展開された(享徳の乱)。それより十三年後の応仁元年(一四六七)の大乱が「応仁の乱」である。それは足利将軍家の相続問題から端を発し、東軍細川勝元と西軍山名宗全とが、それぞれ諸大名をひきいれて京都を中心に対抗した大乱で、京都は戦乱の巷となり多くの文化財が失われた。以後、威令行われず全国的な戦国乱世となる。この乱が収束したのちも、京の秩序と治安は回復されず「田舎」と呼ばれた地方も同様であった。『日本史史料⑵中世』にある次の史料がこの乱の虚しさを次のように良くあらわしている。
不計(はからざりき)、万歳期セシ花ノ都、今何ゾ、狐狼ノ臥土(ふせど)トナラントハ。適(たまたま)残ル東寺((1))・北野サへ灰土トナルヲ、古ニモ治乱興亡ノナラヒアリトイへドモ、応仁ノ一変ハ王法仏法トモニ破滅シ、諸宗皆悉ク絶ハテヌルヲ、不堪感歎、飯尾彦六左衛門尉((2))、一首ノ歌ヲ詠ジケル。
汝ヤシル、都ハ野辺ノ夕雲雀(ひばり)、アガルヲ見テモ落ツルナミダハ 〔応仁記〕
(1) 東寺は文明十八年に焼失。
(2) 飯尾彦六左衛門尉 幕府奉奉行人飯尾氏の一族と思われるが具体的には不明。
1、 「一揆」「惣村」「戦国時代」「戦国大名」の四つのキーワード
戦国乱世の戦国時代は、豊臣秀吉による統一が完成した天正十八年(一五九〇)まで続いたとの見方が一般的である。この間、没落した武士階級や離散を余儀なくされた民衆がどれほどいたであろうか。この時代を理解するキーワードは四つある。「一揆」「惣村」「戦国時代」「戦国大名」である。次に角川『日本史辞典』等を参考にして述べておきたい。
【一揆】目的・方法などを同一にする人々の結合とその行動を云う『孟子』の「揆(道・方法)を一にする」が語源である。中世では寺院における僧衆、中小武士の戦闘集団、村落農民の闘争など多様な一揆が存在した。多くの場合、一味神水といって神仏を招き寄せて起請文を書いて誓約し、それを灰にして飲み交わすことによって成立する。南北朝・室町期の関東では、武蔵七党の系譜をひく武蔵・上野の白旗一揆、秩父系武士の平一揆などが活躍。時代が下るにしたがい同族団的性格から上州一揆・武州一揆という地縁集団に変化していった。このような中小武士の一揆は国人一揆といわれ、畿内とその近国では十五世紀後半以降、国一揆(惣国一揆・郡中惣)という形で国人と土豪(地侍)が特定の地域内で結集、守護の支配を排除して自治的政治支配を行うことが頻発した。山城国一揆・乙訓郡一揆などは有名である。一方農村では、荘園・公領ごとに年貢・公事の減免や非法代官改替などをめぐって荘家の一揆がおこり、徳政要求をかかげた徳政一揆も京都・奈良を中心におこった。中世末の一向一揆は強大であり、戦国大名や織田政権と武力抗争を展開した。
【惣村】 惣を軸にした自治的な村落。鎌倉末ころから、畿内や周辺地域に広くみられるようになる。山野や用水を共同利用するなど成員相互の結合を強くし,惣掟などの固有の法を定め、乙名を中心に自治的な運営を行った。年貢減免をもとめて団結し、地下請を実現するなど政治的な力を強めていった。内部には名主・小百姓・下人などの階層があったが、ことがおこれば惣村の成員が参加して寄合を開き、一味神水して土一揆を形成した。『日本史史料⑵中世』は「東国の惣村」として〔牛込武雄氏所蔵文書〕天正七年(一五七九)六月二〇日北条家裁許朱印状。〔吉野家文書〕天正十八年(一五九〇)二月十日高城氏黒印状を載せている。
【戦国時代】中世の時代区分の一つ。十六世紀ごろの戦乱がつづいた時代をさす。室町幕府が衰微し北条早雲らが台頭した十五世紀末から、豊臣秀吉による統一が完成した天正十八年(一五九〇)までの約百年間をさすのが一般的だが、織田信長上洛の永禄十一年(一五六八)以後を織豊時代(安土桃山時代)と区分する場合もある。幕府の衰微に伴い各地の地域権力が自立の動きを強め、広大な領国を支配する戦国大名が出現した。畿内などでは国人や土豪が郡規模で結集し、国一揆・郡中惣などの支配組織を作り上げた。加賀のように、一向宗門徒中心の一揆(一向一揆)が広域支配を行った場合もあった。これらの地域権力はこの時代に確立した惣村に対抗しながら支配を強化し、荘園公領制にかわる支配体制を模索した。こうして地域権力が分立していったが、結局は信長・秀吉による天下統一のもとに再編成され、幕府の全国支配のもとに分権的な藩が存在する幕藩体制という形になった。戦乱が続いたが、産業の発展は著しく、西洋の文化も流入し、文化的には活気のある時代であった。
【戦国大名】戦国期に広域の領土を一円的に支配した大名。東国では伊豆・相模・武蔵を制した後北条氏、駿河・遠江・三河の今川氏、甲斐から信濃に侵攻した武田氏、越後を拠点に上野や北信濃に侵攻した上杉氏といった強大な戦国大名が同盟と争闘を展開した。中国地方では大内氏・尼子氏が活躍し、のちにこれを滅ぼした毛利氏が広大な領国を得た。九州では大友氏・島津氏に竜造寺氏が加わり、戦国末期には四国の長宗我部氏や奥羽の伊達氏が急成長をとげた。彼らは家臣たちの知行地と知行高を定めてこれに応じた軍役を課し、戦争を行いながら家臣団の統制と強化に努めた。また検地などの方法で村と領民の掌握を進め、家臣や領民の紛争を処理するため分国法を制定した。大名は支配領域を国と称し、分権が完成するかに見えたが、織田信長・豊臣秀吉の全国統一の過程で滅亡と服従の選択にせまられ、自立性を弱められて江戸幕府の支配化に組み込まれた。