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戦国流転 大沢氏

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戦国流転 大沢氏


   大沢氏

江戸時代の出自に詳しい『寛永諸家譜』には、藤原頼宗流大沢氏と大沢の二家を載せている。『寛政重修諸家譜』も同様の二家を記している。

 頼宗流大沢氏は、遠江国敷智郡堀江(浜松市)を本拠とした土豪である。先祖は丹波国大沢(兵庫県)を領し、基長―家藤―基秀と続き、基秀の代の貞治年間に遠江国に移り、堀江城に居城した。基秀の子基久の代に大沢氏を称したが、その跡は不明な点が多く、基武―基利―基影―基輝―基房―基相と続いたらしい。(寛政譜)大沢氏は、遠江国敷智郡村櫛荘(浜松市)の領家職を有し、永正元年(一五〇四)と推定される今川氏親書状写(大沢文書)で、同国浜名郡尾奈郷(三カ日町)が領家に宛行われており、同年中に北条早雲から同内容の判物が同郷に発給されている(大沢文書/神奈川県史)。さらに大沢氏は天文四年(一五三五)今川氏輝から村櫛荘の領家方と尾奈郷の棟別銭を免除されている。(大沢文書)。基相の子基胤は、今川氏真方に属して堀江城で徳川家康軍と戦うが、のち徳川方に下り、永禄十二年(一五六九)遠江国敷智郡村櫛荘伊佐地郷(浜松市)同郡吉美荘内山郷(新居町)などの本知行を安堵されている(譜牒余禄)。その後は旗本(高家)として続く。



 家伝に曰く、大沢左衛門佐基久が後裔なり。基久より正信まで其世系を詳にせず。と『寛政重修諸家譜』にある大沢氏の項に次のよう記されている。

 正信 和泉守

  美濃国に住し、天文二十一年(一五五三)閏正月朔日の夜、男正秀と相はかり     

て生駒道壽某が守るところの同国鵜沼(或は宇留馬)城山の城をせめおと齋藤道三これを賞し、采地五千八百四十貫文余をあたふ。其後齋藤龍興織田右府(信長)のために稲葉山を没落せし時、正信もともに流浪し、某年死す。法名祐圓。美濃国鵜沼村の瑞泉寺に葬る。


 正秀 次郎左衛門

  父とおなじく美濃国にあり。のち齋藤道三に属して鵜沼城に住す。ときに豊臣太閤の

  すゝめにより織田右府(信長)に属せむとて共に清洲にいたりて右府にまみゆ。しか

  れども右府其変心あらむことをうたがいてこれを害せむとす。太閤いさむれども聞か 

  ず。よりてひそかに正秀に告るむねありしかば。すなはち太閤を質として其難を逃るゝ

  ことを得たり。右府事あるの後、太閤及び秀次につかえ、二千六百石を知行し、秀次

  ことあるのゝち流浪して、美濃国に住し、のち小田原の萬松院にぐ寓居す。このとき

  にあたり大久保相模守忠隣をもつてめさるといえども其翌日頓に病を發して死す。

  年七十六.法名 泰閑(今の呈譜 泰厳宗安)相模国風祭村萬松院に葬る。妻は齋藤

山城守正利入道道三が女。



 正重 又三郎 次郎左衛門 母は道三が女。

  慶長年中めされて東照宮に仕えたてまつり、下総国相馬葛飾二郡の内に於て采地

六百五十石を賜いて、大番をつとめ、のち大阪両度の役に供奉し、其後組頭となる。

  寛永二年七月十七日死す。年四十一.(今呈譜五十二)法名 長英。葬地 正秀に

  同じ。

龍源寺という寺が、八王子市加住町にある。貴重な月待板碑のある寺で、この寺の檀家に現在も大沢家がある。元治二年(一八六五)三月の大沢家文書によると、先祖の由来の概略は次のようである。

「……先祖宇津宮美濃将監藤原安藤与申者五代濃州宇留間之城主大沢次郎左衛門綱安長男将監秀綱……」

この大沢家も、幕臣大沢正秀家と同じように、織田信長によって宇留間城を追われている。その経緯は多少ことなっているが、秀吉の計略によって宇留間城を去っている。そして、関東の北条氏政に仕え、大沢次郎左衛門綱安は鉄砲大将となり、天正七年(一五七九)四月四日病死、孫の勘兵衛安□は天正十八年(一五九〇)六月二十三日八王子城で討死とある。二十八歳であった。

 犬山市東古券にある、大沢山本龍寺住職の大沢氏の系図につぎのような記載がある。

 「正重 次郎大夫、次郎左衛門 羽柴筑前守秀吉と約諾し、天正十年(一五八二)正月九日(永禄ヵ)、織田信長に降る。後濃州郡上郡祖師野に奔り、関東に赴く。」

この正重を大沢正秀とする説もあるが、大沢次郎左衛門綱安と同いつ人物ではないだろか。


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