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北条氏照家臣 土屋備前守

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北条氏照家臣 土屋備前守

 土屋備前守
 十四人上下         土屋備前守
   此内
    騎馬    安藤彦二郎
    鐡砲    安田伝右衛門
    歩鑓    伊藤弾左衛門
          向風次右衛門

 着到状以外にその名はないが、あきる野市横沢の大悲願寺過去帳によれば、八王子城で討死の人々の名前に「土屋備前」となっている。その記載順序が、「中山勘解由、狩野一庵、近藤出羽、土屋備前……」となっていることから、身分が高かったと推測できる。武田家の土屋氏と関係深い人物と思われる。
○雄山閣版『新編武蔵風土記稿』第七巻二三四頁に、安立郡上青木村の名族として「…宗信寺…寛永六年村民土屋冶郎左衛門が父豊前守追福のため今の地に移し、本寺十九世の僧を請じて中興開基せり、則父豊前守が法諡及び己が逆修の法號を取て、長陽山宗信寺と號すと云、かの豊前守は甲斐國武田氏に仕え、同國にて卒せりと云のみにて、其傳詳ならず、…」とある。
○北条氏照ヵ朱印状写(土屋和夫氏所蔵文書)に「此度才原、敵打捕候、神妙ニ被恩召候、仍俵子被下候、向後弥軽身命於走廻者、御恩賞仁望可被与旨、被仰出者、也、仍如件、
(天正八年)辰(印文未詳朱印)六月八日 土屋五郎左衛門」とある。
〔解説〕天正八年五月十五日、北条氏照の軍勢と甲斐の武田勝頼の軍勢が西原峠(東京都桧原村)で合戦に及んだ。その時、氏照配下の土屋五郎左衛門が戦功をたてた。そこで氏照が感状を与えたもの。西原を才原と書いている(下山冶久著『八王子城主。北条氏照』)。
また、土屋和夫家には、天正八年(一五八〇)卯月十九日柏木野の坂本四郎右衛門繁直と共に、小河内に攻め入り、才藤六を打取ったときに、戦場で平山氏重より賜わった直筆の感状がある。そこに「…土屋内蔵助との」とある。この人物は土屋五郎左衛門であろう。
○雄山閣版『新編武蔵風土記稿』第六巻五八頁に次のようにある土屋氏。
「…舊家 百姓勘平 先祖は甲州武田家の家臣土屋右衛門尉直村の三男にて、土屋越後守宗昌と號せしが、天正十七年に當村(あきる野市五日市)に来たりて農民となれりと云う、…」。土屋右衛門尉直村は土屋右衛門昌次と同一人物であるらしい。土屋右衛門尉昌次は(平八郎・右衛門尉・法名道官)武田信玄家臣。侍大将。金丸虎義の二男。元亀二年(一五七一)、三河賀茂郡の遠征、同三年、三方ヶ原の戦で戦功をあげる。天正三年(一五七五)長篠の戦で戦死した。その子、土屋越後守宗昌が北条氏照に仕えていた土屋備前守の元に来たのである。北条氏が滅亡する天正十八年八月の直前に五日市村(あきる野市五日市町)に来住しているのは、土屋豊前守と同族の縁を頼っての事であろう。武田家が滅亡したのは、天正十年三月であるから、その間の空白がある、何処でどうしていたのであろうか。後に、徳川家に仕ええた土屋氏も同様であるらしい。北条氏家に仕えた土屋氏、今川家に仕えた土屋氏、武田家に仕えた土屋氏がある。徳川家に仕えた土屋氏は『寛政重修諸家譜』にその系譜がある。
○武田家滅亡に際し、上野国(群馬)まで逃げた者がいる。武田二十四将の一人小幡虎昌・昌盛の本貫地である児玉郷に逃れ、帰農したと言う土屋源左衛門、勝頼十六将の一人で軍用金をもって土谷沢(群馬県下仁田)に落ち延びた土屋山城守高久。また、信州の伊那には土屋惣蔵昌恒の子である宗右衛門が瑞光禅院に落ちて来たという、その外、伊豆の下田に土屋外記、勝長、玄蕃の三人が落ち延び隠れ住んだという。
○土屋氏は桓武平氏中村氏族。相模国大住郡土屋村より起こる。中村荘司宗平の子宗遠が土屋弥三郎と称したのに始まるとされている。豊前守氏遠の時、武田氏に仕え家臣となった。それとは別の土屋氏がある。足利氏の一族一色氏満範の弟範貞を祖とする家で、範貞の曾孫一色藤次が甲斐に下り、武田氏の支流金丸氏の家名を継いだ。戦国時代に、金丸虎義の子が土屋氏の家名を継いで、土屋氏となったものである。
○武田家には土屋備前守がいる。岡部忠兵衛晴綱を以て直村名蹟とした土屋備前守である。この人物は土屋右衛門尉昌次の養父であるが、それらの経緯は少し判り難い。長篠の戦いで戦死した。


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